177手目 迎え入れる少女
今日は8月2日。土曜日。って言うか、夏休み。
校内は静まり返り、グラウンドで部活の掛け声だけが響いていた。
普通なら学校には来ないけど、ちょっと今日は用事があった。
ひとつは、合宿に持って行く道具を揃えること。
もうひとつは、オープンキャンパス。
駒桜市立高校を受験する中学生たちが、今朝はちらほら見えた。
保護者同伴の人もいれば、学生で固まったグループもいる。
説明会を終えた彼らは、今から部活見学にやって来るのだ。多分。
「裏見先輩、準備できました……」
飛瀬さんは盤とチェスクロを袋に詰めて、私に差し出した。
「んー、今日持って帰るわけじゃないから……そこらへんに置いといて」
「了解……」
飛瀬さんは、袋を部室の隅っこに持って行こうとした。
「あ、そこじゃなくて、ロッカーに入れといて。狭いから、あとで……」
そのとき、部室のドアが開いた。
「先輩、説明会が終わったみたいです」
偵察に向かっていた来島さんが、眠そうな顔を覗かせた。
「誰か来るんですかね……?」
と飛瀬さん。
知らんがな。
オープンキャンパスには来たことあるけど、そのとき将棋部は見なかった。
っていうか、将棋部に入る予定なかったし。
「誰も来ないなら、お昼寝してもいいですか?」
「ちょっと待って、まだ5分も経って……」
「こんにちは」
おっと、お客さん。
私たちが振り向くと、そこにはおとなしそうな男の子が立っていた。
ちょっと吊り目で、髪を7:3に分けている。
制服からして、二中(駒桜第二中学校)の生徒みたいね。
「こんにちは、部活見学?」
「いえ……そういうわけでは……」
???
「道に迷った?」
「ちょっと人を待たせてもらっていいですか?」
「ここで?」
男の子は頷いた。
なんで将棋部の前で待ち合わせるかな。
「別にいいけど、場所間違えてない?」
「女子将棋部ですよね、ここ?」
……間違えてないっぽい。
私は、怪訝そうに男の子の顔を見つめた。
……誰かに似てる気がする。
吊り目、無造作な髪型、そしてこのふてぶてしさ……まさか。
「歩夢、お待たせ」
でたーッ!
「どこ行ってたの?」
男の子は、タメ口で尋ねた。
「ト・イ・レ」
歩美先輩は恥じらいもなく、部室に上がり込んだ。
「誰か来た?」
「まだ誰も……」
「ま、そうでしょうね」
達観しちゃダメでしょ。
来年度0だと、少子高齢化で廃部の危機ですよ。
私と飛瀬さんと来島さんしかいないんだから。
「暇そうだし、助っ人を連れて来たわよ」
歩美先輩は、さっきの男の子を指差した。
「助っ人を了承した覚えがないんだけど」
「どうせ暇でしょ」
「受験生が暇なはずないし」
「これだから、デキの悪い弟は困るのよね」
や、やっぱり……よく見ると、雰囲気がかなり似てる。
「僕はデキの悪い姉を持って困ってるけどね」
辻くんのところと、対照的。
どうやら仲がよろしくないらしい。
足して2で割れば、ちょうどいいんじゃないかしら。
「えーと、助っ人っていうのは……?」
私は話題を戻した。
「やっぱり、先客のいた方が、入りやすくていいじゃない?」
ほえぇ……歩美先輩らしからぬ気配り……不気味。
「って言うのは口実で、姉さんはキャンパス案内が面倒なんですよ」
「将棋部以外に見るとこないから」
あるがな。
「そう言えば、裏見さんって、結構強いんですよね?」
オホホ、そうでもありましてよ。
でも、ここは謙虚に。
「普通かな」
「普通って何よ? 初段? 二段? 三段?」
歩美先輩の突っ込み。
あいかわらず空気が読めてない。
「とりあえず、僕と一局指しませんか?」
こいつ……将棋バカだ。
姉が姉なら弟も弟……血の繋がりを感じるわね。
「きみの棋力……えーと、名前は?」
「歩夢です。歩くに夢」
歩美先輩と似せてるのか。
それでも珍しい名前。
「じゃあ、歩夢くんの棋力は?」
「私よりちょっと弱いくらいじゃない?」
歩美先輩が代わりに答えた。
「僕の方が弱いってことはないと思うけど」
「2273勝2059敗、私の方が214も勝ち越してるじゃない」
指し過ぎィ!
「年齢差があるからね。僕の方が始めるの遅かったし」
「それは言い訳にならないでしょ」
はいはい、お互い将棋バカなのは分かったから、とっとと指しましょう。
私が席に座ると、歩夢くんもすぐに腰を下ろした。
歩美先輩といい勝負なら、気合いを入れないと勝てないわね。
駒を並べていると、廊下の方で女の子の笑い声が聞こえた。
「あった、あった、ここじゃろ」
「開いてるかな?」
「人がいるように見えます」
ん、この声は……。
がらりと扉が開いて、女子中学生3人が姿を現した。
「裏見さん、お久しぶりです」
最初に頭を下げたのは、例の巫女さんだ。
「馬下さん、お久しぶり」
「裏見先輩、こんち」
「あれ、駒込くんいるよ」
三つ編みの少女が、歩夢くんを指差した。
歩夢くんは、ちらりと視線を走らせただけで、そのままチェスクロに手を伸ばした。
「10秒将棋でいいですね」
ふわッ!?
「さ、30秒にしない?」
「お客さんが他にもいますから、速く回した方がよくないですか?」
ん、そういうことか。一理ある。
「飛瀬さん、来島さん、3人の相手してくれない?」
「私も手伝うわよ」
将棋が指せるからか、歩美先輩も盤駒を取り出した。
狭い、狭い。
「では、振り駒を……」
歩夢くんは、勝手に振り駒をした。
「歩が0枚……僕の後手ですか」
歩夢くんは歩を戻して、チェスクロに手を伸ばした。
「よろしくお願いします」
「よろしく」
7六歩、8四歩。
ほぉ……歩美先輩と一緒で、居飛車党ですか……。
正々堂々と受けて立ちましょう。6八銀。
「振り飛車じゃないんですね」
「私はどっちも指すから」
「なるほど……では、3四歩で」
6六歩、6二銀、5六歩、5四歩、4八銀、4二銀、5八金右、3二金。
……普通。
7八金、4一玉、6九玉、5二金。
早めに金を上がったわね。
7七銀、3三銀、7九角、3一角。
お互いに角を引き合って、私は3六歩と突いた。
4四歩、6七金右、4三金右、3七銀、5三銀。
ん……5三銀か……総矢倉あるいは中央からの仕掛け……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
私は1六歩と、端を打診してみた。
歩夢くんは1四歩と突き返す。
2六歩、7四歩、6八角、6四銀、7九玉、7三桂。
先に受けときますか。8六銀、と。
4二角、2五歩、3一玉。
ここで私は小考。8八玉と上がるのは、ちょっとタイミングが変かしら。
普通に進めて行ってもいいけど……力試し。2六銀。
「棒銀ですか」
歩夢くんは、ちょっと意外だった模様。
「先に攻撃しますね」
人差し指を中央の歩に添えて、歩夢くんは5五歩と進めた。
んー、これは同歩に5二飛か……。
ま、取るしかないわよね。同歩。
以下、5二飛に5八飛と回ってみる。
2六銀との組み合わせがイマイチかも。
歩夢くんは5五飛とぶつけてくる。
これは当然拒否で、5六歩、5一飛。
さて、ここでどう繋げるか。
2八飛とは戻れないけど、2六の銀を遊ばせたくもない。
というわけで、1五歩。
2二玉と上がっていないから、端が1枚薄い。
同歩、同銀に、歩夢くんは1三歩と辛抱した。
さすが潰させてくれないか。
一旦8八玉と上がりましょう。
8五桂、5九飛、9四歩、4六角、4五歩、3七角。
こっちがいい感じじゃない?
端でポイントを上げつつ、角の展開に成功。
「ちょっと適当に指し過ぎたかな」
手抜いてるとか、そういう言い訳は許しません。
「7一飛です」
歩夢くんは、5筋からの攻勢を諦めた。
6五歩、7三銀と下がらせて、2六角。
我ながらいい手順だ。
7二飛、3七桂、6四歩。
ここで同歩は面白くないから、8五銀と喰い千切って、同歩、5五桂。
ほらほら、反撃してみなさいよ。
私の声が聞こえたみたいに、歩夢くんは8六歩と仕掛けてきた。
同歩、6五歩。
え? 6五歩?
「それ、6三桂成ってできちゃうけど?」
「どうぞ」
罠? ……いや、4三桂成とさせない撒き餌か。
銀損にはなるけど、4三桂成〜4五桂とかの方が厳しいと読んだわけね。
でもでも、銀得は美味しいわよ。もちろん便乗。
6三桂成、9二飛、7三成桂、3五歩。
これは何?
同角だと……あ、6四角か。成桂と桂馬の両取り。
だったらこれは取れないから……7七金寄。
「さすがにひっかかってくれませんよね」
歩夢くんは8五歩と継いで、6九飛、8六歩、6五飛。
「6四銀」
うッ……単純な見落とし……。
8五飛、7三銀、8三飛成。
成桂を寄った方が良かったかも……いや、本譜もまだ先手良し……。
6四銀、3五角。
「これ、ヘタに手出しできないな……5一歩」
有効な手渡し。将来的な飛車の打ちおろしを警戒している。
私は7一角成と、馬を作った。
そこで7五歩。
また攻めに転じた……? これはよく分からない。
8六金と拠点を払って、7六歩、2四歩、同歩、2二歩と味付け。
1五に銀がいるから、同玉とはしにくいでしょ……うん、同銀。
6一馬、9三飛、8一龍。
次に4三馬、同金、5二銀の強襲(詰めろ)がある。
7七歩成、同金、7一歩。
うへ、これもよく分からない。
7五歩〜7六歩〜7七歩成は、この布石だった?
同馬? 同龍? 放置もありうる。8四歩とか。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! 同馬ッ!
歩夢くんは、すかさず6五銀。
……あ、さっきの7一歩は、同龍狙いだった?
でも、同馬の形なら、まったく怖くないような……うーん……。
私は、6六歩と打った。さっさと帰りなさい。
「繋がってるといいんですが……」
8七歩。
これまためんどくさい。
同玉、9五桂、7八玉、7六歩。
あれ……一気に怪しくなったような……。
6七金……いや、それは8六角、同龍、8七金で龍を……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
私は同金寄と取った。同銀、同金、8七金、同龍、同桂成、同玉、8三飛。
あうあう、どんどん危なくなる。
8四歩、同飛、8五銀(歩は8六歩〜7五飛が馬金当たり)。
「足りないかもしれないな」
歩夢くんは冷静な分析をしつつ、8六歩と打った。
取る……取らない……7八玉。
歩夢くんは、容赦なく3八飛。
私は6八桂と合駒する。
「難しいな……8七歩成から寄るかどうか……」
それは同玉、6八飛成、8四銀で、足りない……はず……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
それでも8七歩成。
同玉、8五飛、同金、6八飛成。
くぅ、厳しい。
時間に追われた私は、7二飛。
歩夢くんは6六龍と、入玉を防いだ。
7六歩、9五桂。
9六玉は8七銀で頓死……7八玉。
し、死にそう……。
8七銀、7九玉
7八歩は打ち歩だけど……。
パシリ! 歩夢くんは、7七歩と詰めろを掛けた。
私は、半分諦めて6八金と打つ。
「では、失礼して」
……これは無理ゲーだ。
同玉は6八龍で詰み。6九玉は7八歩成以下、やっぱり詰み。
「負けました」
「ありがとうございました」
私が頭を下げると、馬下さんと他の女の子たちも、こちらを見た。
……これは恥ずかしい。
「さすがは駒込くんですね」
馬下さんは、指しながらそう呟いた。
「7一歩を取らない方が、良かったんじゃないですか?」
歩夢くんは、感想戦を始めた。
私たちは局面を戻す。
「……8四歩だった?」
「8三歩と打って、飛車の横利きを止めるんじゃないでしょうか。そうすれば、本譜の飛車回りはなかったですし、それから7一馬と取っても間に合うような」
ふむ……8三歩は、1秒も考えなかったわ。
「あと、9五桂には同金と取った方が良くなかったですか?」
「それちょっと考えたけど、なんかお手伝いかな、と思って」
ただ、本譜を考えると、同金の一手だったかもしれない。
完全に潰れちゃったから。
「あ、負けました……」
飛瀬さんが投了。馬下さんの勝ち。
「負けました」
しばらくして、来島さんも投了。そばかすの子の勝ち。
……高校生陣営、3連敗?
「ありません」
「ありがとうございました」
おっと、歩美先輩勝利。
さすがに全敗は恥ずかしいから、助かったわ。
「そう言えば、冴島さんはどちらに?」
馬下さんが尋ねた。
「冴島先輩は、応援団じゃないかしら。夏季大会の時期だし」
「なるほど……今いるメンバーは、2年生ですか?」
「飛瀬さんと来島さんは、1年生よ」
「他にも1〜2年生はいらっしゃるのですよね?」
私たちは、目を見合わせる。
「いない……かな」
「少なくとも女子は、裏見先輩と私たちだけ……」
呆れられるかと思ったら、来島さんと指していたそばかすの少女が笑った。
「うちらが入ったら、6人になるからいいじゃん」
まあ、3+3は6だけど……ん? どういうこと?
「市立志望なの?」
「私たち3人はそうです」
馬下さんの台詞に、他のふたりも頷いた。
なんと、いきなりの大収穫ッ!
「ぜ、ぜひ入ってちょうだい」
「最初から、そのつもりやけどねぇ」
この広島弁の女、気になる。
甘田さんタイプじゃないでしょうね。
「うちの歩夢も市立志望だから、よろしく」
「僕はあんまり気が進まないんだけどね……」
「あら、なんで? 姉の母校なのに?」
「だから嫌なんだよ。あの駒込の弟か……ってね」
「どういう意味よ?」
なんとなく分かる。
けど、性格が似てるのは事実。おとなしく受験しなさい。
「じゃけん、交代しよ」
30秒将棋だから、まだ時間はそれほど経っていなかった。
「私は、裏見先輩にリベンジを……」
「まあまあまあ、よもぎちゃんは、もう指したことあるじゃん?」
「それが何か?」
「だったらぁ、うちと裏見さんで決まり」
三つ編みの子とも、指したことないんだけど。強引ね。
そばかす少女は、どかりと私の前に座った。
「うちの名前は福留梓、よろしくぅ」
「よろしく」
「裏見先輩、めちゃくちゃ強いって、師匠も言うとったよ」
師匠……? プロ……なわけないか。
フクドメ・アズサなんて女流プロ、聞いたことないし。
「師匠って誰?」
「藤女の甘田さん」
……………………
……………………
…………………
………………
そう。
私は駒を並べ直す。
「振り駒は、先輩がやってえね」
言われなくてもするわよ。
えいッ! ……歩が3枚。
「私の先手ね」
「じゃけん、楽しく指しましょうねぇ」
福留さんはチェスクロのボタンを押した。
高校生の実力、見せてやるわよ。
場所:オープンキャンパスの部室
先手:裏見 香子
後手:駒込 歩夢
戦型:矢倉
▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲6六歩 △6二銀
▲5六歩 △5四歩 ▲4八銀 △4二銀 ▲5八金右 △3二金
▲7八金 △4一玉 ▲6九玉 △5二金 ▲7七銀 △3三銀
▲7九角 △3一角 ▲3六歩 △4四歩 ▲6七金右 △4三金右
▲3七銀 △5三銀 ▲1六歩 △1四歩 ▲2六歩 △7四歩
▲6八角 △6四銀 ▲7九玉 △7三桂 ▲8六銀 △4二角
▲2五歩 △3一玉 ▲2六銀 △5五歩 ▲同 歩 △5二飛
▲5八飛 △5五飛 ▲5六歩 △5一飛 ▲1五歩 △同 歩
▲同 銀 △1三歩 ▲8八玉 △8五桂 ▲5九飛 △9四歩
▲4六角 △4五歩 ▲3七角 △7一飛 ▲6五歩 △7三銀
▲2六角 △7二飛 ▲3七桂 △6四歩 ▲8五銀 △同 歩
▲5五桂 △8六歩 ▲同 歩 △6五歩 ▲6三桂成 △9二飛
▲7三成桂 △3五歩 ▲7七金寄 △8五歩 ▲6九飛 △8六歩
▲6五飛 △6四銀 ▲8五飛 △7三銀 ▲8三飛成 △6四銀
▲3五角 △5一歩 ▲7一角成 △7五歩 ▲8六金 △7六歩
▲2四歩 △同 歩 ▲2二歩 △同 銀 ▲6一馬 △9三飛
▲8一龍 △7七歩成 ▲同 金 △7一歩 ▲同 馬 △6五銀
▲6六歩 △8七歩 ▲同 玉 △9五桂 ▲7八玉 △7六歩
▲同金寄 △同 銀 ▲同 金 △8七金 ▲同 龍 △同桂成
▲同 玉 △8三飛 ▲8四歩 △同 飛 ▲8五銀 △8六歩
▲7八玉 △3八飛 ▲6八桂 △8七歩成 ▲同 玉 △8五飛
▲同 金 △6八飛成 ▲7二飛 △6六龍 ▲7六歩 △9五桂
▲7八玉 △8七銀 ▲7九玉 △7七歩 ▲6八金 △8八銀成
まで138手で駒込(弟)の勝ち