13手目 完封される少女
「え、もう負けが確定してる?」
私がすっとんきょうな声を出すと、志保部長は「しーッ」と注意した。
そ、そうだ、まだ試合中だった。私はあわてて声を落とす。
「じゃ、じゃあ部長も……」
「はい……負けてしまいました」
ぐッ、いつの間に。猿渡先輩との対局が白熱してて気づかなかった。自分も負けてるから、部長にはなにも言えないんだけど、もしこれで冴島先輩と歩美先輩が勝ったら……せ、戦犯は私ってことにッ!?
部長は落胆した表情をみせながら、
「とりあえず残った選手を応援しましょう。私は冴島さんを応援してきます」
「じゃあ私は歩美先輩を……」
と思いきや、大将戦は人集りができていた。歩美先輩と姫野先輩のカードって、結構人気あるのね。男子も一杯。これは入り込む隙がない。しかたがないので、私も冴島先輩の応援に回ることになった。邪魔にならないように、なるべく後ろから盤をのぞきこむ。
【先手:甘田幸子 後手:冴島円】
うッ、凄い熱戦になってる……私のと大違い。
どっちが勝ってるのか分からないけど……私の直感では、後手の冴島先輩が一手余してるような……あ、先手は馬が効いてるから簡単には詰まないのか……五分……いやむしろ駒の働き具合で、甘田先輩のほうがいいかもしれない。
この5五桂、3七金と避ければ4八角成、同金、3九銀で加速しちゃう。5九歩と受けるのは、4七桂成、同銀直、4八歩、3九金、5九龍……攻めきれそう。穴熊の遠さが生きてる。
私がひとりで納得していると、先手の甘田先輩は敵陣に手を伸ばした。
4二と。攻め合いを選択した。
ふたりとも60秒将棋。冴島先輩はどんどん秒を読まれていく。ここは5分くらい欲しいところ。持ち時間なんて考えたヤツはどこの誰よ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「わかんねえッ!」
57秒で冴島先輩は桂馬を成り、59秒でチェスクロをストップさせた。
上手い。けど甘田先輩もやってた。みんなできるっぽい。できないのは私だけか。
甘田先輩は59秒考えて同銀直。角筋を通したわ。怖くないのかしら?
うーん、龍切りはまだ早過ぎるし……冴島先輩の遊び銀が痛い。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
冴島先輩は3九金と置いた。俊速でチェスクロを止める。
甘田先輩は
「ほぉほぉ」
と変な声をあげた。
この人、凄く楽しそうに指してるわね。将棋が強い数江先輩ってとこかしら。
ところでこの3九金、同金でもまだ終わらないわよ。同角成、3七玉で耐えてる。9一の馬が相当うざいわね。ただ3二とが王手じゃないから、やっぱり冴島先輩の一手勝ちだと思うんだけど。甘田先輩、どうする気だろ。
私がそう思った瞬間、3二とが指された。3九金は詰めろじゃないと読んだっぽい。
この3二とは詰めろ?
例えば冴島先輩が4九金とすると、2二と、同玉、4二龍……あれ? 詰まないじゃない。6六の角がよく利いてる。だったら4九金で冴島先輩の勝ちかも。
私が1勝の予感をいだいた瞬間、ある筋が脳裏に浮かんだ……違う。3二との狙いは詰みじゃない。4九金、2二と、同玉に6二龍の王手角取りだ。3二金、6六龍、同龍に……今度は5五角で王手龍取りッ! 同龍、同馬がさらに王手銀取り。
ま、まずい、冴島先輩、そのと金は取らないとダメよ。でないと負けちゃう。
必死に祈っていると、思いが天に通じたのか、冴島先輩はと金を払った。
せ、セーフ。他人の将棋だけど、心臓に悪い。
3二銀を見た甘田先輩、チッって感じだったわね。やっぱり6二龍狙いだったか。でもそれは見破られちゃったし、冴島先輩の陣は鉄壁。甘田先輩も受けるはず。
私が5九歩を読んでいると、甘田先輩はふたたび敵陣に手を伸ばした。
え? 受けない?
4二成桂? これはさすがに間に合ってないんじゃ……4九金、3二成桂、3九角成、3七玉……あッ! 斜め後ろに利く駒がないッ!
ってことは、3九金が悪手だった? 甘田先輩の玉が予想以上に広い。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「チッ、捕まらねえッ!」
冴島先輩の手が宙に舞い、4九金。59秒でチェスクロを止めた。
け、結局4九金だけど……他になにかなかった? 冴島先輩の表情、さっきより険しくなってる。こういうときが一番辛いのよね。
で、でも3九角成、3七玉に3二金と払えば……あッ! 2三桂、同金、3二銀、2二金打、3一金で必至になっちゃうッ! 桂馬と金だけじゃ甘田先輩の玉は詰まない。
に、2三桂馬に2二玉は? 1一銀、2三玉、2二金、同金、同銀成、同玉、4二龍、3二桂、5五馬、3三桂打……詰まないッ! 穴熊から出れば詰まないんだわッ! 意外だけど60秒あれば読めるはず。
「なるほどねえ……」
甘田先輩は再び相槌を打ち、3一金と貼付けた。
ん? もしかしてチャンス到来?
3二成桂は詰めろかつ必至だけど、その前に一手指せるわ。3九角成で……ちょっと待って、角は成らない方がいいかも。どのみち3七玉で耐えてるし。むしろ自陣に利かせた方がいいわね。穴熊は金銀の補強が大事だから、2三金打……は意味ないか。3二成桂で必至だわ。打つなら3三ね。3二成桂、同金引……あ、2三桂がある。同金直は2一で詰み。同金右は3二銀が必至……か、角の利きが意味ない。
……そうだッ! 4一歩よッ! なんで気付かなかったんだろ。これで3二成桂としても詰めろじゃ……あるッ! 2三桂、同金、2一金まで。ということは、3二成桂には同金の一手で、さらに同金、2二金、2三桂、同金、4一龍、2二金引、3一金打。またまた必至。
ふ、歩じゃ止まらない。ってことは4一金? 4一金、3二成桂、同金上、2三桂として、同金直なら3二金、2二金、3一金打で必至。同金直に代えて同金上も3二銀。3二成桂に同金上じゃなくて同金寄だと同金、同金、2三桂、同……ちょっと待って。この筋は同金じゃなくて2二玉で逃れてたような?
ん? ん? ってことは4一金、3二成桂に意外な同金寄で勝ち?
あ、同金寄に4一龍もあるか。いやでも──
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「くっそおッ!」
冴島先輩は大きく舌打ちをして、4八金と引いた。
あーッ! な、なんてことを……確かに私も読み切れなかったけど……。
ぼうぜんとする私の前で、3二成桂が指される。
これで冴島先輩の玉は必至。先輩は59秒考えて、3八金と寄った。
あ、そっか。これで先手もかなり怪しい。甘田先輩も59秒考えて同銀。
どう迫るの? 3九龍? ……いやそれは1七玉だ。1九龍とできない。馬が強すぎる。
3九龍じゃなくて3九角成? 2七玉、2八金、同馬、同馬、同玉……あ、これは7三角打つがある……けど3七香、5一角、2三桂、同金、2一金で詰みか……王手龍じゃなくて3九角と追うと、2七玉、6七龍、5七歩、3八馬、同玉、5八龍、4八歩、4七銀、2七玉。足りない。
冴島先輩は3九角成を選んだ。
2七玉、6七龍、4七歩、3八馬、同玉、2七銀、同玉、4七龍、3七金、3八銀、1六玉。
そこまで指すんだ。私ならとっくに投げてる。
秒が読まれていく。ギャラリーが見守る中、冴島先輩はくちびるを噛んだ。
「……オレの負けだ」
どっと力が抜ける。これで0ー4。残っているのは──
私が大将席を振り向いたとき、野次馬からざわめきが聞こえた。
なに? もしかして決着がついた?
私は小走りに、大将席へと向かった。全然見えない。
背伸びして中を覗いていると、男子の会話が聞こえた。
「ヤクザ勝ちか……あっちはどうなった?」
「五将も藤女の勝ち」
ぜ……全敗……がっかり。
落胆していると、だれかが背中を叩いた。
冴島先輩だった。それに部長と数江先輩もいた。
「おい、飯食いに行かねえか?」
立ちなおり早ッ! さっきメチャクチャ悔しそうな顔してた癖に。
なぜか甘田先輩も一緒だった。このふたり、相当ライバル歴が長いみたい。いちいち勝った負けたでクヨクヨしないのかも。私もおじいちゃんに負けたからどうこうとは今さら思わないし。
甘田先輩は勝利のほくほく顔で、
「裏見さんも一緒に行かない? うちの後輩も行くからさ」
と言った。
私はうなずいて、
「じゃあ、歩美先輩を呼んで来ますね」
と答えた。
ところが冴島先輩は「いや駒込はいい」と答えた。
な、なんですか、それは。陰湿な部内イジメ?
「大将席も終わってますよ?」
「あいつ、姫野と指した後は感想戦1時間とかざらだからな。付き合ってたらキリがないぞ」
あ、そういうことか。野次馬が散った大将席に目をやると、ふたりは序盤を並べていた。一手一手検討しているみたい。本番並に真剣な顔してる。
うーん、熱意が違うなあ。私ももっと真面目に指せば良かったかも。
ふざけてたわけじゃないけど、あそこまで真剣に考えてなかったし。
私が反省していると、甘田先輩が声を上げた。
「じゃ、会館の近くにメクドナルドあるから、そこでよろ」
○
。
.
メックは大混雑だった。なぜって、各校の将棋部員が大量に押し掛けてるから。
店員さん、びっくりしてるじゃない。日曜に制服姿の男女が入り乱れてるんだから、当然よね。ってか、店内で将棋盤広げてるヤツいるし。そりゃダメでしょ。マナー違反。
私が呆れ返っていると、2階から甘田先輩が笑顔で降りてきた。
「席取れたよ、2人残して上がって」
え? この状態で席が? こ、これはなんか裏があるわね。
まあ、あんまり突っ込まないことにしましょう。闇は闇に。
甘田先輩は、
「だれが残る?」
と訊いてきた。
普通に考えると1年生よね。候補は私と……ちらり。
藤女のセーラー服を着たショートの少女と、前髪ぼさぼさの少女。えーと、ショートの方が鞘谷さん、ぼさぼさの方が横溝さんだったかしら。
とりあえず立候補しとこう。そこまで横着じゃないわよ、私も。
「駒桜の1年は私しかいないので、ひとりは私で……」
さて、これに藤女の1年生ふたり組はどう出るか、お手並み拝見。
横溝さんは小声で、
「鞘谷さん……じゃんけんしようか……」
と言った。
ところが鞘谷さんは、
「べつに3人で運べばよくない?」
と言って、甘田先輩の提案そのものを否定した。
うん、満点の回答。私的にも楽だし。
「じゃ、オレたちは先に上がってるぜ」
冴島先輩と甘田先輩は、そのまま2階へと向かった。
……ん、なんか微妙に気まずい。話す取っ掛かりがない。しかも横溝さんは全然喋らないタイプに見えるから、なおさら会話がしにくい。いきなり将棋の話を振るのもなあ。
「3番でお待ちのお客様ーッ!」
早いッ! 助かったわ。私たちはセットメニューを受け取り、2階へ向かう。
ど、どんだけ頼んでるのよ。ポテトが溢れ返ってる。バランス。
「こっちこっち」
2階に上がると、甘田先輩が一番奥の窓際席で手を振った。他は全部満席。
この状態で席を確保できるなんて、何者だろう……。剣呑、剣呑。
「お待たせしました」
そう言って、鞘谷さんはテーブルにどかっとトレイを乗せた。
「あー、腹減ったぜ」
いきなりポテトに手を伸ばし、口の中に突っ込む冴島先輩。
私たちが着席してもないのに。テーブルマナーがなってないわね。
甘田さんもあきれぎみで、
「まどかちゃん、頼み過ぎじゃない? ポテトLサイズ2つとか……」
と言った。
「いいんだよ、どうせ全部おまえのおごりなんだからな」
「はい?」
絶句する甘田先輩をよそに、冴島先輩はコーラを一口すする。
ぷはッとストローから唇を離し、さも当然のように言葉を継いだ。
「勝った奴が大盤振る舞いするのは当たり前だろ? な、裏見?」
ちょ、ちょっとッ! なんで後輩を巻き込むのよッ! 板挟みになるでしょッ!
私がどぎまぎしていると、鞘谷さんが声をかけてきた。
「そう言えば、裏見さんってどこの中学出身なの?」
た、助かった。もしかして、わざと話題を逸らしてくれたのかも。感謝感謝。
「私は第……」
私が答えるまえに、横溝さんが、
「駒桜第一中学だよね……」
と口をはさんだ。
ん? なんで知ってるの? そんな有名人じゃなかったけど。
「あれ、私のこと知ってるの?」
私が尋ねると、横溝さんは申し訳なさそうな顔で、
「うん……私も第一だから……」
と答えた。
え……おなじ学校だった? 私は記憶をたどる。
「……園芸部の横溝さん?」
「あ、知っててくれたんだ……一回もクラスいっしょじゃなかったけど……」
なんとなく名前を聞いたことがある。
朝礼かなにかで、園芸部長の名前があがっていたからだ。
廊下ですれ違ったりしたかもしれない。けどそこまでは覚えていなかった。
冴島先輩はコーラを飲みながら、
「面識あるのかないのか、どっちなんだ?」
とたずねてきた。
横溝さんは、
「裏見さんは陸上部でも有名だったから、私が一方的に知ってます……」
とフォローしてくれた。
いやぁ、照れますねぇ。たしかに成績はけっこうよかったのよ。
何回か校内で表彰されてるし。
ここで鞘谷さんがまた割り込んでくる。
「陸上? 将棋部じゃなかったの?」
「趣味でおじいちゃんとしか指さなかったから……大会は今回が初めて」
私がそう言うと、冴島先輩以外みんなびっくりした。なんで?
横溝さんは、
「初めてなのに、あそこまでやるんだ……凄い……」
と、羨望の眼差しを向けてきた。いや、結果負けなんですが。
鞘谷さんは、
「猿渡先輩の角頭歩に初見で対応できたのは凄いよ」
と、これまた褒めてきた。
「かくとうふ……?」
冴島先輩が割り込んでくる。
「そいつ、戦法の名前とか全然知らねえから」
冴島先輩の台詞に、ますます他のメンバーはおどろいた。
鞘谷さんは、
「ええ、じゃあ角頭歩自体知らなかったの? うそだーッ」
と言って信じていない模様。
ほんとに知らなかったです。
「嘘じゃないわよ……そもそもあれって成立してるの?」
「もちろん、あれはハメ手じゃなくてちゃんとした戦法。B級だけど」
そっか、8六歩に8四歩から潰れるわけじゃないんだ。
歩美先輩のアドバイスに助けられた格好。
「ま、けっきょく負けちゃったけどね」
私は自嘲気味にそう言って、もう一口ジュースを飲んだ。
横溝さんは、
「5五歩のところで、4二飛なら勝ってたと思う……」
とコメントした。
5五歩? ……ああ、あの局面か。
「横見さん、見てたの? 横溝さんもまだ対局中じゃなかった?」
「となりのプレイヤーは時々見るから……」
そっか……横溝さんの相手は部長だったのもあるか。
4二飛──
「そう言われてみると、2四桂の筋を消せるから、好手かも」
この会話を聞いていた甘田さんは、
「はあ、若いってのはいいねえ。大会の後でも将棋の話だなんて」
と言った。
「はん、年食ってるのはてめえだけだろ」
また始まった。ほんと悪友って感じ。
あと冴島先輩、ゆびについたポテトの油を舐め取るのはやめましょう。
紙ナプキン使ってください。
なんだか先輩たちにつっこみの多い、休日の昼下がりだった。