186手目 違いを感じる少女
8月10日、日曜日。
今日は駒桜市民会館にやって来ました。
理由は、もちろん……。
「それでは、駒桜名人戦1回戦の抽選に入ります」
駒桜市最大規模の大会。
市立の将棋部からは、私と歩美先輩が出場。
あと、松平も。
「今年はベスト16くらいに入りたいよな」
松平はパイプ椅子に寄りかかって、ぼんやりとそう呟いた。
「ベスト16はデキ過ぎよ。そんなに甘くないわ」
歩美先輩は人差し指を立てて、松平を威嚇する。
「ベスト16は、2012年の千駄さん以来ですね。女子だと、同じ年に姫野さんがベスト32に入ったのが最高記録だと思います」
八千代先輩は、あいかわらずのデータベースぶりだ。
「辻姉と久世さんも参加してるみたいね」
歩美先輩は、会場の隅っこを見やった。
確かに、辻姉と久世さんがいる。
「高校生は、あんまり出場してないんですね」
私も、周囲を確認しながら言った。
「駒桜名人戦に出るのは、基本的に個人戦決勝クラスだけです」
そうなんだ。
私は一応、参加してもいいレベルかな。今年凖優勝だし。
「千駄さんは来てないんだな」
「模試だそうです」
どこからそういう情報を入手してるんですかね?
「姫ちゃんは来てて……他の3年生はいないっぽいかしら」
まあ、歩美先輩が例外かと。
あと八千代先輩も。
ふたりとも受験は大丈夫なんでしょうか。
「抽選が終わりましたので、ホワイトボードを確認してください」
私たちは、組み合わせを確認する。
私の番号は18。対戦相手は……32か。テーブルは7番。
結構前の方だ。
「時間が押していますので、すぐに着席してください」
「それじゃ裏見、頑張れよ」
「松平こそ、去年みたいに頓死しないようにね」
「ぐッ、覚えてたか」
覚えてますとも。
7番テーブル、7番テーブル……。
あった。私は着席する。相手はまだ来ていない。
不戦勝になったりしないかしらん?
「いやぁ、すみません」
スーツ姿の男性が、目の前の椅子を引いた。
ん、この声は……。
「天野先生」
「ん、君は……」
天野先生は、ちょっと寝癖のある髪の毛に手を当てた。
「えーと、名前、何だっけ?」
さ、さすがに覚えてもらってないか。
「市立の裏見です」
「ああ、裏見さんね。升風の天野です。よろしく」
なんだか気の抜けた話し方だ。
どこか飄々としている。
「じゃ、エントリーシート交換ね」
私たちは参加票を交換して、お互いに名前を書いて戻した。
「それでは、振り駒をお願いします」
私は天野先生に譲って、歩が1枚。私の先手だ。
「チェスクロは僕の右で」
「はい」
私は、チェスクロを自分の左に置く。
「対局準備の整っていないところはありますか?」
特になし。
「対局を始めてください」
「よろしくお願いします」
天野先生はチェスクロを押す。
30分60秒の長丁場だ。
私は深呼吸して、7六歩。以下、8四歩(居飛車党か)、6六歩、3四歩、6八飛、5四歩、7八銀、6二銀、4八玉、4二玉と進んだ。
振り飛車にしてみました。
もちろん遊んでるわけじゃない。穴熊で持久戦にするわよ。
3八玉、3二玉、2八玉、8五歩、7七角、5三銀。天野先生も、さすがに穴熊っぽいわね。だいた予想通りかな。1八香。
「ま、そうなるよね」
天野先生は3三角と上がって、6七銀、2二玉、1九玉に1二香。相穴確定。
ここは広瀬流で行きましょう。5六銀。
4四歩、4六歩、1一玉。
お互いにかなり早指しね。ほとんど時間を使ってない。
2八銀、2二銀、4八飛、5一金右。4筋を守らないのか……4五歩、同歩、同銀、4二金右、3四銀、2四角、5八金左、4四歩……突っ込んでも戦果は上がらなさそう。穏便に3九金としますか。
3一金、5九金、4一金右、4九金左、3二金上、3六歩、7四歩。
3八金上としたいけど、5筋の守りがスカスカ……4五歩に2四角の覗きが残る。先手の形としては、もうこの段階がベストかな。
私は手待ちで9六歩と突いた。振り飛車によくある筋だ。
「こっちも動きにくいんだよねえ」
天野先生は、ちょっと困ったような顔をした。
全体的に闘志が感じられない。けど、冴島先輩を倒してるのよね。フロックでない限り、私が倒されても不思議じゃない実力のはず。用心しましょう。
「こうかな?」
天野先生は1四歩。手待ちか……1六歩。
手待ち返し。
「9四歩もあるけど……」
天野先生は、7筋に手を伸ばした。
開戦。
同歩、6四銀or7二飛。後者が有力かしら。
7二飛……6五歩、7五飛、4五歩、同歩……なわけないか。4五歩、2四角、5八金左と受け……るのは冴えない。もうちょっと踏み込んで、5八金左と上がらずに、4四歩、5七角成、4三歩成、4八馬、3二と。この剥がし合いは、先手有利。もちろんそうは指さないだろうから、4四歩、4二歩の受け。ここで5八金左と戻した方が得だ。
問題は、そこで後手が何を指すかだけど……7三桂かな?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
この対応が難しいかも。
私はペットボトルのお茶を飲んでリフレッシュ。
続きを考える。
……………………
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…………………
………………
4五飛かな?
6五桂を封印すれば、後手は動きにくいはず。7七飛成、同桂、8八角、5一飛。これは先手がいい。まさか3三金~4四銀なんてしないでしょうし。
ただ、こっちからも動きにくいか……若干手詰まり模様……。
千日手が心配になってきた。
私は時間を使わないように、早めに7五同歩とする。
7二飛、6五歩、7五飛、4五歩、2四角、4四歩、4二歩、5八金左。
読み落としはなかったようだ。ここで天野先生は小考。
7三桂しかないんじゃないかしら。8六歩は同角、7九飛成、5三角成。
3分後、予想通りの7三桂が飛んでくる。
私は4五飛と浮いた。
「んー、そうなんだよねえ」
天野先生はさらに30秒ほど考えて、飛車に指を添えた。
これは……手待ち?
7四飛、4八飛、7五飛、4五飛の繰り返しを狙ってる?
私はチェスクロを確認した。私が24分。天野先生が21分。
差があるから、少しは考えてもいいかしら。じーッ。
……………………
……………………
…………………
………………
あ、5五歩か。
4八飛、5五歩、同銀、6五桂は、こっちが潰れ。4七飛と引いても、5五歩、同銀、6五桂、9五角、7八飛成が金取りの先手で、4八金寄、8九龍、5一角成、9九龍。これは駒損が酷い。
となると、飛車は引けない。この状態で動かせる駒は……4八金寄くらいか。以下、5五歩、同飛、5四銀、2五飛。ギリギリ助かっている。7七飛成、同桂、8八角、5一飛、7七角成、5四飛成。次に4五銀と出て、何とかなりそう。
私はもう一度確認してから、4八金寄とした。
5五歩、同飛、5四銀、2五飛。
天野先生は1分読んで4六角。
形崩し? 指す手がないから、4七金に2四角と戻るつもりかしら?
でもそれなら、4八金引と戻ればいいだけの話だ。手渡しになってない。
そこまでうっかりしてるはずないわよね。
4七金……ん、4七金、2四歩、2六飛、2八角成、同金、2五銀とか?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
同飛、同歩……4三歩成、同歩、7五歩、同飛、6六角打、7七飛成、同角、5五歩、6七銀、6五桂……これは私の方が悪い……いや、そうでもないか。6六角、6九飛、7八銀打とガッチリ受ければ、一応駒は取られない。ただ、飛び込みたい順でもない。こちらが一方的に受ける展開になってしまう。
4三歩成に同銀も考えられるのよね。4三歩成、同銀、7五歩、同飛、6六角打、7七飛成、同角、7九飛、7一飛、8九飛成、7三飛成、2六歩……急所か。同歩、2七歩、同金は、3八角、2八玉(2八金は2七桂で即詰み)、2九龍、3七玉、2七龍、4六玉、4四金と打たれて、同角、同銀が5四桂の詰みと4七角成、同銀、3七角からの王手龍取りを見せて終了。ありえない。
となると……7三飛成がヌルいから……即座に2三銀? 同金、3一飛成、3三銀打……ダメだわ、これは寄らない。
私は、もう一度お茶を飲んだ。これは先手悪いかな……既に……。
この局面から飛車を逃がす手を考えたけど、見当たらない。4七金と上がらずに、有効に動かせる駒もない。残り15分。私は4七金と上がった。
天野先生は即座に2八角成と切って、同金に2四銀と打った。
え? 2四歩じゃない?
読みを外されてしまった。
……………………
……………………
…………………
………………
ヴィー、ヴィー
ん、この音は。
「ちょっと失礼」
天野先生は胸ポケットを触ってから、席を立った。
どうやら携帯電話が鳴ったらしい。奥さん? 同僚?
……ま、いっか。とにかく考えましょう。
2四銀なら飛車が死なないんだけど……これは……2六飛に6五桂?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
狙いがあるとすれば、これしかない。
ただ、これはさっきの殴り合いよりもいい気がする。4三歩成、同歩(今度は6五銀があるから同銀と取れない)、7五歩、同飛、6六角打、7七飛成、同桂、同桂成、同角。このとき、後手は飛車を持ってないから、攻撃が続かない。先に5一飛と打ち下ろして、4二歩の垂らしから、同金寄、2二角成、同金、3一銀を狙えばOK。最悪、2四飛と切って、一気に潰す順までありそう。
私は2六飛と引いて、天野先生の着座を待った。
1分後、ようやく戻って来る。
「ごめん、ごめん」
天野先生は盤を眺めて、うんと頷いてから6五桂と跳ねた。
4三歩成、同歩、7五歩、7二飛。
む、引いた。どうも読みが噛み合わない。
私は1分ほど考え直して、方針変更で6六角と上がった。
天野先生は5五歩と追撃してくる。取るか取らないか……6七銀と引いても、いきなり潰されることはないだろう。8六歩、同歩、8二飛、7三角、8六飛、8八歩。まさか6六飛と切ってくるとは思えない、多分。
私はもう一度読み直す。6七銀、5二飛には、7三角で大丈夫。気になるのは、7六歩かな。7六歩……6一角、7一飛、5二角成とプレッシャーを掛けて、7七歩成、同桂、同桂成、同角。別に怖くはない。後手には継続手がないから。
私は自信を持って6七銀と引いた。
「さてと、ここだな……」
天野先生は両手を合わせると、それを口元に当てて考え込む。
意外と困ってるんじゃないですかね?
私は7六歩以下を掘り下げた。
……………………
……………………
…………………
………………
「ふむ」
天野先生は溜め息を吐いた。
「ゆっくりいこうか」
4四歩? 4五銀と出る準備……なわけないか。5五角がある。
私は見落としがないか確認して、6一角と打った。
4二飛(?)、3四角成。
「もう一段、と」
……………………
……………………
…………………
………………
あれ? あれあれあれ?
4六歩……4六歩が受からない?
4六歩、2四馬、同歩、同飛、4七歩成、5四飛……は、と金が強過ぎる。3七金上……は3八歩で受けになっていない。どのみち、と金を作られちゃう。
この時点で、私の持ち時間は10分を切った。
歩の伸ばしが、ここまでキツいとは……4四歩と止める? 4四歩、3三銀引、3五馬、4四銀、3四馬、3三銀引……千日手になりそう?
千日手なら御の字だ。私は4四歩と止めた。
天野先生は、3三金と上がった。
圧殺……圧殺される……。
6一馬、4四飛は、もう無理。馬を切るしかない。
ただ切り方が問題なわけで……2四馬、同歩、4三銀、同銀成、同飛、5五角、4六角は潰れ。5五角に代えて3五銀と打っても、4六銀の打ち込みで死ぬ。
3三馬と金の方を取って、3七金打と粘る?
3七金打、4四銀……ああ、何もできない……。
私は散々考えた挙げ句、2四馬と切った。
同歩に5三銀と捻る。
4一飛、3五歩。小康状態?
「思ったより粘られるかな」
天野先生は1分使って、6九角。これも厳しい。
私は3六金と逃げて、4六歩。
同金、2五歩、3六飛、同角成、同金、6九飛。
うへぇ……銀の逃げ場所が……。
私はなけなしの7八角。
4九飛成(金に当てなかった?)、7六銀、4七歩。
手堅いなあ。ここで私は1分将棋に。天野先生は、まだ8分残している。
3四歩、3二金引、3七金引、4八歩成。
指す手がないです。
ピッ。私は時間に追われて、6七角と上がった。
5九龍、6五銀、同銀、5五角、5七龍、9一角成、5三龍。
駒損の受け。
4五桂、5七龍、8五角、4七と、3六金、3九銀。
……終わりそう。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
私は2四香と打った。
2八銀成、同馬、3八金の詰めろ。
「……負けました」
「ありがとうございました」
……………………
……………………
…………………
………………
完敗。
「ちょっと酷かったですね」
「んー、6七銀は意外だったかな」
私たちは感想戦を始める。
「5五歩に同銀と取った方が良かったですか?」
「同銀、同角、5二飛?」
「6六角って打ちますね」
「5八銀、4八金、6七銀成は悠長過ぎるかな」
ありそう。
「2五銀打と飛車を殺すのは?」
天野先生は、より過激な順を選んだ。
「同飛、同銀ですよね」
ここで手があるかどうか……。
「4二歩と垂らします」
この歩が本譜でも打てればなあ。
かなり味良しなんだけど。
「同金寄には、2二角成、同金、3一銀狙いか……4九飛と下ろすよ」
「4一銀で」
私は露骨に打ち込む。
4七飛成、5二銀成は、5五角がいるから何とかなりそう。
「飛車を切ると?」
「同角じゃないですか?」
「4二金寄で銀が死なないかな?」
あ、そっか。
「3二銀成、同金に5五角とします」
「こっちは金を拾って……と」
……どっちがいいの、これ?
「枚数が多い分、こっちが有利かな?」
天野先生は、自分の陣地を指差した。
そう言われるとそうだけど……こっちもそこそこ粘れるような……。
「あと、ひとつ質問があるんですけど」
「ん、何だい?」
「4六角、4七金のところで、2四歩はダメなんですか?」
「えーと、それって……」
「こういうこと?」
「はい」
天野先生は、腕組みをして椅子にもたれかかった。
「……4六金、2五歩だと?」
「2六飛と引かないんですか?」
「それは2八角成、同金で穴熊が薄くなるから、ダメなんじゃないかな」
んー、そういうことか。一枚穴熊よりも二枚穴熊。
「飛車角を取り合って、4三歩成、同銀、7五歩、同飛、6六角打とかですか?」
「本譜と違って、この形で6六角打は効果が薄いように見えるね」
「でも、それ以外に攻め筋がないような……」
私たちは、ふたりで読みを入れた。
「ちょっと難しいね。角をどこかに打って、馬を作る展開か」
確かに、それっぽい。
「まあ、こっちは5九飛があるから、これでも良かったかもしれない」
結局、天野先生持ちか。
「全体的に冴えなかったですね」
「裏見さんは若いから、まだまだ強くなるよ」
ふむ……だけど、既に高校2年生。
松平にビーチで言われたことが、今さらながらに思い起こされた。
「周りを見ても、2年生がピークって言う人が多いと思います」
「それは高校生だからだよ。大学将棋、社会人将棋と経験して行けば、また違う感想を持つようになるさ。僕なんかは、大学生のときが一番強かったけどね」
天野先生はそう言って、ハハハと笑った。
これで弱体化してるのか。現役のときは、どれくらい強かったのかしら。
「そんなに違いますか?」
「高校1年の春は、受験開けのリハビリ、3年は受験。実質的に1年半しかない。大学は2年半。この違いは大きいよ。実際、高校でちょっと名前が通ってたくらいじゃ、大学将棋は全然勝てないからね」
ふぅむ……よく分からない。
ヴィー、ヴィー
「っと、また電話だ。これで失礼していいかな?」
「はい、ありがとうございました」
場所:駒桜名人戦1回戦
先手:裏見 香子
後手:天野 賢一
戦型:先手四間穴熊vs後手居飛車穴熊
▲7六歩 △8四歩 ▲6六歩 △3四歩 ▲6八飛 △5四歩
▲7八銀 △6二銀 ▲4八玉 △4二玉 ▲3八玉 △3二玉
▲2八玉 △8五歩 ▲7七角 △5三銀 ▲1八香 △3三角
▲6七銀 △2二玉 ▲1九玉 △1二香 ▲5六銀 △4四歩
▲4六歩 △1一玉 ▲2八銀 △2二銀 ▲4八飛 △5一金右
▲3九金 △3一金 ▲5九金 △4一金右 ▲4九金左 △3二金右
▲3六歩 △7四歩 ▲9六歩 △1四歩 ▲1六歩 △7五歩
▲同 歩 △7二飛 ▲6五歩 △7五飛 ▲4五歩 △2四角
▲4四歩 △4二歩 ▲5八金 △7三桂 ▲4五飛 △7四飛
▲4八金寄 △5五歩 ▲同 飛 △5四銀 ▲2五飛 △4六角
▲4七金 △2八角成 ▲同 金 △2四銀 ▲2六飛 △6五桂
▲4三歩成 △同 歩 ▲7五歩 △7二飛 ▲6六角 △5五歩
▲6七銀 △4四歩 ▲6一角 △4二飛 ▲3四角成 △4五歩
▲4四歩 △3三金 ▲2四馬 △同 歩 ▲5三銀 △4一飛
▲3五歩 △6九角 ▲3六金 △4六歩 ▲同 金 △2五歩
▲3六飛 △同角成 ▲同 金 △6九飛 ▲7八角 △4九飛成
▲7六銀 △4七歩 ▲3四歩 △3二金引 ▲3七金引 △4八歩成
▲6七角 △5九龍 ▲6五銀 △同 銀 ▲5五角 △5七龍
▲9一角成 △5三龍 ▲4五桂 △5七龍 ▲8五角 △4七と
▲3六金 △3九銀 ▲2四香 △2八銀成 ▲同 馬 △3八金
まで120手で天野の勝ち