201手目 探りを入れる少女
これ、いきなり4五歩と突っかけても、いいんじゃないかしら。4六歩〜4七銀〜3七桂と立て直されるのが、一番面倒そうだし。例えば、4五同銀、5四歩、同歩、8八角成、同玉、5五角、7七角……これは変ね。むしろ、同玉に4四銀と出て、同銀、同飛、7七角、5四飛、1一角成、4九銀とか?
んー、穴熊ばっかり相手にしてて、急戦の感覚を忘れちゃってる。
「……4五歩」
「そう来よったか……3五歩じゃ」
おっと、取らなかった。
これが定跡?
「同歩」
「4五銀」
「4四歩」
5六銀とバックさせてから、私は3四銀と出た。
これは手応えを感じる。
「またずいぶんと古い将棋ですね」
お盆を抱えた猫山さんが、興味深そうに覗き込んだ。
店内は一段落したのか、あまり注文の声も聞こえてこない。
「おタマさん、これ、どうするんですか?」
「3六歩と打つぞい」
タマさんは、攻めを継続する。
急戦だから、受けに回ったら負けよね。
私も4五銀と指して、どんどん前進。
「取るのは、さすがにいかんな……5七銀じゃ」
5六銀、同銀。
ここで4五歩と伸ばすのは、3五歩の攻めが速そう。
ちょっと鈍臭いけど、羽生ゾーンに打って飛車をいじめますか。
「2七銀」
「そこに打たれると、困るんじゃが」
困るから打つ。
相手の嫌な手を指してこそ、将棋。
「3九飛かのぉ」
「3六歩」
これで、3五歩以下の攻めは頓挫した。
タマさんは、少し考える。
私は、ちょっぴり冷めたコーヒーを飲みながら、3七歩成の攻めを検討。
「裏見さん、優勢なんじゃないですか?」
と猫山さん。
「そんなことはないぞ。まだまだ互角じゃ」
私が答える前に、タマさんはそう言って鼻息を荒くした。
「3四銀じゃ」
……………………
……………………
…………………
………………
あッ、2三の地点がガラ空き。
「ニャハハ、重い手には重い手で返すぞい」
2八銀不成は、3六飛で攻めが加速しちゃうわね。
かと言って、2二角、2三銀成、3一角、3二歩は、逃げ回るだけ損。
角銀交換は不可避。だったら、逃げずに……逃げずに、どうするの? こっちとしても、指す手は難しい。動かしていい駒が、あんまりないような……7三桂かしら?
私は、7三桂と跳ねた。
「守りを薄くしますか」
猫山さんは、ふむふむと頷く。
守りは薄くなるけど、4六角とかの流れ弾も回避できるし、問題ないと思う。
それに、いざというときの8五桂は、かなり頼りになるから。
「角と銀を交換しても、打つ場所がないのぉ……2四歩じゃ」
あらら、交換してこなかった。
さっきから、読みがあんまり噛み合ってないわね。
「同角」
タマさんは、2三銀不成として、歩を補充した。
狙いは……3四銀成、3三角、同成銀、同桂、3四歩か。
単に角銀交換をするよりも、こっちの方が先手に有利ね。
だったら、先に攻めちゃいましょう。
「2八歩」
「これはどうしようもない……3四銀成じゃ」
2九歩成、同飛、3七歩成。
私は、角を放置した。
「過激ですねぇ」
猫山さんは、面白そうに笑う。
「ありがたく、角をもらうぞ」
タマさんは、2四の角を躊躇なく取った。
私は2八銀成と成り込む。
「5九飛……同飛もあるわい」
5九飛なら単純に3八成銀。同飛なら同と、5四歩、同歩、3四歩かしら?
いずれにせよ、形勢は五分。私の方が、指したい手は多いかな。
「飛車を渡したら、勝てん気がするのぉ……5九飛」
3八成銀。
ここでタマさんは、うーんと唸ってしまった。
長考するようだ。
「すみませーん、コーヒーのお代わり」
奥で、男性客の声がした。
「はいはい、少々お待ちを」
猫山さんが退席。
タマさんは両腕を組んで、左右に首を捻っている。
ああでもない、こうでもないと、独り言。
……………………
……………………
…………………
………………
あ、そうだ、これって、ちょっとしたチャンスなのでは。
「タマさんって、猫山さんのお友だちですか?」
「ネコヤマ? ネコヤマとは誰じゃ?」
「あそこのメイドさんですけど……」
タマさんは、猫山さんを見やる。
「そうか、猫山と名乗っとるのか」
意味が分からない。もしかして、友だちじゃないとか?
……いや、ここまでのやり取りを見る限り、友だちで間違いないはず。
だけど、苗字を知らないって言うのは、変ね。
私はそのとき、ある可能性に思い当たった。
「あの……猫山さんの本名って、知ってます?」
偽名なんじゃないかしら?
「アイちゃんじゃぞ」
「いえ、苗字の方を……」
「みょうじ? ……ああ、人間は名前がふたつあるんじゃったな」
どうしましょ。やっぱり、危ない人な気がしてきた。
まるで、自分が人間じゃないみたいな言い方だ。
飛瀬さんの同類? 宇宙人とか言い出すんじゃないでしょうね。
「猫山さんって、どこから来たんですか?」
「生粋の駒桜娘じゃぞ」
ん……ここは話が合ってる……。
猫山さんも、自称駒桜生まれの駒桜育ちだ。
「どのあたりの地域出身か、知ってます?」
「わしと同じじゃから……元町じゃな」
「元町? 駒桜元町ですか?」
「他に元町はないじゃろ?」
駒桜元町って、合併で駒桜市ができる前の、旧市街地だ。
っていうか、私が住んでるところよ。おじいちゃんは、この町出身だし、ひいおじいちゃんも、そうだったと聞いている。その頃はまだ、駒桜市と呼ばれていなかった……と、小学校の社会の時間に教えてもらった。
だったら、猫山さんはご近所さんってことになる。
「今でも、元町に住んでるんですか?」
「知らん」
連絡取り合ってないのか……久々みたいなこと言ってたわね。
「なんの話をしてるんですか?」
びくッ! 私は思わず、全身を強ばらせた。
「おお、アイちゃん、この子がの、住所を……」
「タマさん、紅茶が冷えますから、早く飲んだ方がいいですよ」
私はムリヤリ話題を変更した。
「そうじゃった、将棋を指すと、どうも夢中になっていかん」
タマさんは、ミルクのたっぷり入った紅茶を、ぐびぐび飲む。
一方、猫山さんは、私の横顔をじっと見つめている。緊張。
「裏見さん、コーヒーのお代わりは、どうですか?」
「あ……お願いします……」
3杯目か……飲み過ぎだけど、勢いで頼んじゃった。
なんか、不審がられてたような気もするし、去ってくれた方が安全。
「ちと考え過ぎたわい。6六角じゃ」
これまた、かなりひねった手だ。
4八とからの攻めを、全部清算するつもりね。
私は6五歩と突いて、5七角とバックさせてから2二飛。
「それは止めるぞ、2三歩とな」
しまった、単純に押さえ込まれると、思ったより暴れられない。
例えば、3二飛、3三歩、4二飛、3一角、4一飛、2二角成と進めて……これは、後手負けかも。飛車がどうにもならないから。
だったら、3三歩に同桂、4三角、3一歩と受ける?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
3二角成、同歩なら、働いてない大駒を捌けて、少しは持ち直せる。
以下、4五桂と跳ねて、同銀、同歩から5六桂を狙えるわ。
「3二飛です」
「3三歩と追っかけようかの」
「同桂」
私が歩を取ると、タマさんは目を丸くした。
「そういう手があったか……4三角じゃ」
「3一歩」
「ふむむ」
タマさんは、ここでまた長考。
そう言えば、コーヒーのお代わりがまだ来て……る。
いつの間にか、新しいコーヒーが置かれていた。
歩美先輩ばりのステルス機能ね。
私はちょっとだけ口をつけてから、盤面に集中した。
なあなあで始まった対局だけど、だんだん盛り上がってくる。
「……5四歩と突いてみる」
「同歩」
「そこで4六角じゃ」
ん、これは……狙いが分からない。
よくある角筋だけど、この状態では痛くもかゆくもない。
……………………
……………………
…………………
………………
いや、そうでもないか。2二歩成、同飛、3三成銀があるのね。
2八飛成、6四桂と打たれると、こっちは角筋がかなり怖い。
それに、こちらは特に指す手がない。1二香とか、1四歩くらいか。
だったら、8一桂と堅めて、2二歩成、同飛、3三成銀、2八飛成、6四桂、4八成銀、同金、同と……おっと、龍が抜かれちゃう……けど、5九とと取り返せる。
いきなり激しくなる展開。
「……8一桂」
「受けるのか……年に似合わず慎重じゃな。2二歩成」
以下、同飛、3三成銀、2八飛成、6四桂。
読み通りに進む。
「4八成銀」
「それは龍を抜くぞ?」
「5九とで取り返せますから、何とか」
タマさんは、なるほどと頷いた。
「それなら、同金じゃ」
同と、2八角、5九と、同金。
飛車を下ろす位置は……3八かしら。王手角銀のトリプル当たり。5八飛と自陣飛車にしても、3三飛成の保険がある。ナイス。
「3八飛」
「参ったわい……5八歩」
「2八飛成」
これで角を取戻して、駒割りは五分。
「いよいよ寄せ合いじゃな。4二飛」
ぐぅ、厳しい。6一角成という、典型的な美濃崩しのパターン。
駒を投入しないと、受けられないわね。
「6二金打」
「にゃ、ニャンと」
さっきから気になってるんだけど、なんで猫山さんと口癖が同じなの?
身内ネタ?
「5二銀と張り付くぞい」
これは……何手スキ?
6一銀不成〜7二銀成〜8二金……詰まないわね。2手スキ以上だわ。
「1九龍」
私は香車を補充した。
「悠長じゃの。6一銀不成」
「5九龍」
タマさんの王様、詰めろが掛かりそうよ。
全然悠長じゃない。6一銀不成の威力を、過大評価してたんじゃないかしら。
「これは、香子ちゃんの勝ちですかねぇ」
と猫山さん。
いつの間にか、観戦サイドに戻っていた。
「むぅ、5二銀が遅過ぎたかもしれん……7二銀成」
「9二玉」
これで安泰。逆に先手は、詰む気がしてきた。
7七香、同玉、7九龍、8六玉(7八合駒は6八角一発で詰む)、8五金、9七玉、8八角、9八玉……あれ、詰まない……あ、7九龍がおかしいのか。6八角、8八玉、7九角成として、王様がどう逃げても詰むわ。9八玉なら9七金、同桂、6八龍。オッケー。
「……6九金じゃ」
詰めろが掛かってるのに気付いたわね。
とりあえず、詰めろを継続したいけど……8八金から送るか、あるいは……。
私はコーヒーをちびちびやりながら、ゆっくり考える。
ここで焦ってもしょうがない。私の王様も、そこまで安全じゃない。
……………………
……………………
…………………
………………
とりあえず、これかな。
「7七香」
「同桂」
タマさんは、桂馬で取る順を選んだ。
8九角と送るか、それとも別の手を指すか……ん?
私は、もう一度局面を確認する。
……………………
……………………
…………………
………………
あ、なんだ、簡単じゃない。
「6八金」
「なんじゃ、それは?」
「同金なら、8九角で寄ってるかな、と」
タマさんの瞳孔が細くなる。
「ほ、ほんとじゃ、寄っとる」
8八玉も6九龍で終わり。
私の王様は、絶対に詰まない。
「うーむ、わしの負けじゃ」
「ありがとうございました」
私は一礼して、再びコーヒーを飲んだ。
ちょっとクラクラして来たわね。カフェインの取り過ぎかも。
「後手玉が遠かったですね」
猫山さんは、ちらちらと私の陣地を観察した。
「途中までは、いけたと思ったんじゃがのぉ」
「飛車と角を交換した方が、良かったんじゃないですか?」
私は、飛車を成り込む前の局面に戻す。
「3二角成、同歩、6八金寄、4八と、5七飛は、どうですか?」
「8四角とか、ありそうじゃのぉ」
ふむ……受けが利かないのか。
「飛車が5九に回ってる時点で、押さえ込みが成功してるみたいですね」
猫山さんは、横からアドバイス。
「ならば、切るんじゃったか」
タマさんは、2八成銀に同飛と切るところまで戻した。
「……角を打つ場所がありませんよね?」
猫山さんの突っ込み。
「ということは、この時点で悪いのかもしれん……」
「なんで5筋位取りにしようと思ったんですか?」
私は、思い切って訊いてみる。
「5筋位取りは、優秀なんじゃぞ」
うーむ……疑問。
「藤井プロも、5筋位取りの優秀性自体は認めてますね」
猫山さんがフォローした。
「え、そうなんですか?」
「『将棋世界』のイメ読みかなにかで、そうコメントしてましたよ」
んー、そうなのか。
でも、プロは誰も指してないと思う。
「しかし、なかなか楽しかったの。夏に指して以来じゃ」
タマさんは、ひとりでご満悦だった。
こういう縁台将棋は、勝っても負けても楽しい。
公式戦の真剣勝負とは、また違った良さがある。
「わしは、これで失礼しようかの」
「あ、お金はちゃんと払って行ってくださいね」
「分かっとるわい」
タマさんは懐から、たくさんの5円玉を取り出し、カウンターに置いた。
絶対足りてない。
「……ありがとうございました」
「アイちゃんも、たまには遊びに来てくれんといかんぞ」
タマさんはニャハハと笑って、喫茶店を出て行った。
猫山さんは財布を取り出して、千円札を引き抜くと、レジに向かった。
自腹ですか。痛い。
「すみません、こちらも会計をお願い致します」
春日川さんの声。
中学生3人組は、どうやら話し合いを終えたらしい。席を立っていた。
「別々に致しますか?」
「はい」
春日川さんは、財布から器用に千円札を取り出す。
どうやって識別してるのかしら? お札の手触りとか?
支払いをすませた彼女は、カウンターに向き直った。
「裏見さん、まだそこにいらっしゃいますね?」
「あ、はい」
「今年度の文化祭、将棋部は中等部も出し物をします。ぜひ、お越しを」
「じ、時間があれば……」
3人は、喫茶店をあとにした。
残された私は、コーヒーを飲み干すと、盤駒を片付けた。
さて、詰め将棋の続きでも解きますか。次の問題は……。
場所:喫茶店『八一』
先手:おタマ
後手:裏見 香子
戦型:先手5筋位取りvs後手四間飛車
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲2五歩 △3三角
▲4八銀 △3二銀 ▲5六歩 △4二飛 ▲9六歩 △9四歩
▲6八玉 △6二玉 ▲7八玉 △7二玉 ▲5八金右 △8二玉
▲3六歩 △7二銀 ▲5七銀 △5二金左 ▲5五歩 △4三銀
▲6八銀上 △6四歩 ▲1六歩 △7四歩 ▲3八飛 △6三金
▲5六銀 △4五歩 ▲3五歩 △同 歩 ▲4五銀 △4四歩
▲5六銀 △3四銀 ▲3六歩 △4五銀 ▲5七銀 △5六銀
▲同 銀 △2七銀 ▲3九飛 △3六歩 ▲3四銀 △7三桂
▲2四歩 △同 角 ▲2三銀不成△2八歩 ▲3四銀成 △2九歩成
▲同 飛 △3七歩成 ▲2四成銀 △2八銀成 ▲5九飛 △3八成銀
▲6六角 △6五歩 ▲5七角 △2二飛 ▲2三歩 △3二飛
▲3三歩 △同 桂 ▲4三角 △3一歩 ▲5四歩 △同 歩
▲4六角 △8一桂 ▲2二歩成 △同 飛 ▲3三成銀 △2八飛成
▲6四桂 △4八成銀 ▲同 金 △同 と ▲2八角 △5九と
▲同 金 △3八飛 ▲5八歩 △2八飛成 ▲4二飛 △6二金打
▲5二銀 △1九龍 ▲6一銀不成△5九龍 ▲7二銀成 △9二玉
▲6九金 △7七香 ▲同 桂 △6八金
まで100手で裏見の勝ち