196手目 虚心になる少女
4二銀、5八金右、3二金、7八金。
矢倉の駒組みが進む。
4一玉、6九玉、7四歩、6七金右、5二金。
序盤で、特に考えることはない。すべて定跡通り。
7七銀、3三銀、7九角、3一角、3六歩、4四歩、6八角。
「9四歩」
7九玉の寄りに、9五歩。森内流の端歩だ。
2六歩、4三金右、3七銀、6四角。私は3七銀戦法を選択。
姫野さんは先手番で森下システムだったけど、あれは私に合わない。
8八玉、3一玉、4六銀、7三桂、3七桂。
ここで、姫野さんの手が止まった。
あたりは、びっくりするほど静かになる。
男子の対局席から、ときおり駒音が聞こえてくるだけ。
「……」
1分ほどして、姫野さんは9三香と上がった。
これは……いかにも姫野さんらしい手。後手でも積極策。
私は3八飛と寄って、2四銀の先受けに6五歩。宮田流へ移行する。
「4二角」
「2五桂」
姫野さんも8五桂と跳ねて、端攻めの準備をする。私は8六銀の受け。
いよいよ局面が飽和してきた。どちらから攻めるか、駆け引きが始まる。
「後手の先攻もありですか……」
ここで、姫野さんの長考。おそらく、9二飛〜9七桂成の成否を考えてるんだと思う。9二飛、3五歩、9七桂成、同銀、同角成、同香、9六歩、同香、同香、3四歩、9八香成、7九玉、8九成香、同玉。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これは先手危ないか……3三歩成から殺到すれば、なんとかなる気もするけど……相手が姫野さんだからなあ。先に攻めさせたら、勝ち目がない。取り方を変えても無意味よね。9七角成、同銀、9六歩に同香、同香、9七歩、同香成、同桂、9六歩。歩切れ。
私は、もっとうまい受けを考える……9二飛と寄られた時点で、8五銀、同歩、5七角としてみる?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これは、いいアイデアかも。5七の角で、9三歩の止めを準備する。最悪、8四桂〜7二桂成〜8二成桂として、ムリヤリ飛車を封印する手もありそうだ。非常手段だけど。銀を渡しても、私の方は2七銀と羽生ゾーンから絡みつける形じゃない。
私は、もう少し深く読もうとした。
その瞬間、姫野さんの手元で、バチリと扇子を閉じる音がした。
「さすがに速攻は成立しませんか……5三銀」
9二飛じゃない……ってことは、端攻めを延期か……。
後手は角道を止めた以上、攻めてこいって感じなのよね。主導権は私。ここでもたもたしてると、本当に端攻めが始まってしまう。
ただ、反応の仕方が難しい。一目3五歩、同歩……いや、5五歩、同歩、3五歩かな。5筋は突き捨てておきたい。以下、同歩、同銀、同銀、同角、3四歩、4六角と、好位置に引きながら3三歩を狙う。次の5五角と3三歩を同時に受けることはできない。
とはいえ、姫野さんがこんな攻めを許してくれるとも思えない。さっきの長考も、9二飛以下の端攻めだけじゃなくて、5五歩〜3五歩以下の受けも読んだはず。候補は……矢倉の手筋4五歩かな。同銀、5五歩で、凖銀挟みの形。3五歩、同歩、3三歩、同桂、同桂成、同……銀? 同角? 同銀、3五角、4四歩、3六銀……引くのは冴えないか。むしろ、2五桂と積極的に打って、4五歩なら3三桂成、同角、5三角成、同金、3四歩。これは矢倉特有の暴力が通るんじゃない?
私は、もう一度読み直す。変化が多い。例えば、3五歩に同銀かもしれない。そもそも、5五歩に4五歩の反発が本当かどうかも分からない。これ以上は、不確定要素が多過ぎる。
「……5五歩」
とりあえず、打診してみることにした。
姫野さんは、ノータイムで4五歩。読み通りに反発してくる。
同銀、5五歩。
私は3五歩と突きかけて、手を戻した。
「失礼しました」
一言侘びてから、読み直す。3五歩以下は、一直線。後戻りできない。3五歩、同歩、3三歩、同桂、同桂成、同……角もあるか。歩切れになっちゃう。2五桂と打ち直しても、4二角と引き直して無問題。私は銀が死にそう……それとも、3五角、同銀、同飛から攻めが続かないかしら? 3四歩、同銀、同金、同飛、3三歩、7四飛と回るのも見える。
私は一息吐いて、お茶を飲む。
矢倉は、ほんとに頭が痛くなる。千変万化だ。
虚心に盤面と向き合う……もう少しひねりたい。3五歩からの攻めは、頑張っても桂馬が1枚手に入るだけ。これは続かない可能性が高いかも。8二飛の横利きもある。この飛車の横利きは、矢倉だと結構厄介なのよね。
せめて、飛車の利きを変えるか、攻め駒をもう1枚……ん? 待ってよ。
私は、端攻めのときに読んだ筋を思い出す。8五銀〜5七角だ。この局面にも、応用できないかしら? 例えば、ここからすぐに8五銀、同歩、5七角……8三飛? 9二飛なら8四桂、9一飛、7二桂成、4四歩、8二成桂、5一飛、9三角成とかある……かもしれないけど、ないかもしれない。成桂がそっぽだ。銀も取られちゃう。
それをやるくらいなら、9二飛に3五歩、同歩、3三歩、同桂、同桂成、同角、2五歩、同銀、3五角、3四歩、6八角と引いて、銀を助けた方がいいかも。ふむ。
私はチェスクロを確認する。この時点で、既に20分を切っていた。
比較した限りでは、5七角の方が、曲線的に指せるわね。直線型の姫野さんに対しては、有効かもしれない。それに、八千代先輩いわく、姫野さんは攻撃的に受けるタイプだから、9二飛よりも、8三飛と受けてくる可能性が高いんじゃないかしら。そうなれば、二段目から飛車がいなくなって、攻めが通り易くなりそう。9三香を咎めているというメリットもある。
うん、そうしましょう。8五銀。
姫野さんは、じっと8筋の銀に見入る。
「ここで銀桂交換ですか……」
うーん、怖いんだけどね、正直。銀渡して潰されたら、洒落にならない。
同歩、5七角。今度は姫野さんが長考。
私は、さっきの順を追う。9二飛と指されたときのために。
……………………
……………………
…………………
………………
姫野さんは3分使って、8三飛と浮いた。
「そっちか……」
私は思わず、そう呟いた。
姫野さんからはレスポンスなし。
私は3五歩と仕掛ける。
「同銀」
うぅ……そっちで取るのか……。
銀が質駒になってるけど……受かってるの?
私は両肘をテーブルについて、前のめりになる。3三歩、同桂、同桂成、同……角、2五桂、4二角が本線かな。あるいは、姫野さんの棋風を考慮に入れて、2五桂に2四角。あくまでも前進主義路線。
問題は……そこで銀が死に体なのよね。もう3四銀と突っ込んで、歩銀交換するしかないくらい。こんなの通るわけが……ん? 私は、少しだけ思考を戻した。さっき8三飛と浮いたから、王様の守りは金しかいないのよね……3四銀、同金、3三歩に4二金と寄るのは、3五角、同角、同飛、同金、3二銀、2二玉、3一角、1二玉、1三角成。これは詰み。ただ、3二銀には同金もあって、同歩成、同玉、3三金、4一玉……6一角?
これが通るなら、先手の勝ちだけど……いや、そうとも言えないか。後手の持ち駒は、飛角銀3枚に桂馬。速攻でこちらが寄せられちゃいそう。却下。
4二金から、私は考え直す。……あ、待ってよ。1六桂ってない?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
1五角、3五角、同金、同飛……これは勝ちだわ、さすがに。
これがあるなら、4二金で2二金と寄っても同じこと。
2度目の3三歩に同金直は、同桂成、同金、2五桂、3四金、3三金。突破。
私は力強く頷いて、3三歩と打った。
同桂、同桂成、同角、2五桂、2四角。
私は、3四銀と出る。
「攻めの一手……」
3四銀に、姫野さんは目を細めた。
今回は、立場が逆転している。私が攻めて、姫野さんが受け。八千代先輩のアドバイスを活かすなら、こうするしかない。一方的に攻めて、受け間違えさせる。
「同金」
「3三歩」
再度の叩きに、姫野さんは長考。
4二金は、ないかなあ。さすがに姫野さんがそこで間違えるのは、なさそう。
ただ、他にどう受けるかというと、難しいような……。
私は、あれこれ読んでみた。1六桂を無視するパターン。銀を投入するパターン。どれも後手が潰れる。姫野さんの顔も、なかなか厳しい。
やっぱり、8三飛は頑張り過ぎだったんじゃないの?
姫野さんは、扇子で顔を仰いだ。公民館の中は、そこそこ熱い。暖房の他に、会場の熱気で包まれている。私もお茶を飲んでリフレッシュ。
「……並みの受けでは受かりませんわね」
姫野さんは、覚悟を決めたような表情。
「3七歩と打ちます」
うえ? なにこれ?
飛車当たり……だけど、金を取るのが王手だから、こっちが先手よ?
何かある?
私はさっきの長考で持ち時間を使ったから、すぐに3二歩成とした。
同玉、3七飛。
「3六歩」
ん? 飛車先を押さえただけ……じゃない、入玉狙いか。
まあ、3八飛と引けば止まって……止まってるわよね? 3八飛、2七銀、3九飛、2八銀打……あれ? 止まらない……普通のやり方じゃ止まらない……。
3三歩と打っても、4三玉ですり抜けられてしまう。3二に金がいると寄るけど、いないと寄らないってこと? まさか……いや、でもそれが現実……。
私は、ちょっと焦った。姫野さんが入玉に移行すると思っていなかったからだ。だけど、そこで春の個人戦決勝を思い出す。あのときは歩美先輩が、姫野さんの入玉を制して勝ち切った。姫野さんは、入玉がそこまで得意じゃないはず……多分……スーパー歩美ちゃんが規格外ってのはあるけど……。
私は考え込む。駒落ちなんかの経験からして、飛車を押さえ込まれたらアウト。むしろ飛車を代償にして、なにがなんでも王様を止めないといけない。問題は、どう止めるか。駒を打つ場所が、極端に少ないのだ。相当細い攻めが要求される。
……………………
……………………
…………………
………………
2七桂とか?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
3七歩成、3五桂と、飛車を見捨てて攻めを継続。ここで同角は、同角、同金、3三金と押さえて、入玉を阻止できる。以下、4一玉、6一角と急所に打って、3八飛、4三銀が詰めろ。私の方が速いわね。7九銀〜飛車打ちの非常手段で抜かれる駒もない。
3五桂に4二歩と受けてきたら、3三歩、4一玉……3二銀、5一玉、2三銀成とか? ちょっと遅い気もするけど……姫野さんには、4七との攻めが残っている。このあたりが、盤上のヤクザと呼ばれる所以。一方的に受けているわけじゃない。だらだら王様を追いかけていると、そのうち逆転してしまう。
困ったときは……B面攻撃? 例えば、9二銀、8二飛、9三角成。明後日の方向に見えるけど、左右挟撃にするのが大切だ。9三に馬を作っておけば、後手からの飛車打ちにも対応できる。最悪の場合、今度は私が入玉。
私はチェスクロを確認する。大長考の連続で、もう5分を切っていた。
姫野さんも、3分しか残っていない。
私は桂馬を空打ちして、2七に据えた。
姫野さんは、唇を結ぶ。
「やはり気付きますか……」
気付きます。
とはいえ、姫野さんも本線で読んでたってことか。
これは、応手が速いかもしれない。
そう予測した途端、3七歩成が指された。
3五桂、5二銀。
銀打ち? なんで?
姫野さんの棋風からして、節約で4二歩かと思ったけど……もしかして、4二歩は速攻で潰れる順があったとか?
……今は、そんなこと考えてる場合じゃないか。
私は3三歩と打って、4二玉と寄らせてから、9二銀。
B面攻撃を開始する。3五金と取られても、同角、同角、8三銀成と飛車を回収しておけば、入玉は阻止できると思う。角金交換は大歓迎。
「8二飛」
「9三角成」
姫野さんは、パチリと扇子を閉じる。
「9二飛」
切ってきたか……姫野さんとしても、使えない飛車よりは金駒って判断ね。
馬の位置をズラされるのもツライ。自陣に利かせるのは、無理そうだ。
でも、これは取るしかないから、同馬。
姫野さんは1分投じて、3五角と桂馬を払う。脱出口を作られてしまった。
遮断……遮断する方法……2二飛は、4三玉が怖い。
先に上部を封鎖する必要がある。
……4六香? 4五歩で、一時的に上部が封鎖される。4五歩、2二飛、4三玉、3二飛成、4四玉……ダメだ。飛車成りは却下。むしろ3二歩成として、4六歩……3三桂成? これで間に合ってる? 同金、同と、同玉……2五金? 2二玉、3五金で、入玉の可能性は消滅してるような……ただ、私は持ち駒が角金……。
ピッ。
1分将棋ッ!? 時間がないッ!