194手目 お礼参りする少女
「振り駒を行ってください」
サーヤの指示。
私は歩美先輩に譲る。
先輩は軽く手の中で掻き混ぜて、宙に放った。
「……歩が3枚、私の先手ね」
後手に回ったか。
私はチェスクロを、自分の右側に引き寄せる。
「対局準備の整っていないところは、ありますか?」
サーヤの確認。トラブルはない模様。
「……では、対局を開始してください」
「よろしくお願いします」
生徒たちの声が、公民館に木霊する。
女子凖決勝、男子2回戦の一斉対局だ。
私がチェスクロを押すと、歩美先輩は初手7六歩を指した。
さて、居飛車にするか振り飛車にするか。居飛車でも、矢倉にするか角換わりにするか、全部私の選択次第なわけだけど……私はひと呼吸おいてから、3四歩と角道を開けた。
歩美先輩はそれを数秒ほど見つめてから、2六歩。
以下、4四歩、4八銀、4二飛と進む。
「振り飛車にしたのね……」
歩美先輩は、6八玉と上がる。
6二玉、7八玉、7二玉、5六歩、3二銀、5八金右、8二玉、7七角。
私は振り飛車穴熊に、歩美先輩は居飛車穴熊に。それぞれ一直線。
4三銀、2五歩、3三角、5七銀、9二香、8八玉、9一玉。
「6八金寄」
ちょっと変わった形……だけど、ここで迷うのは、良くない。
序盤で工夫されたとしても、30分では対応できないからだ。
私は、5四銀と力強く出た。
「6六銀」
「6四歩」
「5五歩」
むむむ……囲わずに銀を退却させる作戦……。
私は6三銀と素直に引く。歩美先輩は、ようやく9八香と浮いた。
これは、私の四間穴熊に照準を合わせてきた研究手だ。
広瀬流しかやらないのを見抜かれてる。
「対策ばっちりですか……」
私の呟きに、歩美先輩は顔を上げた。
「まるで普段は対策してないみたいな言い方ね」
「ガチで対策されたのは、始めてだと思うんですけど」
「最初からしてるわよ」
そう……ん? 最初って、いつ?
……ああ、部室で飯島流引き角されたときか。
1年以上も前よね。あれって対策だったの?
……っと、こんなことに時間使ってる場合じゃないか。
6六銀〜5五歩自体は、そこまで珍しいわけでもない。
中央を圧迫して、陣形を押さえ込む方針でしょ。プロでもよく見る。
8二銀、9九玉、7一金、8八銀、5二金、7九金、7四歩。
だんだん見慣れた形になる。
3六歩、4五歩、5七銀。
この銀の動きが面倒なのよね。4筋のガード。
個人的に好きなのは、6五歩と位取りしてから、7五歩と仕掛けるパターン。
例えば、6五歩、3七桂、7五歩。そこで同歩なら、6四銀と弾みがつく。けど、実際には7五歩に同歩じゃないと思う。むしろ8六角と上がって、7六歩の取り込みに2四歩、同歩、3五歩、同歩、2六飛の浮きとかがありそう。以下、7四銀とプレッシャーをかけるのは、5四歩、同歩、4二角成、同角で、飛車角交換が成立。おいしくない。
8六角〜5四歩は、これ以外の進行でも頻出。まずは、そこを対応しておきますか。6五歩、3七桂、4一飛ね。次に1六歩、7五歩みたいな展開でしょ、きっと。
私は、6五歩と伸ばした。
「そこ開けますか……」
歩美先輩は、早速7筋から5筋あたりまでに視線を走らせた。
8六角〜5四歩を狙ってますね、これは。間違いない。
とはいえ、すぐに8六角は、5五角でチョンボ。
歩美先輩は、とりあえず3七桂と跳ねた。
5五角の飛び出しは解除されちゃったから……4一飛。
これで、なにかのときの5四歩に、同歩と取れる。次こそ7五歩だ。
歩美先輩は、再び小考を挟む。両手の指を重ねて、屈伸運動を始めた。
穴熊戦は、中盤の分かれで敗勢になることもあるから、怖い。
優勢とまではいわなくても、せめて五分で終盤に入りたい。
「……2四歩」
え? 仕掛けた?
同角……は5四歩で死ぬから、同歩しかないけど……。
同歩の次に手があるってわけじゃ、ないわよね? そうなると、狙いはひとつ。2六飛と浮いて、7筋の防御だ。2四歩、同歩を入れてないと、1五角で大変なことになる。1六歩の税金払いを予想したけど、こういう止め方もあるのか。
私は2四同歩と取って、2六飛の浮きに手を止めた。7五歩、3五歩、同歩。ここで先手が何を指すか。7五同歩と取ってくれるなら、今度こそ6四銀がありそう。8六角でも7六飛でも、5五銀と出る手がある。5六飛なら7五銀と出ればいい。
だから、先手は7五歩を取らずに……7八金寄かしら? こうなると、私の方も7六歩とは取り込みたくない。同飛、6四銀、5六飛と回られて、7五銀は空振り。ということは、お互いに固め合いね。6二金寄、6八銀、7二金寄とか。ここで歩美先輩の手番。何を指すか予想しないといけない。
……………………
……………………
…………………
………………
5六飛?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
可能性としては、これが本命かしら。
こっちは、動かす駒が難しい。王様の囲いは、これ以上発展させられない。4六歩なんて仕掛けても、同飛、同飛、同歩、3九飛、4五桂が角当たり。後手後手。
というわけで、何かひねりたいわね。例えば……5六飛に2五歩とか? 同桂、4四角、2四歩、4三飛と受けて、次に何もしてこなければ、後手から5四歩、同歩、7七角成、同銀右……ん、ダメか。5三歩成が残ってて、手を戻さないといけない。7七同銀右で、堅くなってるのも気になる。
……7七角成としないで、5二歩と一旦ガードかしら。4四角、同飛、5三歩成、同歩、同飛成、2四飛、3三桂成、同桂、同龍、2九飛成。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
こんな感じかな。5二歩は消極的に見えるけど、5三歩成と捨ててくれるなら、枚数は減らない。お互いに龍を作って、手持ちに桂馬。十分な分かれだ。2五歩に同桂と取らないなら、2六歩〜2七歩成を狙える。2六歩に同飛は1五角だ。
私は7五歩と突っかけた。
3五歩、同歩、7八金寄、6二金寄、6八銀、7二金寄、5六飛、2五歩。
「そこか……」
歩美先輩は長考。何を予想してたのかしら? 1二香の手待ちとか?
私も続きを考える。同桂はほぼ必然で、4四角、2四歩、4三飛に……4六歩かなあ。同歩は同飛で、私の構想が破綻するから、無視して5四歩……同歩、5二歩、4四角、同飛、5三歩成、同歩、同飛成、2四飛、3三桂成……ん、違うか。2六歩と打つ手もあるわね。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
止められても、こっちの飛車がすぐに死ぬわけじゃないわ。4六歩と伸ばして、と金の製造を急げば、間に合うと思う。4五角と打ってきたら、5四歩と遮断。放置で6三角成、同金、同龍は、まずいものね。
面倒なのは、5五角とかかな……4七歩成、1一角成、6四角、5一龍、1九角成。これも戦えるっぽい。お互いに馬付き穴熊だけど、こっちが先にと金を作っている。ふむふむ。
歩美先輩は、たっぷり5分使ってから、2五桂と跳ねた。
私も30秒ほど読み直して、4四角、2四歩、4三飛。
「4六歩」
それは予想済み。歩美先輩の手番で考えてあった。構わず5四歩。
同歩、5二歩、4四角、同飛、5三歩成、同歩、同飛成、2四飛。
「2六歩」
あッ……止める方を選んだか……。
4六歩。先に食らいついてやる。
「4八歩」
え、受けるの? ……これは読んでなかった。
てっきり、4五角か5五角かと……。
でも、受けてくれるなら、むしろ好都合。先着で6四角と打てるわ。6四角。
歩美先輩は1分読み直して、5一龍。
ここで3六歩……いや、3六歩は危ないか、3五角、3四飛に7一角成と切って、同金、2一龍なんかがある。
……………………
……………………
…………………
………………
あれ? 手がない?
動かせる駒がない……端歩を突くとかあるけど、それは先手の角打ちで困る。先手には指したい手があるのだ。
4六の歩が邪魔になってしまった。成り捨てて1九角成としようかしら? ……5三歩と垂らされるわね。先に5二歩成が入ると、こっちの負け。4七歩成〜1九角成の順だと、それを防げない。
私は困ってしまった。こっちが有利かと思ったけど、そうでもないのか。6三銀型と6八銀型の差が出ちゃってるわ。前者の方が、と金の製造に弱い。
……龍を退却させますか。
私は5七歩と打つ。
「龍の利きに歩……?」
歩美先輩は、私の手を見て、首を捻った。
「……ああ、そういうことか」
どうやら、狙いがバレたらしい。同龍、4七歩成、同歩、1九角成。このパターンなら、5三歩と打たれても、5四歩で止められる。あとは馬を引きつけて、なんとか2四の飛車を使えるようにすればいい。
「……同龍」
歩美先輩は、取る順を選択した。
4七歩成、同歩、1九角成。
「5一龍の戻りには、7三馬で後手か……4六歩」
歩美先輩は、馬筋を止めた。
これには対策を用意してある。4七歩。
無視して5一龍なら、4八歩成、5三歩、5七歩、5二歩成、5八歩成。こっちの方が、圧倒的に速い。
歩美先輩もそれはさすがに見落とさないから、4七同龍と取った。
2九馬、3八歩、1八馬。龍の閉じ込めに成功。
「やるじゃない」
いえいえ、それほどでも。
「最初の読みから、大きくズレちゃったわね」
歩美先輩は、もう一度読み直し始めた。
私も続きを読む。5六龍とムリヤリ世に出してくるんじゃないかと思うけど、そのときに5四歩と止めるか、それとも甘受して他の手を指すか、難しい。安全なのは、5四歩と止める方かしら。歩美先輩が龍と馬の交換を好むなら、4五龍と突っ込んでくる可能性もある。同馬、同歩……5四飛? 5七歩と止められたら、4七歩から頑張る。ただ、5四にいる飛車が目標になる虞も。うむむ。
パシリ。歩美先輩の指し手は……5二歩?
何これ……同銀で何かあるのかしら……っていうか同銀しかないか……同銀。
私が歩を払うと、歩美先輩は4五歩と伸ばした。
これは……馬筋の再遮断か。
3六馬と引く一手に見えるけど……5六龍が銀当たり。
なるほど、さっきの5二歩、同銀の交換は、この銀当たりで先手を取る狙いなのね。カラクリが分かって、なんとなく安心感が生まれる。将棋って、相手の狙いが見えないときほど不気味なことはない。たとえ悪手でも。
さてさて、5六龍に5三歩は、と金の製造ができなくなって終わり。6三銀と上がって、5一龍、4五馬、5三歩、3四馬みたいに、どんどん馬を引いて行きましょう。
私は、3六馬と引いた。
5六龍、6三銀。
「4二角」
あう、角打ちだったか。
「2三飛」
飛車の逃げ場所があって助かった。
歩美先輩は、5一龍と入り直す。
もう一回帰ってもらいましょう。5七歩。
「また?」
同龍、5四歩で、今度はさすがに鉄板ですよ?
歩美先輩は、こめかみに拳を当てて、テーブルに肘をついた。
残り時間は、私が8分、歩美先輩が10分。いい勝負。
中盤でかなり時間を使っちゃったわね。長考の連続だったし。
「……5四歩」
歩美先輩は、持ち時間が私と並んだところで、攻め合いを選んだ。
5八歩成、5三歩成、6八と、同金寄。
私は、再度5七歩と垂らす。
「同金、5八歩、6三と、同飛……これは戦えないか」
歩美先輩は、6三と、同飛を入れて、それから5九歩と打った。
私は継続手を考える。第一感は、6六歩。同歩なら同飛で、飛車が世に出る。先手もこれは許せないだろうから……ん、止める手がない?
私は残り5分を切ったところで、6六歩と突いた。
「7四銀」
……あッ、これがあったか。
私は泣く泣く2三飛。歩美先輩は7五角成と、馬を作った。
これは……攻めが続かない……。
ひとまず6七歩成を決めるか、それとも先に受けるか……。
私は1分考えて、6七歩成は意味がないと判断した。6六に馬が利いていて、結局何もできないのだ。仕方がないので、6一香と打ち、攻めと守りに両方利かせる。
「6六歩」
鉄壁……いや、こっちも鉄壁。先手からすぐに攻める手もない。
バランスは取れているはずだ。私は気持ちを落ち着けて、2六馬と移動した。
「2二歩」
露骨な桂取り……2五飛の一手?
私はそう指そうとしたけど、思い改めてお茶に手を伸ばした。一服。
……ふぅ、ちょっと頭に血が昇り過ぎ。2五飛じゃなくて同飛だわ。3一馬、2五飛、2一馬、5九馬の方が、先手の馬の位置が悪くなって効果的。5九馬に5七龍なら、攻めの手が遅れるから、こっちに2九飛成のタイミングがくる。よし。
「同飛」
私の同飛に、歩美先輩の顔が少しだけ曇った。
2五飛を期待してた? 去年の私ならそうだったかもしれないけど、今は違う。
歩美先輩は、顎に手を添えて考え込む。
「……先手の方が堅いと思ったけど、意外と難しいか」
紆余曲折あったけど、綱渡りは成功。ここからは終盤力勝負だ。
いざ、お礼参りッ!




