195手目 過去と対峙する少女
本年は『こちら、駒桜高校将棋部』をご愛読いただき、誠にありがとうございました。
新年は、1月4日(日)10:00からの再開となります。
いよいよ佳境に入ってきましたが、これからもよろしくお願い致します。
よいお年を。
残り2分。歩美先輩は、大きく息を吸った。
「3三桂成」
桂馬を捨てた?
同桂、1一龍。どうやら、香車を拾うことにしたらしい。
2五飛……いや、その逃げをする必要はない。生飛車と龍なら……。
「2一歩」
私は龍の横利きを遮断。交換しろと迫る。1三龍なら手順に4五桂だ。
本局は、どうにも大駒の牽制が多い展開みたい。
私も、だんだん焦れてきている。でも、暴発したら一気に負け。
落ち着け、裏見香子。
「8六香」
そっちか……1三龍から脱出を図るかと思ったけど……。
放置して5九馬は、8三銀成、同銀、同香成、同金、2二龍、同歩、7四銀。ガジガジと食いつかれて、反撃に出る暇がない。
ピッ。ついに1分将棋。
「7三歩」
私は、7四銀の筋を防いだ。
8三銀成、同銀、同香成、同金、2二龍、同歩、3二飛。
これもキツい。7二銀。ひとまず受ける。
「7四銀を防がれたのは痛いか……5二銀」
攻めが中断した……わけじゃないか。次に5三馬がある。6二歩、5三馬、5九馬、3三飛成、4八飛……これは勝ちか。私の5八歩成の方が速い。
私はそう指しかけて、ふと別の筋に気付いた。5三馬じゃなくて、いきなり6一銀成、同金、8六香があるわね。8四歩、同香、7四金……は、同馬と喰い千切るのが詰めろか。この状態で先に詰めろを掛けられたら、負けだ。回避する手は……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「8二銀ッ!」
私は、さらに受けた。
正解かどうか分からないけど、さっきの順は詰めろの連続で負けのはず。
歩美先輩は、前のめりになって読み耽る。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
3三飛成。
一手空いた。私は5九馬と飛び込む。
「5三龍」
あうあう、5八歩成とできない……。
困ったときの飛車打ち? 4九飛……は、5七龍で困るか。
この穴熊の形なら、どこかに急所があるはずなんだけど、どこだっけ?
私は盤面を睨む。今までの穴熊戦のパターンを想起。
……………………
……………………
…………………
………………
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! 閃いたッ!
「6八馬ッ!」
「ッ!?」
歩美先輩は、ハッとなる。
同金に6七歩、同金、7八金。
べったりと張りつく。
細いけど、これに望みを託すわ。
「……6一銀成」
歩美先輩は、銀香交換に踏み込んだ。
これも悩ましい。取るか、それとも先に飛車を下ろすか。
4八飛、6八香、6一銀、5七龍。これはダメ。
8八金、同玉、4八飛も、似たような順で却下。
6一銀、7九香、8八金、同玉、4八飛、7八金も面倒。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! 5八飛ッ!
うまい応手禁止ッ!
「歩成りができない位置に飛車……?」
歩美先輩は、無表情に盤面を見つめている。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
6八香。私は6一銀として、質駒を回収する。
「2五角」
ぐッ、飛車当たり……かつ、いざというときの銀入手……。
私は56秒まで読んで、5九飛成と入る。
歩美先輩は、ノータイムで7九桂。
手が……手が見えない……次に5七龍で終わる……。
7九金、同銀、同龍、8八金は止まりそうだし、他に手も……。
ここまでか。無情にチェスクロが動く。
いや、諦めちゃダメ……この2年間の努力……おじいちゃんに教えてもらった将棋……松平も応援してくれてる……。
ピッ。56秒。
私は、ふと9筋を見る。
「あれ……これって……」
ピッ、ピッ、ピーッ!
パシリ!
公民館に響き渡るような音で、私は9五桂と打ち下ろした。
「端桂? ……うッ」
歩美先輩の顔色が変わる。
「つ、詰めろ……」
8七桂不成、同銀、8八銀、あるいは同桂、8九金まで。
先輩は、持ち駒を確認する。歩が3枚。
駒を打って受けることは不可能。
受ける手は、ふたつ。8六馬か7七金。
一目8六馬だけど、8四香という返しがあって微妙。
そっちは私が勝てそう。
「……まだ死んでないわね」
歩美先輩は、7七金を選択する。
同金は確定だけど、そこで同銀と同桂がある。
同銀、8七桂不成、同桂、7八銀、8八金、7九金で必至……じゃないか。6九桂で遮断されてしまう。先に7八金と打って、8八金、7九龍……ん? これって必至じゃない?
……あ、7八金、同龍、8八金か。だったら、ああしてこうして……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! 同金ッ!
以下、同銀、7八金、8八金。
「7九金ッ!」
私は、単純に桂馬を取った。これでも詰めろだ。
「……8六馬」
これは読み切りッ! 7八銀ッ!
必至ッ!
「寄りがあったか……投了」
うらっしゃぁあああああッ!
「ありがとうございました」
私は一礼する。
歩美先輩は、うーんと唸って、しばらく固まっていた。
「……6九から打った方が良かった?」
「……何をですか?」
「7九桂のところで6九桂」
私たちは、すぐに感想戦を始めた。
「……まあ、同金ですよね」
「そこで同角、同龍、7九金と弾いて、5九龍に5七龍、同龍、同金だったかも」
「ああ……」
それやられると、厳しかったかも……ん、待ってよ。
「6九同金じゃなくて、即座に9五桂と打ちます」
「……そっか、それで潰れね」
7九に桂馬を打たなかったから、龍が利いていなくても詰めろ。以下、8六馬、8四香、9五馬、8七香成で、受けがない。私の勝ち。
「5八飛だけ寄ってるのかしら……他は寄らないと思ったから……」
歩美先輩は、合点がいかないように首を捻った。
「6八香じゃなくて、7九角と受けたら、どう?」
「すみませんが、次あるんで、ちょっと感想戦は……」
歩美先輩は、初めてそのことに気付いたような顔をした。
「あら、ごめんなさい。じゃあ、決勝頑張ってね」
歩美先輩は、それだけ言って、席を立った。
私も椅子を引く。まあ、戻る方向は一緒。
控えテーブルでは、荷物番の来島さんが携帯ゲームをしていた。
「あ、裏見先輩、お疲れさまです」
結果を訊いてこないわね。
対戦相手がいるから、ちょっと訊きにくいか。
「裏見さん、こんにちは」
おっと、ここで八千代先輩が登場。
「いらしてたんですか?」
「ええ、塾から直行して来ました。どうなってます?」
どうやら八千代先輩は、トーナメント表すら見ていないらしい。
鞄を手に持ってるし、本当に入り口をくぐったばかりのようだ。
「えーと……決勝に残りました」
「誰がですか?」
私が自分を指差すと、八千代先輩はちょっと驚いたようだった。
「裏見さんが決勝に残ったのですか?」
なんですか。ご不満ですか。
「それは、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「対戦相手は?」
「甘田さんと……」
私は、隅っこに座っている歩美先輩を指差す。
「ああ……なるほど……」
八千代先輩は、小声で返した。
「しかし、そこで2連勝は凄いですね」
「まあ、どっちも運があったかな、と」
冗談抜きで。
1局目は、1八歩の指運に助けられた感じだし、2局目は、たまたま寄りがあった。感想戦で掘り下げなかったから分からないけど、5八飛以外は、全部危なかったんじゃないかしら。即負けはないとしても、200手の大台に乗る展開だったかもしれない。
「ところで、決勝の相手は誰なんですか?」
あ……しまった……チェックしてない。
「姫野さんか大場さんの勝者です」
そのとき、うしろでどよめきが起こった。
振り返ると、女子の残りのテーブルからだった。
決まった? ……この騒ぎだと、大場さんの勝ちという可能性もある。
私が席を立とうとすると、人混みから松平が顔を出した。
こちらへ一直線に向かってくる。
「姫野の勝ちだ」
ふえぇ……。
「なんで騒いでたの?」
「最後が、かなり際どかったんだよ。大場勝ちまであった」
ああ、そういう喚声か。
「女子の部の決勝は、30分後に開始します」
サーヤの声。
私たちは、時計を見た。既に3時を回ろうとしている。
「3時半からって、大丈夫なのかしら?」
「男子の方は、持将棋があってかなり押してるからな。どのみち解散は遅れるぞ」
ふむ……30分休憩は、助かるわ。
「ところで、裏見はどうだったんだ?」
「勝ったわよ」
「マジかッ!?」
「しーッ」
私は、唇に人差し指を当てる。
けれど歩美先輩は、いつの間にか姿を消していた。
燃え尽き症候群? 真っ白な灰になった?
「っていうか、なによ、その驚き方は?」
私が怒ると、松平は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「いや、やっぱり駒込に勝つってのは、なかなかな……」
まったく、完全にフロックだと思われてるわね。ぷんぷん。
遠くを見ると、姫野さんも藤花の控えテーブルに戻っていた。
ヨッシーに耳打ちされて、ちらりとこちらを見る。おっと、目が合っちゃった。
「で、決勝は、どうするんだ?」
「どうするって言われてもね……当たって砕けるしかないんじゃない?」
「小手先じゃ勝てねえぞ?」
んなことは、分かってますがな。
「姫野さんの得意戦法は、先手角換わりと、後手矢倉であってる?」
「あってる」
「避けた方が、いいわよね?」
松平は、肯定も否定もしなかった。
「おまえ次第だろう」
「そりゃそうだけどさ……」
私はお茶を飲んで、松平にジト目。
「そういう目で見るなよ……」
「姫野さんの先手角換わりを受けて、私が勝つ確率は? 正直に答えてね」
松平は、とても言い難そうだった。
「……全然ないと思う」
「0%?」
「統計的には、な。姫野の先手角換わりに勝てた学生は、市内にいない」
それは、聞いたことがある。
誰から聞いたんだっけ? 八千代先輩? 冴島先輩?
「後手番の矢倉なら?」
松平は、これまでの対局を思い出すように、腕組みをして顎を引いた。
「……7〜8割かな」
高い。
「まあ、全体で、だけどな。四天王同士なら、5〜6割」
「後手で角換わりは、受けてくれないのかしら?」
「7六歩、8四歩で?」
「2六歩、8五歩とか」
松平は、椅子をうしろに傾けた。
「そりゃ無理だな。3四歩で横歩になる」
ダメか……。
「じゃあ、8四歩には矢倉で受けるしかない?」
松平は、軽く頷いた。
「それより、後手引いたときの方が問題だろ?」
「後手を引いたら、四間穴熊にするわ」
歩美先輩にも勝って、弾みがついてるもの。
……っと、誰かに聞かれてないでしょうね。
私は周囲を確認する。
駒北のテーブルでは、落ち込む大場さんを、津山くんが慰めていた。あれだけがっかりしてるってことは、相当いい勝負だったんでしょうね。
私は決勝2回目だけど、甘田さんみたいに、一度も出られない人もいるのよね。それを考えると、いろいろ感慨深いものがある。それに、来年度は、もう無理かもしれない。姫野さんと歩美先輩が卒業しても、また強い1年生が入ってくるからだ。受験勉強もある。
「最後のチャンスか……」
私の呟きに、松平は顔をあげた。
「ああ、最後のチャンスだろうな」
言い切りますね。それはそれで腹立つ。
「で、あんたは勝ってるの?」
「今のところ、順調だ。次勝てば2日目」
「ポカしないようにね」
「応援に行きたいが、お互いに頑張るくらいしかないな」
松平はそう言って、大きく背伸びをした。
リラックスしているように見えて、そうでもない。緊張が伝わってくる。
「じゃ、私はお茶を買い直して来るから」
○
。
.
「それでは、秋季個人戦、女子の部、決勝を始めます」
サーヤが、テーブルの隣で号令をかける。
向こう側では、くららんが男子の部3回戦の指示を出していた。
目の前には、姫野さん。お嬢様然とした顔に、修羅の気配。
「振り駒をお願いします」
「姫野さん、どうぞ」
私は、振り駒を譲る。
「では、失礼して……」
しなやかな指が歩を5枚集めて、カシャカシャと掻き混ぜる。
そして、華麗な放物線が描かれた。
「歩が1枚……わたくしの後手です」
私の先手か……先手……。
姫野さんは、チェスクロを自分の右側に引いた。
テーブルの上に扇子を取り出し、ハンカチを膝の上に敷く。
私はお茶を飲んで、気持ちを落ち着ける。
心臓がドキドキしてきた。対局前が、一番緊張する。
「……では、3時半になりましたので、対局を開始してください」
「よろしくお願いします」
お互いに一礼して、姫野さんはチェスクロを押す。
私は深呼吸してから、7六歩と突いた。
姫野さんは瞑想。そして、8四歩。扇子を拾い上げ、パチリと音を鳴らした。
先手でも、振り穴はできる……だけど……。
私は、銀に指を添える。
おお、と、うしろで小さな声が上がる。
それと同時に、バサリと扇子が広げられた。
姫野さんは、それで口元を覆った。
「四間穴熊を予想していましたが……わたくしの矢倉を受けますか」
「……受けます」
姫野さんは、面白そうに目を細めた。
「去年の春を思い出しますわね」
ギャラリーの中には、首を傾げる者もいた。
でも、私はそれがいつのことだか分かる。1年の春、喫茶店『八一』で姫野さんに初めて出会ったときのことだ。あのとき矢倉に完敗して、リベンジするため将棋部に入った。私を将棋部に誘ったのは歩美先輩だけど、最後のひと押しをしたのは、姫野さん、あなた。
姫野さんは、3四歩と角道を開ける。
6六歩、6二銀、4八銀、5四歩、5六歩
姫野さん、私は勝つ、あなたに矢倉でッ!
場所:2014年度秋季個人戦 女子の部凖決勝
先手:駒込 歩美
後手:裏見 香子
戦型:先手居飛車穴熊vs後手四間穴熊
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲4八銀 △4二飛
▲6八玉 △6二玉 ▲7八玉 △7二玉 ▲5六歩 △3二銀
▲5八金右 △8二玉 ▲7七角 △4三銀 ▲2五歩 △3三角
▲5七銀 △9二香 ▲8八玉 △9一玉 ▲6八金寄 △5四銀
▲6六銀 △6四歩 ▲5五歩 △6三銀 ▲9八香 △8二銀
▲9九玉 △7一金 ▲8八銀 △5二金 ▲7九金 △7四歩
▲3六歩 △4五歩 ▲5七銀 △6五歩 ▲3七桂 △4一飛
▲2四歩 △同 歩 ▲2六飛 △7五歩 ▲3五歩 △同 歩
▲7八金寄 △6二金寄 ▲6八銀 △7二金寄 ▲5六飛 △2五歩
▲同 桂 △4四角 ▲2四歩 △4三飛 ▲4六歩 △5四歩
▲同 歩 △5二歩 ▲4四角 △同 飛 ▲5三歩成 △同 歩
▲同飛成 △2四飛 ▲2六歩 △4六歩 ▲4八歩 △6四角
▲5一龍 △5七歩 ▲同 龍 △4七歩成 ▲同 歩 △1九角成
▲4六歩 △4七歩 ▲同 龍 △2九馬 ▲3八歩 △1八馬
▲5二歩 △同 銀 ▲4五歩 △3六馬 ▲5六龍 △6三銀
▲4二角 △2三飛 ▲5一龍 △5七歩 ▲5四歩 △5八歩成
▲5三歩成 △6八と ▲同金寄 △5七歩 ▲6三と △同 飛
▲5九歩 △6六歩 ▲7四銀 △2三飛 ▲7五角成 △6一香
▲6六歩 △2六馬 ▲2二歩 △同 飛 ▲3三桂成 △同 桂
▲1一龍 △2一歩 ▲8六香 △7三歩 ▲8三銀成 △同 銀
▲同香成 △同 金 ▲2二龍 △同 歩 ▲3二飛 △7二銀
▲5二銀 △8二銀 ▲3三飛成 △5九馬 ▲5三龍 △6八馬
▲同 金 △6七歩 ▲同 金 △7八金 ▲6一銀成 △5八飛
▲6八香 △6一銀 ▲2五角 △5九飛成 ▲7九桂 △9五桂
▲7七金 △同 金 ▲同 銀 △7八金 ▲8八金 △7九金
▲8六馬 △7八銀
まで152手で裏見の勝ち