第二話 転落(3)
その日の夕飯の時間、師匠は目に見えて機嫌が悪かった。師匠の酒癖が悪いのはいつものことだが、妻のリアナが死んでからは酷くなる一方だ。
弟子達はもう長い付き合いなので、ただ嵐が過ぎるのを待つように耐えるしかないと解っていた。師匠の家の一階の居間で、くだを巻く師匠を見ない振りをして、ラティ、アンディ、クルトとルーイは机を囲んで黙々と食事を口に運んでいた。アンディの白狼はまだ人型を安定してとれないので、獣の姿で床に寝そべっている。
「だいたい、気に入らねえ」
師匠が杯を叩き付けるようにして置き、声を荒げた。ラティの目の前、師匠の横に座るクルトが肩を震わせる。気の弱いクルトはいつも師匠の言動にびくびくしていた。
「おまえの目は死んだ魚みたいだ。何考えてるかわかんねえ。気味が悪い」
先ほどから、酒を飲んだ師匠が苛立たし気に責め立てているのはルーイだった。ルーイはクルトと違っておどおどしたりせず、木の椀をみつめたまま平然と食べ続けている。ち、と師匠が面白くなさそうに舌打ちした。
「なんにも言い返せねえのか。すました顔しやがって。だいたい街から物を盗んできたりおめえは一体なんなんだ」
「師匠!あんまりです!」
「なんだあ」
遂に我慢がならなくなってラティが口を挟むと、師匠は途端にいきりたつ。ラティは迫力に負けずに腹に力を入れて言い返そうとした。
「ラティ!」
しかしアンディが鋭く制し、目で黙っていろと諭してくるので、渋々ラティは口を噤んだ。
それにしたって、とラティは唇を噛む。師匠の酒癖が悪いのは知っている。ルーイを気に入らないようだということにも、いい加減勘づいていた。けれど、酒が入ると決まってルーイに酷い言葉を投げつけるのは、いくら師匠といえども許せなかった。
ラティがそのまま黙っていると、師匠はふんと鼻を鳴らして席をたって出て行った。
食事の後片付けで台所に一人で立っていると、アンディが皆の食器をまとめて持ってきた。そのまま去るでもなく、気遣わしそうにラティに声をかけてくる。
「ラティ、おまえの気持ちも解るけど、師匠の気持ちも解ってやれ」
「…どういうこと」
ぶすくれたラティは口を尖らしたまま、さっきから力任せに皿を乱暴に洗っている。皿が可哀相だ、とアンディが嘆いた。
「師匠はおまえを心配してるんだよ。おまえのこと、師匠がどんなに大事に思っているか知ってるだろう」
「そんなことない!」
ラティは力一杯否定した。師匠がラティのことを大事に思うなら、ラティの白狼であるルーイのことだって尊重してくれていいはずだ。なのに、師匠はルーイが無事卵から孵った時も喜ばず、未だにルーイの魔力を使って風を起こす訓練をすることも許してくれない。おまけにことあるごとにルーイを貶すのだ。
それは、師匠がラティのことを軽んじているからではないのか。
「師匠は私のこと、信用してくれてないんだ。卵が盗賊にやられた時だって、私だけのけ者にしようとして…」
「それは違う」
「何が違うの」
アンディはしょうがないな、という風に首を振った。
「全然違うよ、ラティ。師匠はおまえのことを信用してるさ。ただ、おまえのことが娘みたいに可愛くって、心配なだけなんだよ。ルーイのことだってそうだ。あいつは…ちょっと変だからな」
ラティに気を使ってか、後半は曖昧にぼかす。
「それに、今日、神父さんが街にきてたんだろう?」
「うん」
「きっとリアナさんのことを思い出してるんだ。だから辛いんだよ」
今頃部屋に一人ぼっちでいるだろう師匠の丸い背中がふっと頭をよぎり、ラティの怒りも少ししぼんだ。何かあって師匠が荒れている時、いつも笑顔でまあしょうのない人ね、と言って宥めてしまっていたリアナは、もういない。
「ねえアンディ兄。私はあの時家にいなかったから詳しいことは知らないんだけど…一体あの時何があったの?5年前のあの日」
盥に洗い終わった皿をひたして、ふとラティは聞いた。5年前のあの日、ラティはたまたま仕事でひと月、隣街までアルゼとともにでかけている最中だったのだ。
「ああ、おまえは知らなかったんだったな」
「魔にやられたってことは聞いたよ」
「そうだな。あの日、リアナさんと神父さんが一緒に森に行って──」
「ああ。あの頃は、不良神父もまだ村にいたんだっけ」
そういえば、とラティは眉をひそめる。不良神父が突然村を出て行って神父になったのは、リアナが死んでからすぐのことだった。
「俺も森でなにがあったかは詳しく知らないんだ。ただ、その時家で預かってた子どもがいたんだよな。その子がたしか森に行きたいと言ったんだ…あの子ども、気づいたらいなくなってたけどどこに行ったんだっけか」
どうやらアンディも少し記憶が曖昧なようだった。無理も無い。リアナさんが怪我をしたと聞いて村は大騒ぎになったのだから。アンディは隣街まで雪の中医者を呼びに走ったと聞いている。
「とにかく、師匠と神父さんとリアナさんの間で、何かあったんだろう。あれからすぐに神父さんは村を出て行ってしまったからな」
ラティは頷いた。昼間別れた不良神父の寂しそうな顔を思い出す。彼が村に寄り付こうとしないのも、あの日の出来事に原因があるのかもしれなかった。
しばらくは毎日が平穏に過ぎた。相変わらずルーイは友人と連れ立って帰ってくることもなく、友達の家に遊びに行くこともなかったが、学校自体は気に入っているようだった。字も覚え、すぐに大人が読むような本まで読めるようになった。
ルーイはめきめきと成長していた。
──それはけして喜ばしいことではなかった。ついに師匠が疑いの目を向け始めるくらいに、ルーイは他の白狼に比べて成熟しすぎていたのだ。
その日は酷い雨だった。重くたれこめる雲が、セルディア山脈の麓にも陰鬱な影を落としていた。いつものようにルーイを送り出し、屋内の仕事をこなした後、昼下がりになっても雨はやまなかった。
そろそろルーイが帰ってくるかという頃、学校から呼び出されたラティは、雨よけのローブを頭から被って足下の悪い街道を足早に抜けた。ルーイが学校に行き始めてから、呼び出されるのは初めてのことだった。
屋敷につくと、いつもは子どもの歓声が聞こえるのに、不思議なくらい静まり返っていた。一階の普段教室として使われている部屋はがらんとして机と椅子が並んでいるだけだ。
そこに、ぽつんとルーイが立っていた。表情は濃い影に隠されて見えない。ただ、じっと己の掌をみつめている。
「何があったの」
胸騒ぎがして、ラティは一歩近づいた。はっとしたようにルーイが顔をあげるが、その視線はラティを通過して後ろで止まった。
「化け物」
振り返ると、憔悴した顔の先生が、幽鬼のように暗闇に立っていた。
「先生…一体、何があったんですか」
ラティはただならぬ雰囲気を感じて唾を飲み込んだ。いつも柔らかな笑顔をたたえている先生が怯えた表情で魔物でも見たかのようにラティから顔をそむける。
「今更しらばっくれる気なの」
「なにをです?何があったんです?」
釦を掛け違えたかのように、会話に奇妙な違和感を感じる。焦ってラティが一歩近づくと、先生は一歩後さじった。
「話す!話すわ。だからこっちにこないで!」
激しい拒絶の言葉にラティも足を止める。どこか熱に浮かされたような興奮状態にある彼女の異様な危うさが、ラティにそれ以上踏み込むことを躊躇わせた。
「今日は天気が悪かったけれど、予定通り街の市場を皆で見学していたのよ」
か細い声が雨音の中に溶ける。先生は自分を勇気づけるように腕をさすった。
「…注意してみていたんだけれど、何人かはぐれてしまってね。市場は割と治安が良い方だから、油断していたのね。探しにいったら、その子と何人かが破落戸に裏路地に引っ張り込まれて絡まれていたのよ」
いくら治安がいいといっても、街は村とは違って人の出入りが多い分、何があるか解らない。誰かが怪我をしたのだろうか、とラティは眉をひそめた。
「絡んでいたのは、街でも有名なたちの悪い者たちだったわ。自分の可愛い生徒たちが、危険な目にあっているんですもの。私は急いで大声を出して助けを呼ぼうとしたの」
そこで喉をつまらせる。いつも緩く後ろで纏めている柔らかな黒髪がぐちゃぐちゃにほどけて、歪んだ頬に涙の痕がみえた。
「どうなったんです」
「死んでいたわ。何があったのか、即座にはわからなかった。その子だった。その子が、無表情に、相手の腕を捻り上げて、酷い音がして……破落戸は一瞬で皆死んでいたわ」
「そんな」
「必死に止めたのよ!…止まらなかった。虫一匹殺すような目をして、命乞いする相手の言葉なんて全く聞き入れずに、彼らをひねり潰した……」
暗闇の中で、恐怖に追いつめられた目が爛々と光っていた。ラティは息を飲んだ。先生は弾劾するようにルーイを指差し、狂ったようにうわずった声で繰り返す。
「化け物……こんな子どもの姿をして、この子は化け物だわ…信じられない……」
ラティは絶句する。ルーイがみつめていた掌には、赤黒い血飛沫がついていた。
「お願いよ。出て行って!!もう二度と、戻ってこないで!」
湿った空気にすすり泣きの声が混じって、寒気に身体を震わせた。