8手目 暴力的な少女
これよ、これ。駒得を活かした4四銀打。
同角、同銀は鉄壁でしょ。私はボタンを押す。
あらら、残り時間が1分切ってる。もうすぐ30秒将棋だ。
こうなったら、姫野さんの時間も使って読むしかないわね。同角、同銀──
私は一心に読みふける。姫野さんも黙って動かない。
どこか遠い世界へ飛翔してしまったかのようだ。
それとも、姫野さん、困ってる?
私が内心ほくそ笑んだところで、姫野さんは三たび端に手をかけた。
1三歩成ッ! ……って、びっくりすることもないか。なるほどね。同香、同香成、同桂なら、同角成で角が助かる上に、こっちはほぼ死亡確定ってわけか。
だったら取らない。3一玉。
姫野さんは4四角と切ってきた。
これは読み筋。私はすぐに同銀と取り返す。これで角銀得。大儲け。
しかも3三の地点に金銀4枚が利いている。3三銀の打ち込みは無意味。
うふふ、これは快勝譜になるかもしれませんことよ。
なんて物真似してる場合じゃないわね。続きを──
姫野さんは4五歩と突いてきた。
……これは苦し紛れかな? しかも私は1九に成れる。とりあえず同銀として──
私の同銀に対して、姫野さんはようやく銀を手にした。
それでも3三銀かあ……って、通り過ぎてますよ。
……はあ? なにこれ? 同金でいいじゃない。と金が消せるし。
お嬢様面して、めちゃくちゃな暴力将棋ね。
私はノータイムで同金。姫野さんもノータイムで同と。
同玉と私が指したところで、ふとあることに気付いた。
3三の地点に、銀と金が1枚ずつしか利いてない。さっきまでは4枚だったのに。
で、でも大丈夫よね。3三金は同桂、同歩成、同銀、同桂成、同金で、3四歩としたら私は同銀と取れちゃう。3四歩じゃなくて2五桂なら、3七歩と飛車先を止めてOK。
私が安心していると、姫野さんは持ち駒へ手を伸ばした。
やっぱり金……じゃない。歩を持った。1二歩とか?
違った……指されたのは4四歩。
「ここが陣形の急所。そうではありませんこと?」
そんなこと言われたって……正直、1秒も考えてなかった。
とりあえず、どのくらい急所なのか考えましょう。3筋が薄いから、3七歩と飛車先を止めるのはどうかしら? そこで姫野さんが4三歩成とすると……えッ? いきなり詰めろになってる。同銀しかない。3三金打、同桂、同歩成は、もうこっちがどうしようもない……3一玉、4三とくらいで攻めが切れないから、3八歩成のヒマが……。
よ、4四歩は取るしかないわね。取りましょう。4四同金っと。
私の手と入れ替わるように、3三金が置かれた。
くッ、ついに来たわね……同桂は同歩成、同銀、同飛成で終了。2一玉に1一香成、同玉、1二歩。同玉なら1三香、2一玉、1二銀、同飛、同香成、同玉、2二飛、1一玉、3一龍までの即詰みがある。同飛なら1三歩と置き、姫野さんの玉は安泰か。
つまり、3三金は取れないわけね。だったら3一玉を読みましょう。3一玉、4二金、同飛、3三銀……ここで3七歩ね。4二銀成、同玉、3三歩成、同桂、同桂成、同玉。先手の持ち駒は飛車と桂馬だから切れ筋だわ。4二銀成じゃなくて4四銀成なら、同飛、3三歩成、同桂、同桂成に3二金で受かってそう。
よし、大丈夫。私は頷き、3一玉と引いた。
さあ、4二金と取ってきなさい。こっちはさっきので30秒将棋だから、もう少し考えてくれた方がほんとは助かるけ……ど……。
私はぽかんと口を開け、姫野さんの指した手をみつめた。
ま、また歩打ち? でもそれは金で取って、もとの形に……。
あッ! 同金、同銀に3三歩成で終わってるッ!
ど、同銀は?
同金、同金、3三歩成、3七歩、4三と、3八歩成、4二歩……こ、これも終了ッ!
ピッ
魔の音がきたッ!
ピッ、ピッ、ピーッ!
私は歩を掴み、速攻で3七歩と置くと、チェスクロを叩いた。
あまりに勢いがつき過ぎて、店内にバシンという音が鳴る。
うぅ、絶対これ他の人に不審がられてるよ……で、でも今は将棋に集中……。
「あら、そういう乱暴な扱いはいけませんことよ」
うるさーい。今は黙っててちょうだい。私は手だけを読む。
次は間違いなく4二歩成だ。同飛も必然。そこで同金なら、同玉、3三歩成、同桂、同桂成、同玉、2五桂、4二玉、3三銀、5一玉……3八歩成が間に合うわ。
3七歩は直感だったけど、正解手みたい。良かった。
私がホッとしていると、姫野さんはチェスクロにその切れ長な目を向けた。
「……まだ2分ほど残っていますが、そろそろ決めに参りましょう」
決める? 4二歩成は寄らないでしょ?
それでも姫野さんは4二歩成。私はノータイムで同飛。
見落とし?
姫野さんは歩を1枚つまみ、それを4三にそえた。
4度目の歩打に、私は驚愕した。
同飛は3二銀で詰み。放置も4二歩成で詰み。だから同金しかないけど……同金、同金に同飛は3三金、同桂、同歩成、同飛、同桂成。これも3二金で受かってるんじゃないかしら……あッ! 4三桂が打てるッ! さっきと形が違うんだわッ!
2一玉、1一香成、同玉、1八飛……こ、これは絶対寄ってる……寄らなくても飛車が逃げられるからダメだ……。
ピッ、ピッ
私はぼうぜんとしながら、同金と取った。
姫野さんはすかさず同金。
同飛、3三金、同桂、同歩成。
こ、このままじゃ、さっきの手順で寄っちゃう。手を変えないと。
私は4一玉と早逃げした。
「手数を伸ばしますか……」
私はもう反応できなかった。ただ彼女の指し手に合わせる。
4三と、4二金、5三桂、3一玉、3二銀、同金、同と。
に、逃げられない。
同玉、3三飛、4二玉、4三金、5一玉、3一飛成。
詰んだ……6二玉に6一龍だ……。
「……負けました」
私は投了を告げた。
コーヒーカップを手に取る。指が震えてうまく持てなかった。
縁から少量のコーヒーがこぼれて、盤にかかった。
私は謝ろうと思ったけど、謝れなかった。口が動かなかった。
姫野さんは扇子をパチリと鳴らし、投了図を見つめた。
なんだか不満そう。つまらない将棋を指した──とでも言いたそうな顔だ。
私が弱いから? とりあえずコーヒーを飲む。味がしない。
「受け間違いをなされたようですわね」
そ、そう……それは分かる……でも、どこで? 3七歩がじつは悪手だった?
「ア……ハハ……そうみたいです……ね……」
私が作り笑いを浮かべていると、姫野さんもにっこりと笑う。
「ええ、2二銀には、4一玉と逃げませんと」
2二銀……? それって相当前じゃない?
「4四角、同銀、4五歩、同銀、2二銀のとき……ですか……?」
「ほかに2二銀と打った局面はなかったかと」
……確かにない。でもそれは30手近く前のはず。
私、そんなに長く敗勢で指してたの……? 嘘だ。
姫野さんは扇子をかたづけながら、
「お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした……あなた、駒桜の方?」
とたずねてきた。
私は黙ってうなずきかえした。頭のなかでは棋譜が回っていた。
2二銀に4一玉……? あそこは逃げないとダメなの?
「でしたら、駒込さんによろしくお伝えください」
駒込……歩美先輩の名字だ。私はようやく顔をあげた。
「歩美先輩を知ってるんですか?」
姫野さんは駒を片づけながら、軽くうなずいた。
「はい、今年も大会でお待ちしていると、そのように伝えてくだされば」
大会? なんの大会だろう。駒桜名人戦のことかしら?
おじいちゃんに連れられて、一度だけ行ったことがある。確かに高校生もいた。
姫野さんはちり紙で、盤にこぼれたコーヒーをぬぐった。
私はそれが自分のせいだったことを思い出した。
「す、すみません……」
「飲食店ではよくあることですわ」
姫野さんは盤を丸めて鞄にしまった。
私は言葉なく座り、姫野さんが紅茶を飲み終わるのを待った。
もうアイスティーだろうに……そんなつまらないことしか考えられなかった。
カップが皿に置かれ、彼女は高級そうな女性用の腕時計をみた。
「5時過ぎですわね。本日はお付き合いいただき、ありがとうございました」
「こちら……こそ……」
「またお会いできる日を、楽しみにしております」
姫野さんは怪しげな笑みを浮かべ、席を立った。
ひそひそと話し声が聞こえる。野次馬だろう。私は彼女の背中を見送った。
涼やかなベルの音とともに、彼女は屋外へと消えた。マスターがやって来る。
「どうだったい? 強かっただろう?」
私は黙ってうなずいた。マスターは、私の負けを予想してたみたい。
腹立たしいけど、事実だ……角銀損でも指せると読んでるなんて……化け物。
「ま、あんまり気にしないことだよ。コーヒーのお代わり飲む?」
「いえ……」
私が力なく答えると、マスターはなにか察したように背を向けた。
私はあわてて引き止めた。
「さっきのひと……姫野さんは、よくここへ来るんですか?」
マスターはお盆を持ったまま、首だけこちらに向けた。
「頻繁にってわけじゃないけど、休みの日とかはたまにね。水曜日に来たのは、今日が初めてかもしれないな。窓ガラス越しに香子ちゃんを見かけたから、それで寄ったんじゃないかい?」
そうか……どうりで知らないわけね。
「あのひと、次の日曜日も来ますか?」
「次の日曜かい? ……あ、その日は来ないんじゃないかな。だって……」
「すみませーん」
カウンターで若いカップルが声をあげた。マスターはすぐさま返事をする。
「少々お待ちください」
マスターは注文を取りにもどった。
さっきのマスターの口ぶりだと、次の日曜はダメみたいね。
うーん……って言うか、言づてを頼まれちゃった。どうしよ。
社交辞令みたいなもんでしょうけど、無視するのも悪いし……ん? 歩美先輩によろしくってことは、歩美先輩も姫野さんを知ってるわけよね。一方的な関係で「よろしく」なんて言わないだろうし。
私はしばらく考えたあと、100円玉を置いて店を飛び出した。
場所:喫茶店『八一』
先手:姫野 咲耶
後手:裏見 香子
戦型:矢倉
▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲6六歩 △6二銀
▲5六歩 △5四歩 ▲4八銀 △4二銀 ▲5八金右 △3二金
▲7八金 △4一玉 ▲6九玉 △7四歩 ▲6七金右 △5二金
▲7七銀 △3三銀 ▲7九角 △3一角 ▲3六歩 △4四歩
▲6八角 △4三金右 ▲2六歩 △8五歩 ▲7九玉 △6四角
▲3七銀 △7三銀 ▲8八玉 △3一玉 ▲4六銀 △7五歩
▲同 歩 △同 角 ▲3七桂 △2二玉 ▲5八飛 △6四銀
▲1六歩 △4五歩 ▲同 桂 △4二銀 ▲7六歩 △8四角
▲3五歩 △4四歩 ▲3四歩 △4五歩 ▲同 銀 △7三角
▲3五角 △5三銀引 ▲4六歩 △9四桂 ▲3八飛 △8六歩
▲同 歩 △同 桂 ▲同 銀 △4四歩 ▲2五桂 △8六飛
▲8七歩 △8二飛 ▲1五歩 △4五歩 ▲1四歩 △4四銀打
▲1三歩成 △3一玉 ▲4四角 △同 銀 ▲4五歩 △同 銀
▲2二銀 △同 金 ▲同 と △同 玉 ▲4四歩 △同 金
▲3三金 △3一玉 ▲4三歩 △3七歩 ▲4二歩成 △同 飛
▲4三歩 △同 金 ▲同 金 △同 飛 ▲3三金 △同 桂
▲同歩成 △4一玉 ▲4三と △4二金 ▲5三桂 △3一玉
▲3二銀 △同 金 ▲同 と △同 玉 ▲3三飛 △4二玉
▲4三金 △5一玉 ▲3一飛成
まで111手で姫野の勝ち