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風追い  作者: かの@
9/13

第三話 青磁の紋章(1)

 ラティは鉛のように重く鈍くなった手足を必死に前に動かした。もう夕餉の支度が始まっているのだろう、美味しそうな匂いが鼻先をくすぐって、胃のあたりがきゅうっと縮まって空腹を訴える。それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。

 無計画に建物が立ち並んだ末に、迷路のように入り組んでしまった狭い路地を走り抜ける。小麦色の短い髪の毛は額に張り付き、流れる汗が容赦なく目にかかって沁みた。

「待ちなさい!」

 ラティが走らなくてはならない原因は、綺麗に敷き詰められた石畳の上を身軽に飛び跳ねる黒い影にあった。ラティがいくら叫んでも、もちろん目の前の標的ターゲットが立ち止まってくれるわけはない。そんなに従順な標的であったなら、昼頃から夕方になるまでラティが奔走するはめにはならなかっただろう。

 ラティは今、ここハイリアの街を舞台に壮大な追いかけっこを繰り広げているのだ。

「風よ、鎖となりて、かの者の動きを封じよ──」

 途切れ途切れになりながらもなんとかお粗末な律を紡ぐと、しょうがないなという雰囲気で渋々風の動く気配がした。つたない律に従って、風が標的の足にまとわりつく。

「やっと捕まえた!これで終わりだっ」

 足をとられて地面に縫い止められた標的は悔しそうな鳴き声をあげて身を捩った。ラティは魔力を絶やさないように意識を振り分けながら、じりじりと標的に近づく。

 両手を伸ばし、今にも捉えようとした瞬間、突然標的は後ろ足で立ち上がり、前足の爪でラティを威嚇した。驚いた拍子に、魔力がするりとほどけてしまう。その隙を標的が見逃すはずがない。

「あっ」

 小賢しく知恵の回る標的は、さっとラティの足の間をくぐり抜けた。慌てて振り返るがその小さな姿はすでに塀の上。さらに別の屋根に飛び移ってみえなくなった。

「そんなあ…」

 また逃がしてしまった。歯がみしたところでどっと疲労が襲ってきて、その場に思わずしゃがみこむ。捕まえられそうになって、逃がしてを何度繰り返したことだろう。また最初からやり直しかと一人で落ち込んでいると、

「相変わらず、爪が甘いね」

 と目の前の石畳に影が落ちた。

 顔を上げると、覗き込んできたのは少し釣り上がり気味の赤紫の瞳。次に、腕に抱き上げられて暴れる標的の姿が視界に入って、ラティはぱっと顔を綻ばせた。少年はラティと同じくらいの背を屈め、腕を引っぱり立ち上がらせてくれる。

「ありがと、ルーイ」

 笑顔を向けると、ルーイは軽く頷く。汗だくのラティとは対照的に、彼女の相棒は涼しい顔だ。首のあたりで切り揃えられた漆黒の髪は綺麗に流れ、白皙の肌には汗ひとつみあたらない。

 ルーイは物を扱うみたいに無造作に、標的の首根っこを掴んでラティに差し出した。情けなく手足をじたばたさせている標的が少し可哀相だ。

「はい、これ」

「捕まえてくれたんだね」

「うん。ラティが捕まえるかと思ったんだけど」

 ルーイは何か言いたそうに、ちらっとラティの足下に目をやった。格好のつかないところを相棒にしっかりみられたようだ。とりあえずラティは笑って誤摩化した。

 

 早速標的を依頼者のもとに届けると、依頼者の少女はいたく喜んでくれた。

「ありがとうございます!」

「いえいえ」

 小さな標的──まだ若く元気いっぱいの猫は、少女の腕で早くも外に飛び出しそうなほどうずうずしている。もう逃げるなよ、と念をこめて睨みつけると、みゃあと鳴いてつんとそっぽを向いた。可愛くない猫である。

「お礼はこちらです」

「ああ、はい」

 少女はラティの掌に何枚かの銀貨を差し出した。さすが裕福な商家の娘、なかなかに気前がいい。でもきっと、理由はそれだけではないだろう。

 先ほどから愛想よく微笑むラティをそっちのけで、少女の熱い視線はルーイに注がれたままだ。うっとりした表情は、ラティにちょっぴり嫌な予感を抱かせる。案の定、ルーイはといえば、相変わらず何を考えているのかわからない無表情で少女の好意を受け流していた。

 本人が自覚していればいいのだが、自分のことに──否、ラティ以外のたいていのことに無頓着なルーイが他人の心情など推し量るわけもない。繊細な乙女の純情な感情が粉々に壊れてしまわないことを祈るばかりだ。

 帝都から少し北に離れた街、ハイリアの街は、街道沿いにあるごく普通の宿場町だった。時折やってくる隊商を出迎えるため、高級な宿屋から素泊まりのみの安宿まで揃い、宿選びには事欠かない。

 街の中心より少し外れた安宿の一室で、部屋に入るなりラティは寝台に倒れ込んだ。半日走り通しだったので、夕飯の薄いスープもパンも今日は極上の宮廷料理並みに美味しく感じられた。

「そういえばルーイ、なんであの時あそこにいなかったの?」

 ラティに続いて寝台に腰掛けたルーイが、何のこと?という風に首を傾げる。艶やかな黒髪が額を滑った。

「事前の打ち合わせでは、あの行き止まりにルーイがいて挟み撃ちにする手はずだったよね」

 口を尖らせながら少し文句をいうと、ああ、と納得したようにルーイが頷いた。

「失敗するから」

「え?」

「あの猫は、あれくらいの壁なら飛び越える。だから高い所から機会を伺ってた方がいい」

 それからちょっと呆れたようにラティを一瞥するので、ラティはむっとする。

「それならそれで、なんで打ち合わせの時に言ってくれないの」

 ラティの計画が上手くいきそうもないと気づいているなら、事前に言っておいてくれても良かったのではないか。必死に走り回った自分が馬鹿みたいだ。

「面白そうだったから」

「へ?」

「ラティが必死に走り回るのが、面白そうだった」

「ちょっと!!」

 憤慨してラティがルーイの頭をはたこうとすると、ひょいと軽々避けられ腕を掴まれた。反対の腕をふりあげるが、そちらもすかさず掴まれる。

「放してよ」

「嫌」

「ルーイ!」

「だって放したら叩くよね?」

 ルーイが肩をすくめて言った。

 むっときたラティは力いっぱい抵抗するが、ルーイが腕を放さないので、二人で奇妙な踊りを踊っているような動きになった。それが無性におかしくて結局笑い出してしまい、ルーイもちょっと口の端をあげて微笑んだ。

 その笑顔をみると、ルーイもだいぶ変わったのだなあ、とラティは感慨深い気持ちになる。

 白狼と同じく、黒狼の成長は早かった。2年経つと突然こんこんと三日三晩眠り続ける状態になり、目覚めた時には一気に一回り大きくなっていたのだ。あの時の衝撃は未だに忘れられない。五歳児にしかみえなかったルーイは今や十五、六の少年にみえるくらいになっている。

 昔から嫌味なくらいに冷静で頭が回ったのだが、最近はとくに生意気で、時々ラティをからかうような素振りをみせていた。

 端正な容姿はますます磨きがかかり、青年になる一歩手前の独特の危うさは、痩せっぽちのラティよりもよっぽど色香がある。息子に背を抜かされた父親の気分がちょっぴり解る気がするラティだった。



 日が落ちるとラティは早々に寝ることにした。今日の依頼はこなしてしまったので、また明日は新しい依頼を探しに行かなければならない。生活のためにも、それからラティの夢をかなえるためにも、依頼は必要だった。

 獣の姿に戻ったルーイにおやすみを言い、寝台のすぐ傍にある燭台の灯りをけして、寝台に潜り込む。そのまま糸が切れるみたいに深い眠りに落ちた。

 夜半。

 ふと、何か身体の上にのしかかるような気配を感じて唐突に意識が浮上した。

 身じろぎしようとしても、手足が押さえつけられていて全く動けない。生暖かい息が頬にかかって、開きかけた目を慌てて閉じる。真っ白いシーツに映る獣の影がちらりと見えた。

 混乱して心臓が激しく胸を打ち始め、死んだふりをするみたいに、息を潜めて身体を強ばらせる。

 梟の鳴き声に混ざって荒い吐息が満月の夜の静寂を乱した。

 身体の上を覆う気配は段々熱を帯びるようだった。逡巡するような間を挟んで、ゆっくりとざらざらした感触が首を舐め上げた。舐められたところが空気にさらされて冷やりとする。

 舌はそのまま焦らすように首を上っていき、ラティの頬を舐め上げた。硬い牙の感触が、そっと首筋に押し当てられる。

 しかし、いつまでも経っても痛みは襲ってこなかった。確かな欲望を含んだ湿った息が首筋にかかるたび、ぞくりと産毛が逆立った。

 舌は迷うように、困り果てたように、何度も首筋を行き来する。柔らかな毛並みが肌に触れてくすぐったい。その度に、ラティは変な声が漏れそうになるのをこらえた。

 緊張状態は長くは続かなかった。しばらくすると、振り切るように素早く、気配が離れていく。

 ラティは緊張のとけた安堵で、再び夢の中へと落ちていった。



 気持ちいい、と思った。

 瞼をあけると、窓から差す陽光に目が眩んだ。冬眠から叩き起こされた動物のように、ラティはシーツの中に潜りこもうとする。抗いようのないぬるい微睡みが手を広げて彼女を待っていた。

 けれど、次の瞬間それは吹っ飛んだ。

 見慣れた赤紫の瞳。

 すぐ鼻先から、向けられる無遠慮な視線に気づいたのだ。先ほどから気持ちいいと思っていた感触はルーイの指だった。細い指先が、髪の毛の小麦色の髪の房を捕らえて、くるくると弄ぶ。

「ちょっと、ルーイ!」

 朝っぱらから、ラティは狼狽した声をあげるはめになった。

「何?」

「何?じゃないって…」

 原因のルーイは何が悪いのかわからないといった様子でじっとラティを見返してくる。眠そうに瞳孔のぼやけた瞳と、シーツの下から覗く華奢で尖った肩と鎖骨が艶かしくて、ラティの顔に血が上った。

「なんで、人型になってるの!」

「なっちゃ駄目?」

「なったら駄目!」

 普通、白狼は夜になるとその姿を解いて獣の姿に戻る。それが本来の姿で一番身体への負担が少ないからだ。ルーイもその例に漏れず、夜は獣型に戻るため、宿代の節約も兼ねて同じ寝台で寝ることも多い。

 しかし最近、朝になるとなぜかルーイが人型に戻っているのだ。もちろん、服など着ているはずもなく、その度にラティは朝から心拍数が跳ね上がる。

「早く服着て、お願いだから」

「いいけど、」

 そのまま何の躊躇いもなくシーツから出ようとするので、慌ててラティは目をつぶった。

 全く、毎朝心臓に悪い。

 これでも嫁入り前の女の子としては、裸の男の姿はちょっと刺激が強すぎる。もっともルーイには何の悪気もないのだから、怒っても無駄だと、解ってはいるのだが…。

 項垂れて大人しく自分も着替えているうちに、昨日の夜中の出来事が頭をよぎった。

 夢か現か、解らないような朧げな記憶が残るのは、今回が初めてのことではない。そしてそんな日の朝はきまって、ルーイは人型になっている。

 人型のルーイに驚いて、夜中の出来事について問いただす機会を失っていた。有耶無耶のままにきているが、あれはきっと夢ではない。

 成長して第二期に入ったヴェネフィは、その性質も成獣に近づく。夜、しかも獣型となればなおさら強く本能に支配されるのだろう。ルーイが人型になっているのは、本能を抑えるための手段なのかもしれない。

 舐められた感触がまだ残っているような気がして、そっと首筋をさする。いつか、ルーイの牙が迷い無くラティの首筋を食いちぎる日がくるのだろうか。漠然とした不安にラティは身震いした。


やっと成長しました。

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