219手目 恐れを知らない少女
「団体戦で当たるのは、2回目か?」
菅原先輩は、駒を並べながら尋ねた。
「そうですね。去年の秋以来です」
「ま、俺も今年で卒業だし、よろしく頼むぜ」
「こちらこそ」
駒を並べ終えた私たちは、1番席を見やる。
「振り駒をしてください」
運営の指示に従って、八千代先輩が振り駒をした。
「……駒桜市立、偶数先です」
「天堂、奇数先」
私が先手か。
「えっと、左利きですか?」
「ああ」
チェスクロの位置は、そのままにしておく。
会場内は静かになり、だんだんと緊張感が高まってきた。
この空気は、ほんとに慣れない。
「それでは、対局を始めてください」
「よろしくお願いします」
一礼して、菅原先輩がチェスクロを押した。
対局開始。7六歩。
「ま、普通にいくぜ」
3四歩、2六歩。
「居飛車か……5四歩だ」
これも予想通り。ゴキゲン中飛車で間違いない。
2五歩、5二飛、4八銀、5五歩、6八玉、3三角、3六歩、4二銀。
本当に普通の出だしになった。
ここは超速を選びましょう。3七銀。
「さて……どうしたもんか……」
菅原先輩はニット帽を被り直して、それからテーブルを人差し指で小突いた。
「クマるってのもあるが……」
その場合は、相穴熊ね。
「4四歩」
これは……どっちを選んだ? 穴熊? それとも美濃?
とりま、4三銀と上がる布石でしょうね。5三銀〜6二銀型の振り穴は、放棄してるわけか。どちらかと言うと、急戦気味かもしれない。確信はないけど。
だったら、超速らしく、いきなり仕掛けるのもありだ。例えば、7八玉、4三銀と上がった瞬間に、3五歩。以下、同歩、4六銀と出て、歩の掠め取りを狙う。3六歩の伸ばしに、2六飛、5六歩(これに代えて3四銀は、3五歩、4三銀、3六飛で後手不利)、同歩、同飛、2四歩、同歩、3五銀の速攻。菅原先輩はおそらく、7六飛と寄ってくるはずだから、7七角と受けて……4五歩かしら?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
先手が速攻なんだから、後手も受けて立つしかない。
うっかり3三角成は7八飛成で終了。かと言って、7七角成、同桂の形はお断りしないといけない。ということは、8八銀か6八銀と上がって、7七角成、同銀、7四飛とか? 8八は壁になるから、6八の方がいいかしら。どちみち角成ってくると思うけど。同銀、7四飛の瞬間に3六飛は2七角が気になるけど、5六飛と王手して……ん、ダメか。5五歩と打たれて、同飛、5四歩、5九飛は、次の3六角成が面倒。むしろ3六飛は保留したまま、6五角と空中に放って、飛車角交換を強要したい。
私は意を決した。
「7八玉」
「4三銀」
「3五歩」
いきなり仕掛けた私に、菅原先輩は「おッ」という顔をした。
「団体戦だってのに過激だな」
固め合いと急戦なら前者、ってわけでもないと思うのよね。特に菅原先輩はゴキゲン穴熊も指すから、堅さでリードが取れるわけでもないし(厳密には居飛車穴熊の方がいいのかもしれないけど)、読み合い勝負。
菅原先輩は耳のうしろを掻きながら、しばらく考え込んだ。
「……受けて立つぜ。同歩」
4六銀、3六歩、2六飛、5六歩、同歩、同飛、2四歩、同歩。
意外とペースが速い。どうやら、菅原先輩も経験済みの形みたいだ。
私は行きがかり、3五銀と出た。
「この形は、プロでもあるぜ。7六飛だ」
「7七角」
菅原先輩は、すぐに4五歩と突き出した。
予定通り6八銀と上がる。
ここで交換してくれるなら、話は早い。けど、交換してくれなさそう。読み直してる途中で気付いたけど、いきなり7四飛と引く手がありそうなのだ。こっちから角交換は不可能だから、そこで2四銀と突っ込むしかない。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
同角で銀損に見えるけど、同飛、同飛、1一角成で、すぐに駒損は回復でき……ないか。2九飛成で、またバランスが崩れるわね。しかも、それが金当たりになっている。一応、1一角成のところで1五角という凖王手飛車も見えるんだけど、それは2八飛打、2四角、同飛成と、龍を作られてしまう。若干損だ。
パシリ。7四飛が指された。
「交換はしないぜ」
了解。そこは予想済み。問題は、さっき読んだ2四銀の変化だ。2四同角、同飛、同飛に1一角成が利かないとなると、構想が破綻しちゃう。私はちょっと焦った。
かと言って、2四角に同飛以外はありえないし……私はお茶を取り出して、キャップを開けた。こういうときは、リフレッシュするに限る。ごくごく。
……ふぅ、気を取り直しましょう。2四同飛が成立しない現実を見つめる。だとすれば、何か捻った手を指さないといけない。あるいは、2四銀自体を諦めるとか。
……………………
……………………
…………………
………………
5四歩とか、どうかしら?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
同銀は2四飛で論外。5二金左とか受けるのも、同じく論外。
だから同飛しかないけど、そこで1一角成と成って、ひとまず銀香交換まで戻す。そしてこの1一角成が、香車を拾ってからの5五香王手飛車。これがあるから、3三桂と逃げる暇がない。ひとまず飛車を移動させるか、あるいは6二玉と逃げる一手。おそらく6二玉。囲いながら逃げた方がいい。その瞬間に2一馬とすれば、銀と桂香交換まで修復。これが銀当たりで、しかも後手に有効な手があるとは思えない(ここ重要)。5二金左くらいだ。
「……あれ?」
「どうかしたか?」
「い、いえ、なんでもないです」
私は慌てて、その場を取り繕った。
……5二金左って、2四飛、同飛、3五角が王手飛車よね? 4四飛、5六桂……は7六飛で桂馬を抜かれちゃうか。だったら、4四同角、同銀、4一飛……これは2八飛がある。うむむ、王手飛車をかけても、そこまで簡単じゃないみたい。ただ、先手悪いはずがない。
私はもう1分読み直して、2四銀と出た。
「強いな」
菅原先輩は、意外そうな、それでいて感心したような口調。
「そういうの、嫌いじゃないぜ。団体戦は堅めたがる奴が多いからな」
チームプレイだからね。負けにくいのを選ぶのは、しょうがない。
「同角でなんかあったらマズいが……」
菅原先輩も読みを入れる。
この時点で、持ち時間は私が19分、菅原先輩が20分。
乱戦調になってるから、お互いに結構使っている。
「30秒将棋ならノータイムで同角なんだが、なんか怪しいな」
まあまあ、そう言わずに。
「とはいえ、こうなったら同角と取るしかないな。同角」
私は10秒ほど間を置いて、5四歩と置いた。
「やっぱそっちか」
あらら、読まれてましたか。さすがは四天王の一角。
「まあ、裏見レベルで2四同飛、同飛、1五角はしてこねえよな」
菅原先輩はそう言いながら、5四同飛と取った。
1一角成、6二玉、2一馬、5二金左。
はい、読み筋通り。
というわけで、さっきの王手飛車を敢行するかどうかが焦点になった。菅原先輩が気付いてないわけがないから、ここは慎重に。
さっき読み直してみたら、どうも即座に王手飛車はダメみたいなのよね。ダメというか、その先が芳しくない。先に攻撃の拠点をもうひとつ作ってから、2四飛を強行したい。例えば、5九香あるいは6六桂。これなら、バラバラにしたあとで、5筋から突っ込むのが強烈な攻めになる。
私は順番に読んだ。5九香、5五歩、2四飛、同飛、3五角、4四飛、5五香、5四歩、同香、5三歩、4四角、同銀、4一飛。これは大成功。香車が死ぬ前に、相当暴れることができそうだ。でもでも、5五香に7五飛という手がある。7七銀、5五飛と香車をタダ取りされては、万事休す。却下。
次は、5九香に代えて6六桂。逃げる場所が悩ましい……7四はなくて、8四もないような気がする。8六香の串刺しがあるからだ。3四はちょっと怖いかなあ。3五歩、同角、2三飛成……そうでもないか。これは2四飛で受かってるわね。むしろ3五歩じゃなくて1二馬と入って……も意味なさそう。3四飛はあるっぽい。
とかなんとか読んでみたけど、本命は4四飛でしょ、さすがに。
私は6六桂と打った。
「8四飛」
え? 8四? なんで?
8六香が怖くないの? 8六香、4四飛、2四飛、同飛、3五角、4四飛、8三香成……これは絶対こっちがいいでしょ。いきなり左右挟撃形よ。ブラフ? ブラフなの?
私は混乱する。相手が箕辺くんとかなら(失礼だけど)、すぐに8六香だ。見落としだと思うから。でも、相手は菅原先輩。そこの信用差は大きい。
私は見落としがないかどうか、白紙に戻して考え直す。
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…………………
………………
あ、そっか。4四飛が勝手読みなんだわ。4四飛打よ。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
同角、同銀、5四馬、5三銀、4五馬、7二玉。これは8三香成とする暇がない。もちろん、一直線の読みだから、抜けてる可能性もあるけど……馬の動きに自信がもてない。次の2九飛成を防げないと、若干先手悪いかしら。
いずれにせよ、菅原先輩が8六香は大丈夫だと考えている理由は分かった。8三香成を入れられないなら、8六香は明らかに不発。打たずに2四飛の方がマシだ。ただ、それでも同飛、3五角に4四飛打だと思う。以下、同角、同飛……じゃなくて、同銀。そこで5四馬と銀取りに当てるのは、5三銀の返しがあってうまくいかない。逃げたら2九飛成。
……マズい。4四飛打の見落としが致命傷になってるかも。先手不利な予感。
「ちょっと席外すぜ」
菅原先輩は立ち上がると、他の対局を観に向かった。
1番席から順繰りに覗き込んでいる。余裕の現れ。
私はそんなことをしてる暇がないから、必死に読む。
……いっそのこと、3五角の王手飛車を捨てる? ……いや、ダメだ。他に手がない。ここまでその路線で来たから、その筋以外に仕込みがなかった。ということは、4四飛打の時点でなんかしないといけない。例えば……うーん……。
私は目を閉じて、眉毛を撫でつつ読みに没頭した。4四同角は、うまくいかない。2四角と取っても、同飛が馬と桂馬に当たってしまう。
もっと変わった手をひねり出さないと……。
「わりぃな」
菅原先輩が戻ってきたところで、私は顔を上げた。
目が合う……ん? 微妙に顔色が曇った?
もしかして、他が勝ってるの?
私は見に行きたい衝動に駆られるけど、我慢。
……………………
……………………
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………………
馬を切るしかないか。2四飛がこの馬に当たってるから困るわけで、どっかで銀と交換する手はあるかもしれない。そもそも、2四飛−4四飛の形は、攻めに使うはずの飛車を2枚とも四段目に据えてるわけで、疑問と言えば疑問。4四飛打の瞬間に4三馬と切って、同金に4四角、同飛とズラすか、あるいは同金で4二飛のスペースを確保。これのどちらかだと思う。直感的に後者が有力。4四飛は立ち往生してしまう。
「2四飛で」
私の指し手に、菅原先輩は一瞬顔をしかめた。
「8六香とは打ってこねえか」
やっぱり罠だったわね。
「同飛だ」
「3五角」
私の王手飛車に、菅原先輩はすぐさま反応した。
「4四飛打」
きた。
私も即座に返す。4三馬。
「過激だな、おい」
同金、4四角、同金、4二飛。
「攻めが切れたら俺の勝ちだぜ。5二歩」
一番単純な受けか……これは予想していた。
3三銀の空中割り打ちが見えるけど、それは2九飛成が金当たりで、なんの解決にもなっていない。もっと厳しく迫らないと。5三歩とか。以下、2九飛成、5二歩成、同金、4四飛成、4九龍、5四桂、7二玉に、5九香と打ち返す。これが自陣を防御しつつ5二の金を狙って好打。5三歩と打たれたら、4二桂成と成っておけばいい。むしろ気になるのは、5八歩、同香と吊り上げてから、5三歩。今度は6九の金を龍が睨んでるから、なにかうまい手で寄ってしまうかもしれない。7六桂と置かれるくらいでも怖い。
私は一息吐いて、水分補給。さらに持ち時間の確認……げッ! 残り10分じゃないッ! 菅原先輩は17分残してる。考え過ぎた。
こうなったら、想定局面までは進めましょう。5三歩。
「5一銀」
ぶぅううううううううッ!
お茶を吹き出しそうになる。
め、めちゃくちゃ外れた……これ、もしかして読み切られてる? 私の負け?
私は脳を高速回転させる。受けたってことは、2九飛成だと潰れてたわけよね。それともこっちの受け潰しを狙ってる? 菅原先輩の表情からは読み取れない。さっきの曇り顔は消えていた。心配ないと踏んだのか、それとも……。
行きがかり、5二歩成とするしかない。同金と飛車に当てる一手で、4一飛成。そこで2九飛成と突っ込んでくれたら、4四龍、4九龍、5九香。さっきと似た順になる。違うのは後手の陣形に銀が1枚加わっていること。
4一龍に2九飛成としないで、4三角と抵抗するのは、3三銀、2九飛成、4四銀成、4九龍、5九香、5三歩、4三成銀で、こっちが明らかにいい。
私は5二歩成とした。同金、4一飛成。
「適当な受けがありゃいいんだけどな……」
菅原先輩は、そこでようやく小考した。
その間も、私は2九飛成のバージョンを考える。4四龍、4九龍、5九香、5八歩だと仮定して、そこでどう攻めるか、あるいは受けるか。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
一番単純なのは同香だけど、5三歩と受けられて、次の手が難しい。後手は7六桂と置くくらいで勝てそう。5九歩と打ってるようでは、5筋を抉じ開けられなくて万事休す。ここで5三歩〜5二歩成が王手なことを利用して、取らずに5三歩がありそう。5九歩成と5二歩成の成り合いは、さすがにこちらが勝ち。だから5三同金で、5四桂、7二玉なら5三龍が再度銀当たり。5八歩と打ってるから5二歩と受けれず、5二金、6二金、同銀右、同桂成。これを同銀なら5二龍、同金なら5一龍が詰めろ。
ふむふむ。どうやら金を逃げるのは、先手が優勢のようだ。ということは、5四桂に間違いなく同金と取ってくる。同龍、5二金(ここでも二歩になるから5三歩と打てない)、5八龍と歩を払えば、攻撃しながら自陣を安全にできる。以下、同龍、同香、5三歩が一例。
だいぶ手応えを感じてきた。
思い返せば、菅原先輩とは団体戦で一度当たっている。
あのときは長手数の詰みで討ち取られてしまった。
でも、私はあれから精進して、パワーアップしてるのよ。
四天王だからって、恐れないッ!