210手目 トライする少女
か、完全にハメられた。
この子、藤女の将棋部員でしょ。
「それでは、対局スタート」
「よろしくお願いします」
司会の合図で、私たちは一礼する。
チェスクロを押して、対局開始。
「初手は、7六歩です」
あまりにも一般的な初手。棋風が分からない。
こっちで態度決定するしかないわね。
居飛車か、振り飛車か……。
《いきなり考えてるね》
《この2手目は、結構大事ですよ》
司会のおじさんと猫山さんの掛け合いが始まった。
スピーカーから、声が聞こえてくる。
「……8四歩」
居飛車決め打ち。
「待ってました。6八銀」
矢倉……ということは、純粋居飛車党の可能性が濃厚。
私の方は、情報が筒抜けになっているかもしれない。なんで仇討ちなんか考えたのか分からないけど、彼女ひとりの発案じゃないと思う。部ぐるみでやってるような……。
3四歩、6六歩、6二銀、5六歩、5四歩、4八銀、4二銀。
内木さんは、しなやかな手付きで、ばしばし指してくる。
この時点で手練と分かる動きだ。
5八金右、3二金、7八金、4一玉、6九玉、7四歩。
「7七銀」
ん、これは……定跡からズレた?
定跡は6七金右のはず。もちろん、あくまでも定跡ってだけだけど。
私は26秒まで考えて、5二金と上がった。
7九角。あ、3一角が間に合わない。3三銀。
「3六歩」
「3一角」
「3八飛」
3五歩早仕掛け……この局面で、成立するの?
30秒将棋だから、なんとでもなるかもしれない。
部室で読んだ矢倉の本を思い出しつつ、策を練る。
「……4四歩」
確か、これが受けの定跡だったはず。
「3五歩です」
《攻めましたね。これは矢倉の先手急戦です》
《キュウセンというのは?》
《速攻を仕掛けることですよ》
司会のおじさんは、どうやら素人らしい。
3五同歩、同角に4三金右。
《裏見さんも、さすがに間違えませんね》
もちろんですとも。
内木さんは4六角と引いて、飛車に当てた。
7三銀、7九玉、6四角、5七銀、3一玉。
一転して、囲い合いになる。
「8八玉」
「8五歩」
「1六歩」
端か……突き返すかどうかだけど……。
角に睨まれてるから、突き返さない方がいいかも。2二玉。
「受けないのですね」
内木さんは、ここで少し考える。
「……1七桂」
ぐは、攻め将棋。
姫野さんと言い、春日川さんと言い、どうして藤女には攻め将棋が揃うかな。気性が荒いんじゃないの。カルシウム不足。
「3四歩」
「1五歩」
内木さんは、どんどん端を伸ばしてくる。
これはもう、後手から攻めるのは間に合いそうにない。
受け、受け、受け。2四銀。
「6五歩」
内木さんは、宮田流の歩突き。
5三角と引くのは、プレッシャーが消えて困る。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「4六角ッ!」
私の角取りに対しても、内木さんは動じない。
悠々と同歩。
「ずいぶんと余裕ね」
「若さってやつです」
はあ? 私が、おばさんだって言うの?
……今のはプッツンきた。
アイドルでちょっと可愛いからって、粋がってるんじゃないわよッ!
《おおっと、裏見さんから、ただならぬオーラを感じますよ》
庶民パワーを喰らえッ! 6二銀ッ!
「え? 角打っちゃいますよ?」
「どうぞ」
私の返事が早かったからか、内木さんは少し警戒したらしい。
横目で虚空を睨む。
「罠ですか……でも……」
ピッ。
「受けて立ちます。5二角です」
「1四歩ッ!」
「えッ!?」
これには、さすがの内木さんも動揺した。
1七の桂馬がノーガードでしょ。見逃しません。
「同歩とはできませんが、端攻めは怖くないです。2六歩」
2六歩? ……1五歩に2五桂か。
桂馬は助かるけど、1筋は制圧できそう。
「1五歩」
以下、2五桂、4二金寄、6一角成と進んだ。
「9四角」
これで、馬を消去。どんなもんですか。
「……同馬しかありませんね」
さいです。
同馬、同歩、4五歩。
内木さんは、執拗に攻めかけてくる。
私の直感では、受けきれるはず。5三銀。
さあさあ、掛かってらっしゃい。
中学2年生なんかに負けませんよ。
《局面は混沌としてますが、ここから第二波攻撃ですね》
《具体的には?》
《例えば、ここをこうして……》
猫山さんは、符号を言わずに、駒だけ動かしているようだ。
対局者への配慮。
「……4四歩」
同銀、4五歩、5三……ん、ちょっと待ってよ。
私は、ある筋を閃いた。26秒まで考える。
「同銀」
内木さんは、エッと顔を上げる。
「銀が死にますよ?」
いえいえ、死んでませんよ。試してご覧なさい。
「どうぞ」
「……4六歩」
私はノータイムで2七角と打つ。
内木さんは、軽く右目を瞑った。
「いたた、これがありましたか」
うっかり禁物。
とはいえ、私が優勢になったわけでもない。まだまだ続く。
2八飛、3六銀。
「切っちゃいます。2七飛」
せっかちね。若気の至りになっても、知らないわよ。
同銀成、4五歩。ムリヤリ拠点を築いてきた。
《これは、裏見さんに入玉が見えてきました》
《ニュウギョクと言うのは?》
《王様が、敵陣に入っちゃうことです。すぐにはできませんけどね》
そう、すぐにはできないのよね。
内木さんの4五歩は、4六角と打つ布石でもある。
4六の角は、飛車に当たってるだけじゃなく、入玉阻止も狙った手。
だから……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
「気付かれましたか……」
気付くがな。
「姫野お姉様を倒すだけのことはありますね」
内木さんはアイドルの顔を止めて、真剣に読み始めた。
さては、私のこと舐めてたでしょ。
春日川さんあたりに、「大したことない」とか言われたんじゃないの?
ぷんぷん。
「……4四歩」
ん? それは同飛成で……あ、7一角か。
同金……同金は上ずって危ないか……強引に4六角とかありそう。9二飛、8三角と、飛車をイジメられる順が気になる。さらに7一角もありそう。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「5三金寄」
私は、右に避けた。
「4六角です」
ぐぅ、これでも角打ちなんだ。
《さっきの歩は、悩ましかったですね》
9二飛、8三角。これも悩ましい。
逃げるか、逃げないか。
逃げて9一角成は、馬ができて入玉が不可能になるかもしれない。
私は逃げない方を選択して、2六成銀と引いた。
上部を開拓していく。
《これはちょっと、長くなりそうですね》
9二角成、同香、7二飛、4一歩、9二飛成。
内木さんも、怪し気な上部開拓を始める。
2五成銀。私は、待望の桂馬を獲得した。
「4三香と攻めます」
3二金、4一香成。
次に4二成香と引かれたら困るので、3三銀と引く。
内木さんは8一龍として、桂馬を回収しつつ、攻撃の筋を変更。
《後手は、角が直通してて怖いんですよねぇ》
猫山さんの言う通りだ。
だから用意しておいた手がある。
「4五歩」
退いてもらいます。
内木さんは10秒ほど考えて、7三角成。
私は4四金と、拠点の歩を払う。
「……保険をかけておきますか」
内木さんは、8二龍と引いた。
先手も入玉を目指し始めたわね。面倒なことになった。
「8六歩」
同龍なら、王様が出にくくなる。
一歩でも活用しておきましょう。
「同……銀」
《賢明な判断です。同龍は攻めが途切れる上に、脱出が難しくなりますので》
私はさらに、5五歩と突く。入玉作戦第2弾。馬筋の遮断だ。
「そうはさせません。1二歩です」
うッ……ここで端攻め……。
同玉とできない。
てっきり入玉に移行したものとばかり思ってたわ。
この子、強い。
同香、1三歩、同香。
マズい。逃げ道が封鎖されてしまった。
5一馬、5六歩、6六銀。
どうしましょ。3三馬には、同玉で耐えてると思う。
でも、4二成香と引かれたら、死んでしまう。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「2四角ッ!」
いやあ、あんまりここに打ちたくないんだけどなあ。
王様の逃げ道がなくなるから。
「5三桂」
んー、3一成香、同玉、4一馬狙いか。
こういう細い攻め、よく見えるわね。
適当な受けは……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! あうち!
「8一歩ッ!」
私は時間稼ぎで、適当に歩を打った。
《これは? かなり慌ててたみたいだけど?》
《同龍なら攻めが緩和されますし、寄れば入玉が難しくなります》
おっと、好意的に解釈してくれた。
そこまで深い意図は、なかったんだけど。
「粘りますね……7二龍」
私は再び26秒まで考えて、4二桂。
これで受かっていると見ました。
内木さんは持ち駒がないから、援軍を送れないわよ。
「やだ……裏見さんの玉、堅過ぎ……」
今さら媚びを売っても、お断りします。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
よしよしよし。
手がないことを白状したわね。
私は切られないように、4三金と引いておく。
5二馬、3五角。ようやく息継ぎができた。
「7二龍」
ほいほい、1四香。脱出します。
「私の王様も危ない……7七銀左です」
内木さんは、一回自陣を固めた。
これはもう、入玉確定でしょ。1九飛成。
以下、1三歩、同玉、3一成香、同金、4三馬と、内木さんは迫ってくる。
「2四玉」
あとは、1六歩と突いたりするだけだ。
「8一龍」
さすがに金は逃げておきましょう。2二金。
4一桂成、5四香と、私は攻めも見せていく。
先手は入玉が確定してないから、寄せちゃえば勝ち。
衆人環視の中、大勝利というわけよ。覚悟しなさい。
《これは、どっち有利?》
《んー、裏見さんの方が、若干いいんじゃないですかねぇ》
《ええ?》
司会は、ちょっと焦っている模様。
そりゃそうよね。これだけのファンの前だから、なるべく勝ちたいはず。
しかーし、裏見様に慈悲はない。
5五歩、2八龍、6八金打、5七香、6七金右。
ここで5八香成……いや、5五香か。
歩を入手した上に、5五銀と上ずらせましょう。
「5五香」
内木さんの顔色は、芳しくない。
ほらほら、若さで何とかしてみなさいよ。
「……同銀」
「5八香成」
その瞬間、内木さんの目が光った。
「2九香ッ!」
盤上に、駒が打ち付けられる。
その迫力に、ギャラリーから声が上がった。
「すげぇ、レモンちゃん」
「レモンちゃん、頑張れぇ」
えーい、黙れ黙れ。外野はシャラップ。
同龍、5八金、4九龍、6八金右。
げげ、香成りの意味がなくなっちゃった。
「や、やるわね」
「まだ寄せを諦めてませんから」
私は5三香と打ち直す。
6六銀引、4六歩、4二成桂、4七歩成。
ああ、中央をごちゃごちゃしないで、さっさとこうしとけば良かった。
「2八香」
内木さんは、微妙な防波堤を作る。
3七と、5一龍、2八と、5三馬。
馬を消しにきた? 同……いや、先に8六歩。
もう一回、脱出しにくくしましょう。
「同銀です」
ここで5三角ッ! 王様のハッチが開いた。
同龍、4二銀、5六龍。
あうッ! なんか嫌な場所に龍が来た。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「3八角ッ!」
「2六歩ッ!」
5六角成、2五歩、同玉、5六金。
そ、損しちゃった。
《紆余曲折ありましたが、入玉は確定ですね。点数勝負のルールは?》
《点数勝負とは?》
《ニャンと……ルールが決まってないんですか……》
そんなバカな。
24点法か27点法かくらい、決めときなさいよ。
スタッフの手際が悪い。1六玉。
「5五角」
もう紛れはないわよ。2九飛。
以下、2二角成、8九龍、7七玉、7四桂と進む。
8九龍は、見落としたわけじゃないみたい。
内木さんも、入玉一直線だ。
「4四馬」
「2六香」
「3六銀」
まだ諦めないのか……さっさと入玉しなさいよ。
私の方だって、内木さんの入玉は止められないんだから。
1七玉、3七角、3五桂。
「7三角成」
内木さんは、ようやく攻めを諦めた。
これがアイドルのしつこさ?
「……8六桂」
「同玉」
……やることがない。
大駒でもいじめますか。
「3三銀」
5四馬、2七桂成、8五玉、9九龍、7四玉、8八歩、6三玉。
はい、相入玉。誰か、審判に入ってぇ。
《すみません、司会さん、私が審判に入ってもいいですか?》
《え、何かあった?》
《これ、引き分けの局面なので》
おお、天の助け。猫山さんは大盤から移動して、こちらに近付いて来た。
《おふたりとも、引き分けでよろしいでしょうか?》
私は即座に頷く。
内木さんは3秒ほど押し黙って、それから首を縦に振った。
納得がいかないような顔だけど、これはどうしようもない。
《では、この勝負、持将棋にて引き分けとなりました》
ギャラリーから、拍手。
「将棋って、引き分けあるんだな」
どうやら、ルールが分かっていない人も大勢いたようだ。
それならそれで、助かる。
ここから点数を細かく数えられたんじゃ、堪らない。
《どうも、メイドさん、ありがとうございました。おふたりに拍手》
もう一度拍手。
内木さんは席から立って、ファンに会釈をしている。
このあたりの機転はさすがだ。
私も一応席を立って、猫山さんと一緒に挨拶。
顔を上げると、内木さんがこちらを見つめていた。
「決着は、またの機会に」
「……望むところよ」
私は舞台を降りて、冴島先輩を捜す。
……あ、いたいた。こっちに手を振っている。
「冴島先輩、あの子のこと知ってるなら、先に教えてください」
「いやあ、わりぃ、わりぃ」
冴島先輩は、笑って誤摩化した。
「しかし、引き分けて良かったな。途中は負けるかと思ったぜ」
まったく。後輩に恥を掻かせない。
「ところで、ナツキくんはどこへ?」
猫山さんは、ナツキくんの姿を求めた。
……どこにもいない。
「あいつ、いつの間にかいなくなってたな」
チッ、逃げられたか。
どこの中学か知らないけど、今度会ったら、お尻ぺんぺんの刑よ。
顔が良くても赦さないんだからね。
「そいじゃ、そろそろ店に戻るとするか」
場所:藤花女学園文化祭(2014年度)
先手:内木 檸檬
後手:裏見 香子
戦型:矢倉
▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲6六歩 △6二銀
▲5六歩 △5四歩 ▲4八銀 △4二銀 ▲5八金右 △3二金
▲7八金 △4一玉 ▲6九玉 △7四歩 ▲7七銀 △5二金
▲7九角 △3三銀 ▲3六歩 △3一角 ▲3八飛 △4四歩
▲3五歩 △同 歩 ▲同 角 △4三金右 ▲4六角 △7三銀
▲7九玉 △6四角 ▲5七銀 △3一玉 ▲8八玉 △8五歩
▲1六歩 △2二玉 ▲1七桂 △3四歩 ▲1五歩 △2四銀
▲6五歩 △4六角 ▲同 歩 △6二銀 ▲5二角 △1四歩
▲2六歩 △1五歩 ▲2五桂 △4二金寄 ▲6一角成 △9四角
▲同 馬 △同 歩 ▲4五歩 △5三銀 ▲4四歩 △同 銀
▲4五歩 △同 銀 ▲4六歩 △2七角 ▲2八飛 △3六銀
▲2七飛 △同銀成 ▲4五歩 △4九飛 ▲4四歩 △5三金寄
▲4六角 △9二飛 ▲8三角 △2六成銀 ▲9二角成 △同 香
▲7二飛 △4一歩 ▲9二飛成 △2五成銀 ▲4三香 △3二金
▲4一香成 △3三銀 ▲8一龍 △4五歩 ▲7三角成 △4四金
▲8二龍 △8六歩 ▲同 銀 △5五歩 ▲1二歩 △同 香
▲1三歩 △同 香 ▲5一馬 △5六歩 ▲6六銀 △2四角
▲5三桂 △8一歩 ▲7二龍 △4二桂 ▲7四龍 △4三金引
▲5二馬 △3五角 ▲7二龍 △1四香 ▲7七銀左 △1九飛成
▲1三歩 △同 玉 ▲3一成香 △同 金 ▲4三馬 △2四玉
▲8一龍 △2二金 ▲4一桂成 △5四香 ▲5五歩 △2八龍
▲6八金打 △5七香 ▲6七金右 △5五香 ▲同 銀 △5八香成
▲2九香 △同 龍 ▲5八金 △4九龍 ▲6八金右 △5三香
▲6六銀引 △4六歩 ▲4二成桂 △4七歩成 ▲2八香 △3七と
▲5一龍 △2八と ▲5三馬 △8六歩 ▲同 銀 △5三角
▲同 龍 △4二銀 ▲5六龍 △3八角 ▲2六歩 △5六角成
▲2五歩 △同 玉 ▲5六金 △1六玉 ▲5五角 △2九飛
▲2二角成 △8九龍 ▲7七玉 △7四桂 ▲4四馬 △2六香
▲3六銀 △1七玉 ▲3七角 △3五桂 ▲7三角成 △8六桂
▲同 玉 △3三銀 ▲5四馬 △2七桂成 ▲8五玉 △9九龍
▲7四玉 △8八歩 ▲6三玉
まで183手で持将棋