3・好きなはずないでしょう
目が、点になった。
あたしの顔も勿論見物だったろうけど、それ以上に芙蓉の表情と来たら説明も出来ないくらい何とも言えないものだった。その顔を額縁に納めて「驚愕」とタイトルを付けたら誰もが納得するような、そんな具合だ。
あたしは赤くなればいいやら青くなればいいやらで、とにかくはだけた胸元を隠し、更には照れも隠して笑顔を総動員で動揺を覆う。
「今日は、遅いんじゃなかったっけ?」
今振り返って思えば、まるで浮気がバレた側のセリフっぽく聞こえるが、あたしと芙蓉は断じてカレカノではないのでそこに異性がいたところでなんらやましい事はない、筈。――なのに、この後ろめたさは何だろう。
あたしは初めて本気で芙蓉に申し訳ないと思っていた。
――事の起こりは一時間前。
あたしは年が明けて付き合い始めた新しい彼を今の家に初めて招いた。彼氏が出来るのは初めてではないが、下宿を始めてから男を連れ込んだのはこの日が最初だ。誓って言う。
この日はたまたま芙蓉の帰りが遅いと、前日に聞いていたから迷惑もないだろうと思ったのだ。
あたしは彼をリビング兼、床の間の畳み間――あたしと芙蓉の共同スペースに通して、帰り掛けにコンビニで買ったジュースやお菓子を広げてテレビを見ていた。でも夕方に面白い番組とかなくて、いつしか関心はテレビからコンビニで一緒に買ってあった雑誌に移り、どの服があたしに似合うか他愛ない話を始める。すると自然と距離は縮まって、そうなると当然のようにキスをして……とくればあとはお決まりの流れ。
あたしだって家に招くって事はそれを含んだ期待もあった訳で、拒む理由もなく、そのまま畳みに背中を付け、互いのシャツに手をかけてボタンを解いて行った。恋人なんだし、なんら問題はない。あたしは快楽に身を任せ、彼に身を委ねた。
そしていざ本番って時だ。まさか、予定外の早い帰宅をした芙蓉とあたし達が遭遇したのは。
あとは説明せずとも分かるだろう、絵に描いた修羅場だ。どうみても兄弟ではない男が彼女の家に帰宅する。彼はあたしが男と同棲(似て非なるが否定は出来ない)した上で浮気をしていたのだと激怒。芙蓉とは何でもないと言う説明も聞き入れて貰えず、例え浮気じゃないにしろ、余所の男と一緒に暮らす女は信用出来ないとそしられる。それもそうだなと、あたしは彼の罵倒を甘んじて受けていたら、何故か芙蓉が彼を怒鳴りつけるから事態はより大きくなる。
「彼女が信用出来ない程度の想いなら、それくらいの覚悟なら、即刻別れなさい」と。
それからの収拾が大変だ。
あたしは今にも殴り合いに発展しそうな両名を割って止め、芙蓉を宥め、彼を止めた。そして、あたしから彼に別れを告げる。
確かに好きだったのに。好きだった筈なのに、あたしはあっさりと彼を切り捨てた。彼からすれば自分の方が別れを切り出すべきで、あたしの方から言われる筋合いはなかったのだろう。プライドを傷つけられたか、彼があたしに手を振り上げる。殴られるのも仕方ないやと歯を食いしばり、目を瞑る。
それなのに、それなのに――。
* * *
「芙蓉は馬鹿だ」
「返す言葉もありませんね。いなすつもりだったので殊更に」
苦笑して芙蓉は眼鏡を外す。弦の部分が微妙に広がってしまっていたが、修理をしますと言った。予備もあると付け足して。
芙蓉を殴り、少しは気が収まったかそれともばつが悪くなったのか、彼は二、三言葉を吐き出すと出て行った。何を言ったか覚えていないが、記憶に残ってないって事は、多分使い古された言葉だったのだろう。
ともかく、嵐が落ち着いた後、あたしは濡れタオルを芙蓉の口元にあてて、その痛ましい痕を見る。腫れはさほど酷くはない。あたし相手に加減して平手だったからだろう。でも当たりが悪かったのか、口の端が切れて血が滲んでいた。
「芙蓉があそこで割って入るなんて思わなかった」
「あんな男に智さんが貶されのは我慢ならなかっただけです。言われる筋合いもないのに貴方も甘んじて聞いているし……」
腹が立ったんです。
そう言った芙蓉を前にあたしは言葉が詰まった。
何故だか嬉しくて、笑ってしまいそうで、でも変に期待すると馬鹿を見そうで不安で怖くてどんな顔をしたらいいか分からなくなったのだ。
「どうしました?」
急に黙るあたしを訝しんだ芙蓉が顔を覗く。眼鏡を外して、いつもより距離を感じる端正な顔を前に思わずあたしは彼の目を逸らすようにぐいと顎を無理矢理押し上げた。そして、「うっ」と芙蓉の呻き声。
「智さん、何の真似ですか。危うく首を痛める所でした」
にこやかに、それでいて責める口調で芙蓉はあたしを見る。でも視線に怒りはなくて何だか優しげ。
青みがかった灰色の瞳が、あたしを写す。あたしはそれが物凄くいたたまれない。
「……見ないでよ」
口をついて出た言葉は、芙蓉が口を挟む前に早く動く。
「そんな風にあたしを見ないで。あたしをよその男から庇ったりしないで、あんまり優しくしないで。か、勘違いしちゃうからっ」
あたしは真っ赤で。我ながら何故か自爆するような事を口走っていた。これじゃまるであたしが芙蓉に告白してるみたいだ。
さっきまで別に彼氏がいたくせに、芙蓉を恋人に……なんて本気で意識をした事もなかったくせに。何を言ってるんだあたし。これで拒否られたら立ち直れないじゃない。ああ、立ち直れないってなんだ。これじゃ本気で認めたようなものじゃないか。
違う。芙蓉は家族みたいなもんで、口煩い兄貴分で、でもホントはただの管理人で、あたし達は他人で、芙蓉は頭も良くて格好良くて何でも出来て、あたしはそれなりに美人だと自覚はあってもそれだけで、勉強は苦手で料理も下手で全然釣り合うような人間じゃなくて、全然駄目で、それで――。
何が何だか分からない。
頭ぐちゃぐちゃ。恥ずかしくて穴があったら入りたい。
この気持ちを否定したいんだか肯定したいんだか分からないぐらいにぐちゃぐちゃに絡まり解けない思考。
芙蓉も芙蓉でいつもみたいに冷静に「何馬鹿な事言ってるんですか」と小言の一つでも零せばいいくせに、どうして今日に限ってそんなお小言もないんだとか、半ば逆ギレで芙蓉を見れば、あたしが唖然とするくらいに芙蓉の顔は――真っ赤だった。
さすが欧米、ゲルマン系の血を引いてる彼の白い肌は赤みが際立つ。首筋まで朱に染めている芙蓉の姿をあたしは初めて見る。
そんな反応じゃまるで、まるで――……。
「芙蓉、それはまるであたしの事、好きみたいだ」
「なっ……」
そこで芙蓉は更に火を吹いた。
動揺に動揺を重ねて、意味もなく弦の曲がった眼鏡をかけて、鼻筋にずり落ちたそれを不快そうにしながらも赤面は色落ちしない。
「芙蓉」
呼びかけ、芙蓉の腕を掴もうとすればするりと避けられる。
立ち上がった芙蓉はあたしに背を向け、部屋を出る態勢だ。
「芙蓉、何とか言いなさいよ。あんた、あたしの事、好きなの?」
問い掛ける。今度は逃がさずにしっかり芙蓉を捕まえて。
見上げた芙蓉はやっぱり赤いまま、一瞬だけあたしに目を合わせたけどすぐそっぽを向いた。
「……好き……な、はず、ないでしょう」
素っ気なく言うつもりが失敗したみたいに歯切れ悪く答えると、芙蓉はあたしを振り払って自室へと行ってしまった。
取り残されたあたしはと言うと、口元を押さえて沸騰する熱を肌に感じていた。
芙蓉の言葉は好意を否定したものだけど、あんな態度、あんな反応でハイそうですかと納得するものか。
あれじゃまるで、……まるでだ。
「あそこで怯むから草食なんて言われるのよ」
一人ごちたあたしは、密かに決意する。
ちょっとだけあたしの気持ちに火が着いた、バレンタイン一週間前の出来事。