20手目 籤を引く少女
6月の日曜日。私はあの公民館に来ていた。気分は……そこそこ高揚してる。だけど、あんまり煮え切らないところもあった。だって、なにがなにやら分からないんだもの。個人戦は今回が初めて。団体戦とはまた雰囲気が違うみたい。
それにもうひとつ、私はこの一ヶ月でかなり自信をなくしてしまっていた。歩美先輩に結局一回も勝てなかったのだ。二十連敗くらいしてるんじゃないかしら。正直ショック。対局してるって言うより、稽古をつけてもらってる感じ。八千代先輩は、相性が悪いだけだって言ってくれたけど……どうなんだろ。分からない。実際、歩美先輩の方がおじいちゃんより強いという印象はなかった。それで勝てない原因がどこにあるのか、私はついに見つけることができなかった。
「裏見さん、どうぞ」
私の名前を呼ぶ声。知らない他校の男子だ。手には即席の白い箱を持っている。
そう、抽選。私は箱の穴に手を突っ込み、中にある紙切れを一枚取り出した──1番。
「1番、駒桜、裏見っと……」
べつの男子が、ホワイトボードに私の名前と校名を書き入れた。
私が最後だから、これで籤引きは終わり。トーナメント表はずばり──
そばにいた八千代先輩は、大興奮。
「これは大々々チャンスですよッ! 2回勝てば決勝ですッ!」
応援部で忙しい冴島先輩以外、全員来てくれたのよね。
嬉しいけど、これはプレッシャーが半端ないわ。
しかも1回戦が横溝さんことヨッシーなのもマズい。
八千代先輩の話が正しいなら、今年の新人戦で三強なのよね。12人しかいないけど。
数江先輩はなんだかもじもじして、
「なんだか緊張してきたよ」
と言った。いや、あなたが緊張しなくても。
「すみません、日曜に応援に来てもらって」
私が謝ると、志保部長はにっこりと笑う。
「いいんですよ、部員の応援も楽しいですからね。他の高校の人も、結構来てますし」
私は会場を見回す……うーん、確かに凄いわね。選手が12人しかいないのに、その倍以上人がいるし……あ、千駄さんと姫野さんも来てる。それぞれ辻くん、鞘谷さんとなにか話してるわ。
あれ? 横溝さんは?
「おはよう、香子ちゃん……」
「うわッ!?」
私が飛び上がって振り返ると、そこには噂をしたばかりの横溝さんが立っていた。
なんだか凄く眠そう。というか、顔色が悪い。
「お、おはよう……寝不足?」
「うぅん……私、低血圧なんだよね……」
ああ、そういう……案外将棋も弱って……るわけないか。
鋭い目付き。私を敵だと認識してるみたい。まあ実際に敵なんだけど。
横溝さんは、
「端の山に入ったのはいいけど、香子ちゃんと当たるのはツイてないなあ……」
と言った。
「私もヨッシーと当たるのはツイてないわ」
と私。
お互いにお世辞を言い合うけど……本心は……やっぱりツイてないと思う。もちろん、横溝さんがなんて思ってるかは知らない。「1回戦からこんな雑魚と戦えてラッキー」なーんて可能性も否定できないのよね。口ではなんとでも言えるし、横溝さん自身、困ったような顔はしていないから。
だけど、私は本当に困ってる。まず、私のほうが大会慣れしてない。それに、横溝さんは私の将棋を見ちゃってるから、情報アドバンテージもない。そして3番目……これが一番大きいんだけど、横溝さんは普通に強いと思う。あのメックでの指摘は鋭かった。
私が鬱々としている中、横溝さんは不器用な笑顔を見せた。
「それじゃ、おたがい頑張ろうね」
「ええ……お手柔らかに……」
横溝さんは姫野さんのところへ戻って行った。
鞘谷さんにアドバイスを終えたのか、今度は横溝さんと姫野さんが会話を始める。
……羨ましい。私も主将からなにかアドバイスを……でもどこに……。
「香子ちゃん」
「うわッ!」
私は首を引っ込めた。いつの間にか、歩美先輩が後ろに立っていたのだ。
そのステルス機能、マジで止めてください。心臓に悪いです。
「なにを驚いてるの?」
「い、いえ、ちょっと気合いを……」
苦しい言いわけ。
「……そう」
ん、誤摩化せた? それはそれでどうかと思う。
私が黙っていると、歩美先輩はひとりで先を続けた。
「あなた、横溝さんと友だち?」
「友だちって言うか……知り合いです」
「彼女、あなたが振り飛車党だと思ってる?」
へ? ……思ってる? 私は振り飛車党なんですが。
最近気づいたけど、歩美先輩の思考回路は本当に謎めいてる。ただの将棋キチじゃない。日常生活もめちゃくちゃなのだ。「デザートは先に食べるものよ」とのたまって、カレーの前にプリンを食べてたり、「赤点を取ると、追試で簡単な問題が出るのよ」とうそぶいて、中間考査の半分くらいが赤点だったり。
まあ、後者は単に成績が悪いってことなんだけど、それは置いといて──
「たぶん、思ってるんじゃないでしょうか」
私はそう返した。
すると歩美先輩は、ピンと人差し指を立てた。
「それは好都合だわ」
なにがですか? とりあえず解説待ち。
「いい、香子ちゃん、1回戦は振り飛車にしなさい。彼女は純粋な振り飛車党だから、先後関係なく相振りになるはずよ」
ええ、そうでしょうね。それは予想済みです。
おそらく先手向かい飛車vs後手三間なんじゃないかと思う。
「で、2回戦も同じように振り飛車にしなさい。2回戦の相手は多分大したことないわ」
歩美先輩はそう言いながら、2本目の指を立てた。
それに対する私の反応は──
「は、はい……」
これはアドバイスなのかしらん? 私にはさっぱり分からない。
裏切って姫野さんに助言してもらったほうがまだマシなような。
私がそんなことを考えていると、歩美先輩は3本目の指を立てた。
「で、3回戦は居飛車にするのよ」
「え……? 居飛車……?」
「あなた、居飛車指せるんでしょ?」
「さ、指せますけど……」
私がうなずき返すと、歩美先輩も首を縦にふった。
「この前の対姫ちゃんの矢倉、あれならそこらへんの居飛車党よりよほどうまく指せてるわ。振り飛車並にはいかないかもしれないけど、十分通用するはず」
「えっと、なんで決勝だけ居飛車なんですか?」
私が質問すると、歩美先輩はびっくりしたような顔をする。
何で分からないの、という感じの表情。いや、わからんがな。
「香子ちゃんは、学生棋界だとまだ名前が知られてないわ。おそらく、今日の1回戦目であなたの棋風を判断する人が大半よ。第1局が相振り飛車、第2局も振り飛車となれば、あなたは振り飛車しか指さないと勘違いする人が増えるでしょう」
なるほど……私はそこでようやく気付いた。歩美先輩、結構セコい戦略を考えるのね。見直した。私もそういうの嫌いじゃないし。
しきりに感心する私だったが、あることに思い当たる。
「で、でも、姫野先輩は私と矢倉を指したから、藤女にはバレて……」
「藤女には、でしょ? 横溝さんと鞘谷さんにフェイントは効かないでしょうね。おそらく姫ちゃんも、彼女たちにそうアドバイスしてると思う。『裏見は居飛車も指せるから注意しろ』って。でも、決勝は鞘谷さんじゃなくて辻くんの可能性が高い。辻くんは1回戦と2回戦の結果から、あなたが振り飛車党と判断するはずよ。そこで居飛車に持ち込めば翻弄できるかもしれない。辻くんは穴熊を指すから、今のあなたじゃ勝てないわ」
そこでアドバイスは終わった。私は先輩の作戦を完璧に理解した。
「辻くんは矢倉党ですか? それとも角換わり?」
歩美先輩は返事をせず、八千代先輩に視線を移した。
八千代先輩は眼鏡の位置をなおす。
「辻くんは矢倉党です。7六歩、8四歩の出だしなら、ほぼ矢倉で決まりかと」
よし……それならなんとかなりそう。私は歩美先輩を信頼することにした。
「それでは、新人戦を開始しますので、選手の方は着席してくださいッ!」
役員の大声。それぞれのグループから、1年生が次々と移動を始めた。
「ま、気楽にやりなさい」
歩美先輩の呑気な声をエールに、私は対局席へと向かった。1番の札が貼られたテーブルは、会場の一番奥。トーナメント表を背後にした、なんとも目立つところにある。椅子を引いたところで、横溝さんも姿を見せた。
よろしく……という雰囲気でもないわね。顔が真剣過ぎるから止めときましょ。
横溝さんはチェスクロを確認し、それから私に手を差し伸べる。
なに? 握手?
「香子ちゃん、どうぞ」
どうぞと言われても……なんのことでしょうか。
私がきょとんとしていると、横溝さんはもう一度くちびるを動かした。
「振り駒は香子ちゃんでいいよ」
あ……そういう……いや、別に私がやらなくてもいいんだけど……譲られたなら、私が振りましょうか。こんなの譲り合っても意味ないし。
私は歩を5枚握り、カシャカシャかき混ぜてから宙に放った。
ぱらりと音がして、ビニール盤の上に歩が3枚出た。
おっと、ここでいきなり先手ですよ。私は歩を元の位置にもどす。
会場は静か。ただ、団体戦のときほどではない。あちこちでひそひそ話が聞こえる。
私は姿勢を正して、対局開始の合図を待った。
「……それでは始めてくださいッ!」
よろしくお願いしますの大合唱。横溝さんがボタンを押し、私は7六歩と突いた。
横溝さんは10秒ほど考えて、3四歩。私が6六歩と角筋を止めると、横溝さんの顔色が微妙に変わる。私が居飛車を採用しなかったら、ガッカリしてるのかしら。
横溝さんは30秒ほど考えて、3五歩。
はいはい、この出だしはドンと来いよ。私は6八銀と上がる。
3二飛、6七銀、6二玉、7七角、7二玉、8六歩、3六歩、同歩、同飛、8八飛。
全く予想通りだわ。向かい飛車vs三間飛車。相振り飛車で一番多い形……と、部室に置いてある本に書いてありました。まあ、経験的にもそんな感じだけど。
横溝さんはすぐに3四飛車と引いた。2八銀、1四歩、8五歩、3二銀、5八金左、4四歩と来て、私は少し考える。8四歩の交換を先に入れるか、それとも6五歩と角道を先に開けるか……8四歩、同歩、同飛、8三歩、8六飛は、4五歩で逆に角筋を通されちゃうか……それなら、先に突いときましょう。
6五歩。さらに4三銀、4八玉、1三角。
あ、端から覗く作戦。これには一回7五歩と突く。
8二銀、8四歩、同歩、同飛、8三歩、8六飛。
オッケー。これで飛車の横利きが通ったわ。
横溝さんは5二金左と上がった。私も囲いたいけど……3七歩と打って、3八玉〜4八金直……ううん、ちょっと工夫して、矢倉を目指してみましょう。3七銀、と。
私がチェスクロのボタンを押すと、横溝さんは5四銀と出た。これは予想通り。5六銀とすれば受かって……ん、でも、それだと飛車の横利きが消えるわね。例えば、5六銀、3三桂、3六歩、4五銀、同銀、同桂、4六銀、2八銀。
うーん、これは後手の攻めが続きそうかしら。気持ち悪い。
3三桂馬を間に合わせないようにするには──
私は盤面に集中した。呼吸が細かくなる。会場の騒音が消えて行く。
……あ、いい手がある。2六銀はどうかしら? 6五歩を取られちゃうけど、それは2五銀で良し。3五飛は1四銀、2二角、2三銀成だし、3三飛車は3四歩で追い払える。あるいはいきなり4四角と飛び出しても良さそう。
うん、これがいいわ。私は2六銀と指した。
私はチェスクロを押して、少し視線を上げた。怪訝そうな横溝さんの顔が映る。
ん? もしかしてこの手、読んでなかった?
私がちら見していると、横溝さんはハッと目を細めた。
「そっか……」
そうそうそう、そうなのよ。6五歩は放置できるのよ。どうやら横溝さん、5六銀の一手と読んでたみたいね。唇を堅く結び、真剣に読み耽っている。
私が自分に頷いていると、ふと誰かの視線を感じた。首を45度反らす。
ひ、姫野さんッ!? なんと横溝さんの後ろに、姫野さんが立っていた。あいかわらず美人だけと、凄く怖い顔をしている。喫茶店で見せたのとは、また違う顔。もしかして、横溝さんのミスに気付いたのかしら。姫野さんなら十分にありうるわね。
ん? そう言えば、さっきから私の後ろにも誰かいるような……私が振り向くと、そこには駒桜女子将棋部の面子がずらりと並んでいた。部長と目が合う。
こ、これは緊張する。勘弁してよ。部対抗の応援合戦みたいじゃない。
私が戸惑っていると、ぱちりと駒音がした。私は盤面へと視線を戻す。
2二角。
やっぱり、横溝さんの手順は無理気味だったみたいね。1三角〜2二角は一手損してるもの。これはチャンス。
私は継続手を探す。一目3五歩だ。3二飛、3六飛、6五銀、3四歩は、もうこっちが優勢でしょ。次に3五銀〜4四銀としていけば、そのまま潰せるはず。6五銀に代えて4五銀は、3八飛車と引いて、後手から速い手がないわよね。
あれ、でも先手からも速い手がないか……例えば6二金直と締めて、こっちは3四歩と突けないから、4六歩、同銀、4七歩、3七歩、同銀、同銀成、同飛、2八銀……これは面白くないわね。同銀のところを同桂なら、3五銀、2五桂、2六銀……じゃないわ。それは3二飛成で後手が終了よ。だから、同桂には……3六歩? それでも4六歩、3七歩成、同飛で私が良さそう。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
いっそのこと、3五銀でも3六歩でもなく、3七同銀成は? 同飛に4五歩と突いて、2二角成、同飛、7七角、1二飛、3四歩、1八角。3四歩に代えて一回3八金と受けたら、8七角かしら? あるいは4六歩、同歩、5四桂。
どっちも後手が冴えない。ちょっと戻しましょう。6二金が緩手かも。今の局面を見る限り、1五歩の方が良さそうね。そこからさっきと同じように、4六歩、同銀、4七歩、3七歩、同桂、同銀成、同飛、4五歩、2二角成、同飛、7七角、1二飛はどう?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
そこから3八金、1四飛、2二角成は8四飛車で後手も指せる。っていうか、後手優勢かも。2二角成に代えて3四歩、1三桂、1六歩、3六歩、同飛、2四桂、3七飛、1六歩も、こっちが悪いわね。次は3六歩の飛車取りがあるし……。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
うーん、意外と難しいか。もうちょっと明快な手順はないかしら。
私は盤面を睨む。この形、王様の周辺を攻めるのは逆に良くない。相振りだと、意外とお互いの角の頭が弱ったりするのよね。今だって、2三の地点がスカスカ。でも、今は2六飛車と回れないし……ん、2六飛車? ……なんだ、回れるじゃない。
私は思いついた筋を丁寧に読んだ──行ける。
そう結論づけた私は、2六の銀に手を伸ばした。