190手目 弱点を知る少女
始業式。
私は放課後の部室で、ぼんやりと駒を盤に打ち付けていた。
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「裏見さん、どうかしましたか?」
八千代先輩の問いかけに、私は顔を上げた。
「ずいぶん、深刻そうな顔をしていますが」
「実は……」
私は八千代先輩に、辻姉との会話を伝えた。
「姫野さんを倒す……ですか……」
「辻姉は、羽生vs佐藤、羽生vs森内を思い出せって……」
そのアドバイスの意味は、まだ見えてこない。
いや、総論的な部分は分かる。羽生善治からタイトルを奪うために、トッププロは様々な戦略を練った。最新の研究をぶつけるというのが、一番典型的。
でも、それは私にはできない。最新研究なんて持ってないから。
「単なる比喩だと思いますよ。佐藤、森内の真似をしても、勝てないでしょうね」
ぐさり。堂々と否定された。
「しかし、裏見さんが姫野さんに闘志を燃やしているというのは、意外です」
「そうですか?」
私って、基本的に負けず嫌いなんだけど。
歩美先輩ほどじゃなくてもね。
「ええ、団体戦で積極的に当たりたいとか、そういう要求を耳にしなかったので」
「そういう闘志は湧かないですね……チーム戦ですし……」
「チーム戦でも、駒込さん並みの闘志を出す人はいますよ」
あれは例外なんじゃないかなあ。
公私混同というか……なんというか……。
「ちょっと、1年生の春を思い出して……」
「喫茶店で姫野さんに、こてんぱんにやられたときですか?」
私は、正直に頷き返した。
「そう言えば、裏見さんが入部するきっかけになったのも、それでしたね」
もう一度頷き返す。
「姫野さんが団体戦に出ることはないでしょうから、個人戦が最後かと」
「やっぱり、そうですよね……」
「で、何か努力の方は?」
「夏休みは、将棋漬けでした……いろいろ本を読んだり……詰め将棋を解いたり……でも、強くなったっていう実感が伴わないです」
「観る専の私が言うのもなんですが、裏見さんは着実に強くなってると思いますよ」
それは、辻姉にも言われた。
団体戦の成績とかを見る限り、結果にも反映されている。
今なら、四天王クラスに一発入れてもおかしくない。
だけど問題は、その一発を、どこで入れるかだ。練習将棋じゃ意味ないもの。
「ハァ……」
私が溜め息を吐くと、八千代先輩は目を閉じた。
「……そんなに勝ちたいですか?」
「はい」
即答。
すると、八千代先輩は腰を上げて、鞄をまさぐり始めた。
一冊のノートを取り出す。ずいぶんと年季が入ってそう。
「これは今まで、誰にも見せたことがありません」
自作のポエムですか?
八千代先輩は、ノートを開く。
「姫野咲耶さんが将棋倶楽部24に登録していることを、知っていますか?」
「……知りません」
「でしょうね。本人は登録していないと公言しているので」
???
「しかし、実際は登録しているのです。あれだけの強豪が、ネット将棋を利用していないはずがありませんから」
話が見えてこない。
「どうやって調べたんですか? 本人から聞いたとか?」
「千駄さんは、24のユーザーネームを公開しています。彼のレートから姫野さんの予想レートを割り出し、そのレートに所属しているユーザーをすべて調査しました。もちろん、全局調べるわけにはいかないので、平日の午前・午後に不在、夜更かししない、個人戦や団体戦直前に対局数が増加、攻めの棋風などのパラメーターを用いました」
ふえぇ……もはやストーカーの領域……。
「その結果、間違いなく姫野さんだと思しきユーザーを発見したのです」
「それは……?」
「残念ですが、ユーザーネームは教えられません、プライバシーですから」
もうプライバシーもなにもないと思うんですけど。
「ともかく、姫野咲耶さんの棋譜が数百局手に入ったわけです。私はその中でも、特に彼女が負けた対局に注目しました」
「敗局に……? どうしてですか?」
「その人特有のミスが出やすいからですよ」
要するに、弱点ってことか。
「で、姫野さんには弱点があるんですか?」
「あります」
私は腰を浮かした。
「本当ですか?」
「そんなに驚くことじゃないですよ。プロでもあるんですから」
そう言われれば、そうだけど……でも、私は気付かなかったわよ。
「その弱点というのは?」
「非常に薄い受けを好む……ということです」
「薄い受け?」
八千代先輩は、パラパラとノートをめくり始めた。
こちらからは見えない角度。中身は企業秘密らしい。
「姫野さんの敗局を調べたところ、最後で逆転されるケースが多く見られました」
「将棋に逆転はつきものだと思いますけど?」
「もちろん、そうです。しかし、逆転のされ方に特徴があるのです」
「何ですか?」
「駒を投入すれば受かる局面で、なぜか薄い受けを選択してしまうのです」
つまり……駒を節約して、受けになってない手を指しちゃうってことか。
「でも、姫野さんがそんなミスをするんですか?」
「ここからは、憶測になってしまいますが……彼女の棋風はご存知ですよね?」
「超攻撃的、ってことですよね……知ってます」
「それが原因だと思うのです」
どういうこと?
私が首を傾げる中、八千代先輩は先を続けた。
「細い攻めを繋ぐという技術において、姫野さんの右に出る高校生はいません。少なくとも駒桜市内にはいません。千駄さんですら、ああも巧くは繋げられないでしょう。しかし、細い攻めを繋ぐというのは、無理攻めギリギリの指し方をするということでもあります」
そこまでは分かる。
春の個人戦凖決勝、姫野vs駒込戦がそうだ。
負けはしたけど、あの攻め方は真似できないと思った。
「すみません、話が見えてこないんですけど……」
「単純なことです。細い攻めを繋ぐには、持ち駒のすべてを、歩1枚に渡るまで使い尽くさねばなりません。守りに投入することができないのですよ」
「あ……ってことは……」
私は、ようやく合点がいった。
「つまり、姫野さんは、駒を打たずに受ける習慣がある、と?」
「手癖と言ってもいいかもしれません。ほとんど秒読みでミスが出ています」
そのとき私の脳裏に、ある局面が浮かんだ。
去年の藤花の文化祭で見た将棋だ。
「何か思い当たることでも?」
「去年の文化祭なんですけど……確かそういう将棋があったような……」
「ああ、余興でやった姫野vs千駄ですか?」
え、何で知ってるの。
「噂を聞きつけて、あとで松平くんに再現してもらいました」
八千代先輩は盤を取り出すと、そのときの局面を作り始めた。
私の将棋も記録されてるんじゃないでしょうね。怖い。
「ここから姫野さんは、5九金と引きましたね」
かなり怖い受けだ。
実際、姫野さんはここから負けている。
「これは、千駄さんが姫野さんを誘導した局面だと思います」
「誘導?」
「24で調べたところ、姫野さんと千駄さんのレーティングは、ほとんど同じでした。千駄さんが姫野さんに勝ち越しているのは、姫野さんの弱点に勘付いているからだと思います。この対局でも、わざわざ9二金と攻めの手を打たせて、そこから捩じ伏せているので」
うーむ……そういうことか……。
それなら、姫野さんが吉備さんに弱いのも分かる。
吉備さんは受けの達人だもの。
なんだかいいことを聞いた気がする。
いや、気がするんじゃなくて、間違いなく有益な情報だ。
完全無欠に見えていた姫野さんの将棋に、綻びが現れ始めた。
「……ありがとうございます」
「いえ、日頃から眠っていたデータですし、使う機会があって良かったですよ」
八千代先輩は、ノートを鞄に片付けた。
そして、眼鏡の位置を直す。
「但し、ひとつだけ気になることがあります」
「気になること?」
「個人戦に出るのは、姫野さんひとりではありませんよ」
うッ……確かに。
「こう言っては失礼かもしれませんが、春の個人戦は、1回戦で大場さんに負けていたはずの将棋です。あのときは時間切れに助けられましたが、二匹目のドジョウはいないと思った方がいいのではないかと……ともかく、一戦一戦を大事に戦ってください」
「……はい」
八千代先輩にお説教されるとは……やっぱり、個人戦凖優勝、団体戦4−1ってことで、天狗になってたところがあるのかも。合宿じゃ1−2だし、名人戦も初戦敗退。
優勝一直線ってポジションじゃないわね。
「アドバイス、ありがとうございました。とりあえず1回戦突破を目指します」
「頑張ってください」
○
。
.
というわけで、9月7日、個人戦初日です。
女子は今日で指し切り、男子は二日制。
はりきって行きましょう。
「今度こそ、角ちゃんが優勝するっス」
大場さんも、大張りきり。
「今回は狙い目ですわ。3年生が3人しか出ておりません」
ポーンさんは右腕を前に出して、存在をアピール。
実際、出ている3年生は、歩美先輩、姫野さん、甘田さんだけ。
うちはヤル気が感じられませんね、まったく。
「3人しか出てないけど……その3人が強過ぎる……」
飛瀬さんの冷静なコメント。
「アハハ、男子も3年生が少ないんだよね」
男子陣営も、話に加わって来た。
「めぼしいのは、千駄前会長と菅原先輩くらいか」
箕辺くんは額に手を当てて、会場をぐるりと見回した。
「松平先輩の気合いが凄いから、違う山に入りたいね」
捨神くんは、へらへらと笑った。
松平はいつものように立ち歩かず、会場の隅っこで目を閉じている。
ガチで優勝を狙いに行ってるわね、これは。
「それでは、組み合わせが決まりましたので、確認してください」
くららんの合図に従い、みんなホワイトボードへと群がった。
私もこっそり割り込みまして……。
うわぁ……これは……。
「うまくバラけた感じっスね」
強豪同士が潰し合ってないから、右も左も激戦区。
「1回戦シードですわ」
「私も1回戦シード……」
ヨッシーは、微妙に感動していた。
「香子ちゃん、よろしくぅ」
甘田さんが揉み手で近付いてきた。
これは……カモだと思われてるわね。
なんだか腹立たしい。
「女子は4回戦までありますので、早速始めたいと思います」
くららんは、着席の指示を出した。
女子はぞろぞろと移動する。
「2回戦シードの山だから、お互いにラッキーだね」
「そうですね」
ここを勝てば、そのまま準決勝進出。
男子と違って人数が少ないから、それじゃステータスにならない。
私たちは、無言で駒を並べた。
「振り駒をお願いします」
私は甘田さんに譲る。
「ひょいっと」
歩が4枚……私の後手か。
「チェスクロは私の右でお願いします」
「了解」
会場からは、男子の話し声が聞こえた。
姫野さんや歩美先輩の対局席には、そこそこの人集りができていた。
「……それでは、対局を開始してください」
「よろしくお願いします」
私は一礼して、チェスクロのボタンを押す。
「序盤はだいたい予想がつくけどね……7六歩」
私はひと呼吸入れて、8四歩。
以下、6六歩、3四歩、7八飛、8五歩、7七角と進んだ。
三間飛車vs居飛車。これは予想通りだ。
夏休みの間に、ちょっとは対策してきたわよ。
6二銀、6八銀、4二玉、4八玉。
序盤は飛ばす。
3二玉、5八金左、3三角、3八銀、2二玉。
「まあ、穴熊にするよね……4六歩」
1二香。穴熊一直線。
3六歩、1一玉、3九玉、2二銀、1六歩、5四歩。
8月に合宿があったのは、幸運。
適当に指したんじゃ、甘田さんには勝てないわ。
5六歩、5二金右、1五歩、4四歩。
「前回と違うね」
合宿のときは、5三銀〜4四銀とした。
今回は、オーソドックスに歩で止めるわ。
「形としては、こっちの方が経験多いけどね。4七金」
4三金、5七銀、5三銀、3七桂に、5一角。
角の展開を急ぐ。
2六歩、7四歩、2七銀。
甘田さんも、銀冠へと移行し始めた。
9四歩、9六歩の交換を入れてから、3二金と固める。
「3八金」
「4二銀」
「ガチガチに固める作戦か……」
甘田さんは2八玉と上がりかけて、すぐに手を戻した。
どうやら長考するつもりらしい。私も読みを入れる。
「……6五歩」
角道を先に開けたわね。
私は30秒ほど読み直して、8四角と出た。
甘田さんは、角筋を避けて2八玉。
「3一金」
私の金引きに、甘田さんは目を丸くした。
「松尾流じゃないんだ……」
松尾流は、手が作りにくい。
駒桜名人戦で、松平と猫山さんの対局を観て、そう思った。
さらに4二銀は、相手に時間を使わせる手でもある。
実際、残り時間は私が25分、甘田さんが22分。3分差をつけている。
「あぁ……なるほど、6八飛に7三角〜5三銀と戻るのか」
正解。
今回は、甘田さんに動いてもらいましょう。
後手番だから、千日手は歓迎します。
「ここは三間党としての腕の見せ所かな。6八飛」
甘田さんは、構わず飛車を寄った。
私は7三角と受ける。
「6九飛」
手渡し……こっちも手渡しするかどうか……。
いや、そこで悩んじゃダメね。持ち時間の無駄だわ。5三銀。
2五歩、3二金、9八香。
手渡し合戦になってきた。
候補は……4二銀? ただ、4二銀は6六銀と上がられる展開が気になる。そのときに、5三銀と上がり直すのが得策かどうか。例えば、5三銀、7五歩、同歩、同銀、7六歩、5九角と引かれたとき、こちらに手がないかもしれない。7五歩に8四飛の受けは、7四歩、同飛、7五歩と押さえられて、8四飛に7九飛〜5九角が見える。
となると、別の受けが必要なわけで……再度3一金もあるかなあ……。
私は迷った挙げ句、9二香を選択した。
「いやあ、居飛車がそこ上がりますか」
自分でも良かったかどうか分からない。
甘田さんは、すぐに4八銀と引いた。
6六銀がなくなったわね。安心の4二銀に、3九銀。
んー、やっぱり計画通りには行かないなあ。結局、松尾流になっちゃいそう。
これは千日手コースかも。
私は3一銀右として、固め合いに乗った。
1八玉(?)、7二飛、2八銀、9一角、6六角、7三角。
「香子ちゃんは、今のところ打開する気なしか……1七銀」
甘田さんは、かなり変則的な囲いを選択した。
5一角、2六銀右。こんなのあるんだ。
8二飛、7七角、4二角。6筋を巡る攻防戦。
お互いに角と飛車しか使えないから、バランスは取れている。
「これは振り飛車側も十分になってきたね。2八玉だよ」
うッ……あの不規則な組み替えから、完璧な銀冠。
甘田さんの一芸を見たような印象に駆られる。
「ウマいでしょ?」
ですね……ん、待ってよ。
これ、8六歩って突っかけたら、どうなるの?
8六歩、同歩、同角に8八飛の返し技がないから……見落とし?
私は、甘田さんの顔をちらりと盗み見た。いつものニヤケ顔。
甘田さんが見落としてるのか、それとも私の知らない筋があるのか……ここは、甘田さんリスペクトで、後者を前提に考えた方がいいかしら。8六歩、同歩、同角……6六角とか?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
角は成れないけど、先手がいいとも思えない。
例えば5三角とすぐに引いて、8四歩、7五歩。これに同角は同角で成功だし、同歩は8四飛で、8筋が本当に受からなくなる。そこで代償があるかどうか。
……4五歩と開戦するしかない? 同歩、同桂、4二角、6四歩、4四歩、6三歩成、4五歩……一応、後手の桂得か……4五同桂としないで、即座に6四歩? 同角、7五角、同角、同歩、8四飛、6三飛成は、次に4五桂の跳ねがあって、先手有利っぽい。
となると、4五歩を無視して、即座に8四飛ね。4四歩、同金、6四歩、同歩、7五角、8八飛成、6四角、同角、同飛、8九龍。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これは……飛び込んでもいい順かな。
先に駒得できるし。8九龍のところで、7三角、6一飛成、4六歩もありそう。4八金引とさせてから、8九龍。もしここで4五歩と押さえてきたら、同金、同桂、4七歩成が炸裂する。
私は残り時間を確認した。私が17分、甘田さんが19分。
逆転しちゃってるけど……この順で戦えるはず……。
私は覚悟を決めた。千日手路線を捨てる。
「8六歩」
合宿での借り、返してもらいましょう。
アクセス状況を調べたところ、週末は10時あたりからアクセスがありましたので、これからは平日7時、週末10時にしようかと思います。