10手目 集合する少女
日曜日。駒桜市民会館に集う少年少女の群れ。
ちょっと異様な光景だけど、会場には長机と将棋盤が並べられている。全部大会用のはずなのに、結構な数の生徒が勝手に対局を始めていた。楽しげに駒を動かす人から、本番みたいに真剣な顔をして指してる人まで、いろいろいる。
それにしても将棋部員って、駒桜市だけでこんなにいるんだ。意外。
「香子ちゃん、おっはー」
熱気に包まれた空気の向こうから、のほほんとした挨拶が聞こえた。
数江先輩だ。
「ずいぶん早く来たんだね」
えっと、集合時間はもう過ぎてると思うんですが。
私は時計を確認する。10時3分。昨日のメールには、10時集合って書いてあったような気が。それとも遅刻しないように、私だけ早めの時間を指定されたとか?
「先輩たちは10時集合じゃないんですか?」
「え、そうだけど?」
「じゃあなんで他の人はだれも……」
なんだそんなことかと、先輩は手を左右に振って見せる。
「うちの将棋部に時間を守る人なんていないから」
なんじゃそりゃーッ!? ど、どんだけ適当なのよ。
そう言われてみれば、団体戦の開始時刻は10時半のはずなのに、だれもなにも準備してないわね。運営らしきメンバーは前でダベってるし、どういうことなの。中学のときに在籍していた陸上部では、遅刻するとばっちり叱られていた。
私が混乱していると、今度は志保部長の姿が見えた。
プリントみたいなものを持って、こちらに手をふってくる。
「裏見さん、木原さん、おはようございまーす」
「部長、おっはー」
うむむ……メチャクチャ気合いを入れて来たのに。
これじゃあピクニックに行くみたい。拍子抜けしちゃう。
一方、部長は入り口のほうに目をやって、
「あ、冴島さんも来ましたね」
と言った。
さてさて、冴島先生の勇姿を拝見、っと……ん?
「お、おっす……」
恥ずかしそうに挨拶する冴島先輩……よね?
しばらく先輩の制服姿を眺めたあと、私は口元に手を当てた。
ぶッ……ぶはははッ!
「こらーッ! 裏見、笑うんじゃねーッ!」
「わ、笑ってないですよ……くくッ……」
「どう見ても笑ってるだろうがッ!」
だ、だって、女子の制服が全然似合ってないんだもん。
男子が女装してるようにしか見えない。
そっぽを向いてしまった冴島先輩をよそに、部長が口をひらく。
「オーダー表は私が書いて提出しときますから、集合の合図まで待機してください」
私は「主将はどこにいるんですか?」とたずねた。
歩美先輩の姿がない。まさか寝坊?
私がいぶかしがっていると、数江先輩は、
「歩美ちゃんはトイレだよ」
と教えてくれた。
「トイレ……?」
緊張によるアレですか……って、んなわけないわね。
あの人、全校集会で前に立たされても平然としてそうなタイプだし。
しばらくして、歩美先輩はトイレから出て来た。
……す、凄いオーラを感じるッ! 闘気が見えそうなレベル!
「おはよう、みんなそろったわね」
私たちはだまってうなずき返す。部長を始め、他の面子も緊張してきたみたい。
そりゃそうよね。歩美先輩、命懸けてそうな顔してるし……怖い。
「オーダー提出はもう済んだの?」
「す、すぐにします」
上級生なのに、部長はおろおろと筆記用具を取りに行った。私はその背中を見送ったあと、歩美先輩に向きなおった。その拍子に、先輩と目が合った。蛇に睨まれた蛙みたいになってしまう。
「香子ちゃん、ひとつ忠告があるわ」
忠告? 対局直前に?
負けたらしばきあげるぞ、とかじゃないでしょうね。パワハラ禁止。
「な、なんでしょうか……」
「あそこ、藤女のテーブルを見て」
歩美先輩が指差した方向へ、私は視線をむけた。
セーラー服を着た一団が、会場の隅っこのテーブルを占拠していた。
あッ! 姫野さんもいるッ! 私が釘付けになっていると、歩美先輩は先を続けた。
「さっちゃんの隣に座ってる眼鏡の女、見える?」
さっちゃん? 眼鏡の女? ……ああ、はいはい。なんかThe生徒会長みたいな人がいますね。分厚い本を持って、凄く真面目な顔をしてる。受験勉強かしら?
「み、見えます」
「彼女は猿渡哲子。藤女の生徒会長で将棋部の部長よ」
ほ、ほんとに生徒会長なんだ。人は見た目に寄るものね。
「もし彼女に当たったら、絶対に相手の戦法を受けちゃ駄目よ。いい?」
「はい?」
意味が分からない。戦法を受けちゃダメって、どういうこと?
回避できない場合もあると思うんだけど。
「それって、どういう意味ですか?」
「彼女はB級戦法使いなの」
B級戦法? また分からない用語が出て来た。B級グルメなら知ってる。
解説してくださいな。
「B級戦法って言うのは、普通の人が使わない変わった戦法の総称」
うーん、変わった戦法の総称って言われても……戦法の名前自体知らないから、どれがどれやら分からないんだけど……。
「この前の……えーと、パックマンもそうですか?」
「そう。他にもポンポン桂、ヒラメ、アヒル、一間飛車……数え上げたらきりがないわ」
その時点で全く意味不明です。鳥や魚の名前がついてるとか。
「そんなにたくさんあったら、対応のしようがないんですけど……」
「B級戦法対策の基本は、『見たことのない手を指されたら、無視して見たことのある形に持って行く』こと。例えばパックマンなら、7六歩、4四歩に2六歩。そうすれば相手はそのうち3四歩と突かなきゃならないわ。これで普通の振り飛車になるの」
……なるほどね。パックマンは4四歩を同角とするから、4二飛車とできる。それを無視されたらお手上げってわけか。
私が納得していると、会場の奥から大声が聞こえた。
「そろそろ始めまーすッ! 各校は席についてくださいッ!」
時計を見ると10時39分。全然定刻通りじゃない。
「じゃ、行くわよ。私たちの席はBー7だから」
主将を先頭に移動すると、Bー7には既に部長の姿があった。長机を2つ並べて、5人が一列に座れるようになっている。だけど着席しているのは、部長とあの猿渡という人だけ。ふたりは向かい合って、例のオーダー表をひらいていた。
「オーダー交換を始めてくださいッ!」
運営男子の声に合わせて、各所で一斉に名前の呼び上げが始まる。
志保部長と猿渡さんも、交互に席順を発表し合う。
「駒桜高校、大将は2年生の駒込です」
「藤花女学園、大将2年、姫野です」
おおっとざわめきが起こる。
志保部長が眉間に皺を寄せたのを、私は見逃さなかった。
「副将、2年、木原です」
「副将、1年、鞘谷です」
「三将、1年、裏見です」
そこで、やり取りが一瞬途切れた。猿渡さんは、ちらりと私に視線を向けた。
これってもしかして……。
「三将、3年、猿渡です」
だーッ! やっぱりフラグになってるじゃないですかッ!
私が頭をかかえているあいだも、オーダー交換は続く。
「四将、3年、大川です」
「四将、1年、横溝です」
「五将、2年、冴島です」
「五将、2年、甘田です」
オーダー交換が終わった。周囲に集まっていた野次馬は、それをメモに取ったり、知り合いと話し込んだりしている。部員たちの反応も様々だった。
うしろにひかえていた八千代先輩は、
「ほら、やっぱり姫野さんが大将じゃないですか。だからあのとき……」
ぶつぶつと文句を垂れていた。
まあまあ、おちついて。というか八千代先輩、来てたんだ。
「八千代先輩、おはようございます……出場はしないんですよね?」
「指す指さないに関係なく、こういう大会は全員参加です。他の学校も、部員総出で来てますしね」
そ、そうなんだ……時間にルーズかと思いきや、変なとこで真面目。
どうりで会場がぱんぱんなわけだわ。
「でも、将棋で応援なんて……」
「応援だけじゃありません。どの学校がどういうメンバーで戦っているかとか、誰がどういう将棋を指しているかとか、そういうこともチェックするんです」
そこまでしますか、普通? ……で、でも確かに、他の学校のオーダー表をチェックしてる人が何人かいるわね。八千代先輩もノートとペンを持ってるし。
だんだん会場の熱気が上がってきてる。座って準備してる人も出始めた。
私もそろそろ席につこうかしら。そう思って片足を宙に浮かせたとき、どこからともなく舌打ちが聞こえてきた。
「チッ、こりゃまずいぜ」
ふりむくと、冴島先輩が頭をぼりぼり掻きながら、眉間に皺を寄せていた。
「先輩、忘れ物ですか?」
先輩は周囲を確認し、私の耳元に口を寄せる。
「オーダーが最悪だ……」
「最悪?」
「当たりが悪過ぎる……」
私はもう一度、オーダー表を確認する。
大将 駒込 姫野
副将 木原 鞘谷
三将 裏見 猿渡
四将 大川 横溝
五将 冴島 甘田
「これが最悪なんですか?」
私がたずねかえすと、冴島先輩はくちびるに指を添えて「しーッ」と注意した。
私は声を落とす。
「どのへんが最悪なんですか?」
「うちに勝ち目が全然ねえ……」
……はあ? いきなり降参モードですか?
私が反論しかけたところで、いきなり女の明るい声がした。
「いよッ、まどかちゃん、お久しぶりッ!」
小柄な少女がにたにた笑いながら、こちらに向かって歩いて来た。
それを見た冴島先輩は、聞こえない程度に軽く舌打ちをした。
「甘田ぁ、てめえとはこの前、マックで会ったばっかだろうが」
「1週間も前のことでしょ? 昔は毎日顔合わせてたのにねえ」
「当たり前だろうがッ! 同じ学校だったんだからなッ!」
むぅ、この軽口の叩き合い……相当なマブだちと見た。
学校が一緒ってのは、中学校の意味かしら?
冴島先輩、一見イライラしてるように見えるけど、内心はそうでもなさそう。
「まどかちゃん、今日はお手柔らかにね」
「うっせー、てめえの方が勝ち越してんだろうが」
「いやいや、いっつも際どいからさ」
「際どいのはてめえのおつむだ」
横目で観察していると、甘田さんは私の視線に気付いたらしい。動物園の猿を見るかのような目で、私に話し掛けてくる。
「この人が裏見さん?」
「は、はい……そうですけど……」
「姫野から聞いてるよ、けっこう強いんだってね?」
甘田さんはニヤニヤしながら、私を肘で小突いてきた。
初対面でいきなりお友だちモード……このタイプすっごい苦手……。
「この試合が終わったら、みんなでお昼食べに行かない? ね? ね?」
う、うわぁ……私は助けを求めて、冴島先輩をチラ見する。
先輩は両腕を組んで目をつむり、そして一言。
「そうだな……たまにはいいか……」
私は遠慮させていただきます。
「それでは大会を始めますッ! 選手は席についてくださいッ!」
その声を合図に私語がやみ、椅子を引く音が会場に木霊した。私も5列中央の椅子を引いて、そこに腰を下ろした。正面には猿渡さんが座っている。
ん、なんか持ってるわね……さっき読んでた本だ。カバーが掛かっててなにか分からないけど……多分、参考書かなにか……なんで鞄に仕舞わないの?
私がいぶかしがっていると、ふたたび司会の声がした。
「では振り駒を始めてくださいッ!」
そうそう、まずは振り駒を──私が盤面に指を伸ばすと、隣に座っていた部長が、
「振り駒は大将だけです」
と注意してきた。
へ? 大将だけ? ……どういうこと?
混乱する私に、部長は小声で説明した。
「大将が先手なら、三将と五将が先手です。後手の場合は逆です」
……あ、分かった。1ー3ー5が同じ手番になるのね。
私は大将席へと視線を伸ばす。姫野さんが歩をひろい、手の中でかき混ぜていた。
奇麗な指先から、歩が5枚宙に舞う。ぱらぱらと盤上に散らばる駒。
……表か裏か見えないんだけど。
「藤花、奇数先です」
「駒桜、偶数先」
え、え、え? なにそれ? 先手? 後手?
私は腰を上げて、歩の枚数を確認しようとした。
部長はそれを引き止めた。
「裏見さんは後手です」
そ、そうなんだ……私は腰を下ろす。
どういう理屈か分からないけど、とにかく落ち着こう。深呼吸、深呼吸。
うッ、猿渡さんにめっちゃ見られてる。素人と勘違いされたかも。
「……」
凄い……さっきまで騒がしかった会場が静まり返ってる。
まるで受験会場みたいな緊張感。手に汗が浮く。
時計の音。微かな息。時折聞こえる咳払い。
奥で時計を見ている司会が、ふいに大きくうなずいた。
「それでは対局を始めてくださいッ!」
よろしくお願いしますの大合唱。私も頭をさげ、チェスクロのボタンを押した。
猿渡さんは真っ直ぐ盤を見つめ、しばし黙考する。
B級戦法使いか……いったいどんな手を……?
猿渡さんが指した手は……7六歩。普通の手だった。
私は10秒ほど考え、3四歩と突いた。もしかして歩美先輩、私を脅かしただけ? それとも姫野さんから私の噂を聞いて、B級戦法じゃ勝てないと思ったとか?
後者なら悪い気はしないわね。私がそんなことを考えていると、猿渡さんは8筋に指を伸ばした。いきなり角交換? あれ、指が角を通り過ぎて──
「え?」
【将棋用語解説】
・奇数先
奇数番の選手が先手になること。5人制の場合は1ー3ー5が先手。
・偶数先
偶数番の選手が先手になること。5人制の場合は2ー4が先手。