11手目 活かす少女
「どうかしましたか?」
ひどく事務的な口調で、猿渡さんは私に声をかけた。
私はあわてて口をつぐみ、首を左右にふる。
「いえ……なんでもありません……」
そう答えている間も、私の意識は盤面に釘付けだった。8六……歩……?
なにこれ……? 見たことないわよ……。
おじいちゃんとの対局で、3手目にここを突かれた記憶がないもの。
そもそも初期配置で一番弱いのが、角の頭なのだ。おじいちゃんはそう教えてくれた。だから居飛車はそこを集中的に攻める。棒銀だってそう。なのに、そこの歩をいきなり突いてくるって、どういうこと? 敢えて弱点を晒している。
例えば8四歩と突き返したら、どうする気? 7八金と受けたって、8五歩、同歩、同飛で、いきなり飛車先の歩が交換できちゃう。
私がそう指そうとしたとき、ふと歩美先輩の声がよみがえった。
相手の戦法を受けるな……そ、そうだ。8四歩なんて、絶対相手の読み筋。パックマンで言うなら、4四歩を食べちゃってるようなもんよ。対策があるに決まってる。だったらここは──
「4二玉ですか……」
猿渡さんは眼鏡をはずし、専用の布でレンズをふき始めた。
これは好手だったかも。意外に思ってるみたいだ。
ホッとするのも束の間、猿渡さんは眼鏡をかけなおして、2二角成とした。
いきなり角交換か……神経を使う。
とりあえず同銀。猿渡さんは1秒も考えずに7八金と上がる。
これは研究してるって手付き。変に角を打つとハマりそうね。3二玉。
「6五角とは打って来ませんか……」
それねえ……ちらっと浮かんだんだけど、4八銀、7六角、4五角、6二銀、3四角でますます混沌としちゃうのよね。4五角と打たないで、角を手持ちに温存しておく指し方までありそうだし。
おっと、相手の独り言に釣られてる場合じゃないわ。構想を練らないと。
私が読みを再開した途端、猿渡さんは6六歩と突いてきた。6五角を消したのね。だったらこっちも当然、4五角を消す。6二銀。
これで次は8四歩〜8五歩と伸ばす楽しみができた。
「姫野さんが言った通り、なかなかやりますね」
いえいえ、それほどでも。私は形だけ謙遜する。
……ん、桂馬を持った?
ははーん、そういう作戦なんだ。分かったわ。8四歩には、とにかく7七桂馬で足止めするわけね。かと言ってここで8四歩と突かないと、逆に8筋の位を取られちゃうから、次の一手はもう決まり。8四歩、と。
私はチェスクロのボタンを押す。サッと6五歩が指された。
うむむ、6筋の位は取られちゃいましたか。これは飛車が窮屈。こっちの駒組がかなり制約されちゃってる。なんとかして普通の形に戻さないと。
6二銀の活用と6筋の受けを見て、5四歩としますか。私がそう指すと、猿渡さんはまたまたノータイムで6八飛車。
速い……速過ぎる……猿渡さんは持ち時間をまだ1分も使ってない。この手順、絶対研究にハマってるわね……不味い……私のなかで焦りが出始める。
多分、5三銀は当たり前過ぎて、研究から外れられない。しかも先手には、7五歩の伸ばしが残ってるから厄介だ。7筋、6筋を同時に制圧されると、こっちはお手上げ。かと言って、それを止める手も……って、ちょっとッ! この人、盤面を見ないで本読んでるじゃないッ! 私のこと舐めてんのッ!?
「すみません」
私が声をかけると、猿渡さんは本から顔をあげた。
「それなんですか? まさか定跡書とか……」
猿渡さんはカバーを外して本のタイトルを示した。
『ツァラトゥストラかく語りき』? ……小説かなにか?
「容疑は晴れましたか?」
「あ、はい……失礼しました……」
私はくちびるを結び、盤面に集中する。ほんと、変な人ばっかりなんだから。
……ん? この手はどうかしら? 読んだ限りでは……成立してそう。
いっちょ行ってみますか。歩美先輩も、自分の将棋を指せって言ってたしね。
私は角を持ち、4二にそれを据えた。
パタンと本を閉じる音がした。
猿渡さんは本を机の上に置く。
「読書しながら勝てる相手ではないようですね」
当たり前でしょうがッ! その眼鏡、カチ割るわよッ!
失礼しちゃうわね、ほんと。日曜の朝から、血圧が上がりまくり。
でも、この4二角を見て本を閉じたってことは、好手なのね。
よしよし、やっぱり私の読み通りじゃない。
普通、こんな序盤で4二に角なんか打たない。だけどこの局面は別。6筋を受けながら7五歩の伸ばしを牽制、さらに8六歩を狙うという一石三鳥の手。
猿渡さんは軽く首を回した後、8七金と上がった。これで金がそっぽ。私は9四歩の継続手を放つ。
「素晴らしい手です」
猿渡さんは眼鏡をなおしながら、そうつぶやいた。
でしょでしょ? ここからの構想は、自分でも見事だと思う。
猿渡さんの4八玉に9三桂ッ! 無理矢理足して8筋突破ッ!
……っと、8八銀ですか。無理矢理な攻めには無理矢理な受けの典型ね。でも、これで銀も明後日の方向に移動したし、マイナスにはなってない。進路変更はナシよ。
私は8五歩と力強く突いた。同歩、同桂に同桂……じゃないッ!? 8六歩ッ!?
しまった……この辛抱は読んでなかった。だけどだけど──
私は7七桂と成り込む。
普通に考えると同銀……っと、やっぱり取ってきたわね。
ほら、さっきまではこっちの陣形が窮屈だったのに、今は猿渡さんの陣形がバラバラ。マウントされた状態からの逆襲ってヤツ。
と言っても、8筋は金銀でガチガチだし、こっちも工夫しないとね。5二金右。
私がチェスクロのボタンを押すと、猿渡さんは9六歩と突いてきた。……これはよく分からないわね。9五歩の突き越しから端攻めを警戒した……? でも、棒銀するつもりなんかないし、無駄手なような……ここで時間を使うのは止めましょう。3三銀、と。
「さきほどの9四歩は感心しました。一見活躍しそうにない桂馬を、端歩突きで活かす巧妙な手順。私の理想とする将棋です」
はあ……そうですか……。
褒められるのは嬉しいけど、なんか不気味……悪徳セールスみたいで……。
私がちょっとばかり引いていると、猿渡さんは3八玉と深く入った。私は4四歩。4三金からの矢倉模様を見せながら、隙を見て3筋を位取りする作戦よ。
猿渡さんは囲いに相当時間が掛かるから、位取りできる……はず……。
んんん? 私は次の一手に目を見張る。
8八飛車……? 金銀が密集してる場所に移動してどうするつもり……?
私が首を傾げていると、猿渡さんの声が聞こえる。
「使えない駒の活用術、今度は私がお見せしましょう」
な、なによ、この口上は? テレビ取材が来てるわけでもあるまいし。
いや、テレビでそんなシーン流されたら、後で悶死するわね。恥ずかしくて。
とにかく、方針は変更しないわよ。4三金ッ!
私が力強く好形を作ると、猿渡さんは即座に6六銀を上がった。
囲わないの? 猿渡さんの玉、銀の上に乗ってるだけなんだけど……えーい、あくまでも舐めプってわけね。だったら受けて立とうじゃない。3五歩。
「これで凝り形の解消です」
そう言って、猿渡さんは音もなく金を7七に寄った。
……あッ! た、確かに……金銀がほぐれて、うまく連結してる。
次に8五歩と伸ばされたら、8三歩、7五銀で終わりだ。
私は泣く泣く歩を手にし、8四にそっと置いた。猿渡さんは5六歩。
これはマズい。8筋を制圧したと思ったのに、五分になってる。で、でも玉頭はこっちが圧倒的に優位。予定通り、がんがん押して行きましょう。3四銀。
「位取りですか……」
ここで猿渡さんは初めての長考に入った。研究範囲から抜けたのかしら? さすがにこんな中盤までは研究してないか……3年生って言ってたし、受験生でしょ。暇がないはず。
さーて、次に考えられるのは、2八玉か4八銀かあるいは……。
っと、動いた……5五歩ッ!? どこまで囲わない気なのッ!?
同歩、同銀、5四歩、6六銀、1四歩、1六歩……。
えーい、相手が意地を張るなら、2筋も詰めちゃいましょう。2四歩ッ! 8筋は睨み合いで終わらせて、玉頭からぶっ潰すわ。
私が気合いを入れていると、猿渡さんは4八銀。ようやく囲ったわね。でもそれ、全然固くなってないわよ。4五歩ッ! 4筋を詰めつつ、3三角の覗きを見せる手。猿渡さんが何もしないなら、6六角とぶった切って、同金に7七銀まである。
回避する手は一応あるけど……。私が盤面を睨んでいると、指されたのは……。
6七金……うーん、引っかからないか……銀引きの余地を作る好手ね。
私は行きがかり3三角と出た。猿渡さんは当然に8九飛車。これで角切りの狙いは絶たれちゃったわね。残念。
私は30秒ほど考えて、2五歩と伸ばした。これで2〜4筋を全て圧迫できたわ。
ただ、こちらばかり得してるわけじゃない。猿渡さんも、悠々と7五歩。右辺と左辺で双方が出しゃばってる形になった。均衡が崩れたときが勝負ね。
こっちから崩す……手はないか。仕方がないわ。4二金直としましょう。
激しい戦いになるかと思ったけど、案外に地味ね。囲い合いになってきた。
猿渡さんが5七銀と上がり、私は2二玉とさらに戦場から離れる。4八金、3二金。
どちらも飽和点になったわ。何とか仕掛ける手はないかしら。
やっぱり6二銀を動かして行かないと、なかなか。
「裏見香子さん、ですよね」
はい、ってか話し掛けないでください。
私が無視気味にうなずき返すと、猿渡さんはさらに言葉を継いだ。
「この局面で銀がもう1枚あれば、勝てると思いますか?」
銀……? 私の持ち駒に銀があるってこと……?
質問の意味が分からないけど、そりゃ勝てるわよ。7八銀、8八飛、6七銀成から、ボロボロ駒を取れるもの。楽勝でしょうね。まあ、銀なんて持ってないんだけど。
「勝てるんじゃないですかね……」
私は他人事のようにそう返した。だってただの仮定の話だから。
「欲しいと思いますか?」
あー、もう、私は盤から顔を上げた。
……うわ、凄い真面目な顔してる。口三味線かと思ったけど……それによく考えたら猿渡さんの手番だから、会話しても彼女の時間が減るだけなのよね。
3年生だから、春が最後の大会かもしれないし、ちょっとつき合ってあげましょうか。
「欲しいとは思いますけど……意味ないですよね」
「そうですね、意味がありません」
……何ソレ。この会話自体、意味ないと思うんですが。
「しかし、世の中にはそれに気付かない人がたくさんいるのです……不思議なくらいたくさん……『もっと時間があれば』、『もっと優秀な人材がいれば』、『もっと資金があれば』……全ては無駄な願望なのに……」
な、なにが始まろうとしてるんでしょうか……? 後輩に対する説教?
私、他校の生徒なんですけど。
「名人にもなった升田幸三は、こんな言葉を残しています。『将棋は使いにくい駒をどう使うかで勝負が決まる。それは人使いでも同じことだ』と……裏見さん、さきほどの端歩からの桂馬捌きは、まさに使いにくい駒を使った好手順でした」
はあ、どうも……お褒めに預かり光栄です。
一方的に褒められるのもなんだし、ひとつ返しときましょうか。
「お礼ってわけじゃないですけど、猿渡さんの8八飛〜6六銀〜7七金も見事でしたよ。私だったら多分6筋に固執して、8八飛車自体指さなかったと思います」
お世辞じゃない。私なら金を8筋に固定してたと思う。もちろん、猿渡さんの指し方の方がずっといいんだけど、あれはなかなか──
ん? なんで急にこんな話を? まさかこの局面になにかある?
私が盤を確認していると、猿渡さんの手が伸びた。向かう先は……9筋ッ!?
「この一手で開戦と行きましょう。使えない駒を使うために」