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風追い  作者: かの@
8/13

第二話 転落(4)

一部残酷描写(?)があります。

 それから後のことは、動揺であまり覚えていない。ラティはルーイの手を無理矢理引っ張ると、一目散に村へと逃げ帰った。

 部屋に入って、大きな布で濡れた身体を包んでやると、無言のルーイを抱きしめた。ほの暗い蒼い瞳は底なし沼のようだったが、不思議と怖くなかった。帰り道、繋いでいた手が微かに震えていたのを知っていたからかもしれない。この後どうすればいいのか、頭の中をぐるぐると色々な想いが駆け巡る。

 ばらばらになった思考の欠片が元の位置に収まる間もなく、すぐに師匠に呼び出された。

 弟子達の住む家の隣、師匠の家の二階の書斎で、師匠は待っていた。窓際で雨の滴る雫を眺めていた師匠が、口にくわえた煙管の灰を落とした。

「俺が何を言いたいか、おまえはもう解ってるな」

 ラティは黙ったままだった。

「学校でのことを聞いた。…あいつはおかしい。白狼ってのは、温厚で優しく、主に命じられなければ虫を殺すことすら躊躇うような獣だ。知能は人よりも劣り、せいぜい賢くても子どもくらいの知能しか持たない。だが、あいつは違う」

「いいえ、同じです」

「おまえも話に聞いたことはあるだろう。黒狼の話を」

「黒狼…」

 ラティに聞き覚えがないはずはなかった。師匠の書斎の棚で、つい数週間前に調べた名前だった。見なかったことにして、無駄な努力と解っていても、その名の書かれた本を書斎の棚の一番奥に押し込んだ。

「白狼よりもさらに珍しい種で、卵もその容姿も白狼に擬態しているため解りにくい。だが、決定的に違うところがある。それは、やつらが人とは相容れないヴェネフィだってことだ。ゾディよりも遙かに高い魔力と強大な力を持ち、残忍で攻撃性が高く、人を傷つけることを好む」

「ルーイは白狼です」

 ラティは頑なに首を降り続ける。

「あの子は優しい、私に花をくれた、ちゃんと謝る素直な心だって…!」

「ラティ、ヴェネフィに心がないってわけじゃない。ただ、あいつらは善悪の区別がつかないんだよ。そもそも、そんな価値観なんて持ってねえ」

「それは」

「5年前の話をしようか」

「5年前…」

「おまえのいなかったひと月の間に、何があったかだ」

 師匠はふう、と溜め息をついて椅子に腰掛けた。その瞳が遠くをみるように、懐かしむように細められる。

「おまえがアルゼとともに隣街に出かけたあとすぐのことだ。おまえも知ってる神父の男だがな、あいつが一人の小僧を拾ってきた。あの男はお人好しだから、森で怪我してた小僧を放っておけなかったんだろうな。リアナは、頼まれて小僧の看病を引き受けた。三日間の看病の甲斐あって、小僧はなんとか意識が回復して歩けるようにまでなった。リアナは子どもができなかったから、どこか自分の子どものように思ってたのかもしれねえ。小僧もリアナリアナって、よくくっついて回っていたよ」

 師匠は淡々と喋った。

「二週間ほど経ったある日、その小僧が森に行きたいと言い出した。もうだいぶ怪我も回復してたから、リアナは二つ返事で森へ連れて行った。心配したあの男もつれて、三人でな。俺は仕事があるからってんで、ろくに見送りもしなかった」

 師匠は過去の自分を傷つけるように冷たく嘲った。

「馬鹿だよなあ。俺は。当然に、ただいま、ってあいつが帰ってきてくれると思っていたんだ。信じて疑わなかったんだ、その当たり前の幸福を。あいつが、あんな姿になって帰ってきて初めて、それが幸福なことだったんだって気づいたんだからな…」

 大馬鹿者だ、と小さく繰り返す。

「その子どもっていうのは」

「そいつだったんだよ。俺のリアナを殺したのは。小僧はヴェネフィだった。リアナを気に入ったヴェネフィは、リアナを当然のように食べようとしたんだ」

「な…」

 動揺するラティを師匠は静かに見返した。

「気に入ったから食べる。それは奴らの素直な感情だ。あいつらは別に悪いことしたなんて欠片も思っちゃいねえよ。それがヴェネフィって奴なんだ」

 畳み掛けるように、師匠が身を乗り出した。

「解るか。俺はまた、あの時と同じことを繰り返したくねえ。ラティア。おまえまで、ヴェネフィのせいで失いたくない」

 その瞳は逃げ出したくなるくらいに真っすぐラティを中心に捉えていて、ラティは自分を殴りたくなった。こんなにも師匠は自分を心配してくれている。ルーイを庇うことは、その温かさを撥ね付けるのと同義だ。

「ルーイは…その子とは違います」

 その言葉を口から押し出すのにとても勇気が要った。師匠は途端に表情を厳しくする。

「ラティ、俺はおまえのことを風使いとして大事に育ててきたつもりだ。おまえは魔に魅入られた魔徒になりたいのか?風使いの誇りを捨ててか?」

「私は…」

「殺せ。あいつを」

 師匠はそれ以上ラティに口を挟ませずに、使い込まれて滑らかな飴色の木机の引き出しから袋を出してみせた。

「これはトカの実だ。成獣の黒狼には全く効かないが、幼いあいつには多少は効くはずだ。すぐに身体がしびれて苦しみだすだろう。これを使って、殺せ」

 鼻先に突きつけられた袋を拒んで、ラティは受け取らない。

「い、嫌だ…嫌です師匠…」

 こぼれ落ちる涙が絨毯に染みを作った。師匠に逆らったことなんて、今まで一度もなかったはずだ。

 駄々をこねる子どものように首を振るラティの身体に、師匠はトカの実の入った麻袋を押し付ける。袋は落ちて床に力なく転がった。

「いいな。ルーイを殺せ。…でなければ、破門だ」

「嫌だ、嫌だ、嫌だ………!」

 泣きわめくラティを置いて、師匠は部屋を出て行った。



 しばらくして、ラティは部屋に戻った。

「ルーイ、今日は部屋でご飯を食べよう」

 手に持った木の椀を2つ、静かに机に並べる。立ち上る白い湯気が香ばしい匂いをまき散らし、寝台に座っていたルーイがそろそろと近寄ってくる。伺うような視線をあえて無視して自分だけ先に席についた。

 ルーイも大人しく向かいの席に腰掛けると、すぐには手をつけずにじっと木の椀をみた。

「いつもと違う」

 その台詞にどきりと心臓が跳ねる。全身の毛穴が開くような嫌な感覚がした。

「何が?」

「香り」

 トカの実には独特の香りがあるが、スープの香りに混ざって殆ど差はないはずだ。訝しんで首を傾げるルーイに内心舌を巻く。優れた嗅覚が、ルーイが黒狼であることを示している気がして、心がずんと重くなった。

「今日は疲れたでしょう?だから、特別に薬草を入れたの。味はちょっと不味いかもしれない」

「薬草を?」

「そう」

 薬草入りの料理を作るなど、今までにないことだった。不審がってもいいところだが、ルーイは素直に頷く。

「ありがとう」

 何の疑いもなく告げられた礼に、ラティは思わず胸を抑えた。自分のしていることが、どんなに残酷なことなのか、突きつけられた気がした。

「…あっ……」

 椅子が騒々しく倒れた。スープを飲み下して数瞬もたたないうちに、ルーイが喉をかきむしりながら床に転がっていた。額には大粒の汗が浮かび、のたうち回って苦しんでいる。

 擬態は溶け、輝くような銀色の髪はみるみるうちにくすみ、漆黒に染まった。蒼い瞳も揺らぎ、紫と赤を混ぜたような妖しい色に変化する。書斎の書物でみたとおりの黒狼の姿だった。

 本来の姿を取り戻したルーイも、不思議なくらいに綺麗で美しく、恐怖を催す類のものではなかった。むしろその幻想的なまでの美しさが、人を惑わす魔性であることを証明しているようでもある。

 ラティはそれを見下ろしたまま、懐に忍ばせていた短剣を取り出した。鋭い切先をルーイに向けて構える。苦しみに歪んだ瞳が縋るようにラティを見た。

「ラ…ティ…」

 悲痛な叫びは、真実ラティの助けを求めていた。ヴェネフィといえど、心がないわけではない。師匠の言うことに、いつも間違いはなかった。

 だからきっと、人とヴェネフィが相容れないというのも正しいのだろう。

「ごめんね…」

 愛も情も、この一年間の全てを振り切るように、ラティは高く刃をふりかざした。



 ラティは最後に長年暮らしてきた家を振り返った。セルディア山脈の麓に身を寄せ合うようにして建つ家々から少し外れたところ。大きな師匠の家と少し小ぶりの弟子たちの家が肩を並べている。今までどれだけの弟子達を、この家は送り出してきたのだろうか。

 それでも、こんな朝早くに、誰の見送りもなくひっそりと旅立つ弟子はきっと他にいなかったに違いない。

 しっかりと煉瓦作りのわが家を目に焼き付けると、ラティはゆっくり背を向けた。

「行くんだな」

 背後から声をかけられてラティは肩を震わせた。いつの間にでてきたのだろう、アンディが戸口に立っていた。その手には抜き身の剣が朝日をうけて光っている。

「おまえがそいつを殺せないだろうってことは解ってた。馬鹿だな。だから卵のうちに処分しとけば良かったのに」

 咄嗟にラティはルーイを背後に庇う。アンディは泣き笑いのような顔で言った。

「おまえが殺せないなら、俺が殺してやろうって思ってきたんだ」

「やめて。アンディ兄。ヴェネフィだろうとなんだろうと、この子は私の相棒だから」

「魔徒になるのか。おまえが。誰よりも風使いに憧れていたおまえが、俺たちを裏切るのか」

 違う、とラティは首を振る。乾いた唇を舐めて、掴もうとしても手の指の間からすり抜けていってしまいそうな言葉を、なんとか繋ぐ。

「私が証明してみせる。たとえ黒狼でも、立派な風使いになれるって。ヴェネフィに操られる魔徒じゃなくて、風を扱う誇り高い風使いとして、皆に認められてみせる」

「馬鹿げたことを。今庇っているそいつが成長したら、おまえは殺されるかもしれないのに」

「ルーイは殺させない。ルーイに、私を殺させもしない」

 決然と前を見据える碧の瞳は、強い意志に燃えていた。二人の間に爽やかな草の匂いを孕んだ風が吹き抜け、一輪だけ咲くレンスイショウを戯れに揺らす。アンディは困ったように微笑んで、構えていた剣を下ろした。

「昔っから、おまえの強情には敵わない」

「…うん」

「覚えてるか、最初におまえが師匠に連れられてやってきた時」

「アンディ兄は、自分のことを本当のお兄さんだと思えって言ってくれたね」

「あの時、おまえは心細いだろうに、師匠の影に隠れることもなく俺の目をまっすぐ見上げた。その時から、俺には易々と想像できたよ。おまえは誰よりも強くなるだろうって。おまえはきっと風に祝福されて、立派な風使いになって光の中を歩いていくだろうって」

 ラティは黙ったまま唇を噛みしめる。射殺せそうなくらい強い視線で、アンディがルーイを睨みつけた。

「…ルーイ、おまえを絶対許さない。俺は、こんなラティがみたかったんじゃない…ラティ、俺は、」

 アンディはそれ以上の何か言おうとしたが、首を振って別の言葉を口にした。

「…いいよ。行けよ、ラティア。一度だけそいつを見逃してやる。おまえが悲しむからな」

「ありがとう。アンディ兄」

 ラティは、ぼやける視界のまま目に力をいれて無理矢理笑顔を作ると、踵を返した。ルーイもそれに従った。

 一度も振り返らないと決めていた。毅然と顔をあげ、前を向く足取りは、村から逃げ一生を日陰で生きることを選んだとは思えないほど、堂々としたものだった。

 アンディはその小さな背を眩しそうにみつめ、丘の向こうに消えてしまうまで、ずっと立ち尽くしていた。

「さよなら……可愛い俺の妹。おまえに、いい風が吹きますように」

 そっと呟いた祈りを、風は運んでくれただろうか。

 その日から、村のラティに関する記録は一切抹消された。


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