第二話 転落(1)
師匠が今までに見たこともないような、感情を消し去った顔でラティを睨んでいた。
「殺せ」
先ほどから繰り返される言葉の意味を、ラティは理解できなかった。いや、理解したくはなかった。
「い、嫌だ…嫌です師匠…」
ぼたぼたと目から涙がこぼれ落ちて絨毯に染みを作る。駄々をこねる子どものように首を振るラティに師匠はトカの実の入った麻袋を押し付けた。ラティが受け取らないと、袋は落ちて床にそのまま転がった。空いた口から、紅いトカの実が零れ落ちる。
「いいな。ルーイを殺せ。…でなければ、破門だ」
「嫌だ、嫌だ、嫌だ………!」
泣きわめくラティを残して扉が締まり、師匠の足音は遠ざかって行く。ラティは顔を手で覆ってその場に崩れ落ちた。
時を遡ること、半月前。
蒼天を、渡り鳥が群れをなして帰ってくる季節になった。丘には黄色い高原草が咲き乱れ、最後まで残って見習いをやきもきさせた卵も無事に孵った。雪解け水が小川に溢れ、長い冬を耐え抜いた生き物たちが目覚めだす。
大陸の北に連なる蒼い山脈は、頂きに冠のような雪だけを残している。なだらかに伸びる裾野の野原を割って、茶色い一本の街道が真っすぐ伸びていた。
その道をひた走るちっぽけな一人の少女がいた。風使いの見習い、ラティだ。
去年までありがたがっていた春の陽光も芽吹き出した緑も、今年のラティには目に入らない。ラティは前が見えないくらいの紙袋を両腕に抱え息を弾ませて、街から村へ帰る途中だった。
ゆるやかに村の外縁を取り囲む柵をくぐると、洗濯物をつめた籠を持った女性たちにたちまち呼びとめられる。
「ラティちゃん、そんなに嬉しそうにして、どうしたんだい?」
「やめとけよ、今のこいつに捕まったら厄介だぞー」
すぐに木材を抱えたおじさんが横合いから口を挟んだ。
「口を開けばルーイ、ルーイってな。満足するまで離してくれないぞ」
「そんなことないですよ!今日は街で買った果物をルーイに食べさせようと思って。だから急いでるんです」
その場で足踏みしながら、邪魔しないでください、と口を尖らせてラティが言った。
「おまえ本当に嬉しそうだなあ」
「あらあら、よかったねえ。あの子が喜んでくれるといいわね」
「ありがとうございます!」
ラティはにっこり笑って跳ねるようにまた駆け出した。
ラティが去年、卵を得ることができずに落ち込んでいたのを知っているからだろう。村の皆は、おおむね、ラティのはしゃぎっぷりを苦笑しつつも温かく見守ってくれている。自分が初めての白狼を得た時を思い出して、懐かしくも思っているのだろう。
ラティは果物を沢山抱えたまま、うきうきした気分で自分の部屋までやってきた。勢いよく扉を開けて飛び込む。
「ルーイ!」
「お帰り」
勢い込むラティに引きずられることなく、大人びた落ち着きのあるルーイが絵本から目をあげた。きらきらと瞳を輝かせて紙袋に手を突っ込むラティを見て、絵本を閉じる。
「何?」
と紙袋を指差して首を傾げた。
その様子をみてラティは頬が弛みそうになるのを抑えきれない。人型の時のルーイはだいたい人でいうところの5歳児くらいの容姿で、手も足も嘘みたいに小さくてまるっこい。蒼い瞳は水晶みたいに澄み、艶のある銀色の髪には光の輪っかができて、教会の壁絵の天使のようだった。
「ルーイのために、身体に良い果物を買って来たんだ」
使い古した深みのある木の机の上に、ラティが次々と果物を並べる。ルーイは右から順に、指差して、名前をぽつりぽつりと言った。
「トコの実、モルの実、サンゲの実…」
「凄いねえ、ルーイは。アンディのとこの白狼なんて、まだアンディの名前を呼ぶのが精一杯だよ」
感心したラティはよしよしとルーイの頭を撫でた。ルーイは少しくすぐったそうに首をすくめ、丸くて吸い込まれそうな瞳を細めた。
「ほら、食べてごらん」
口元へ持って行くと、おずおずと掴んで口を開ける。すでに生え揃った白い歯の中で、やけに犬歯だけが尖っていて少し不似合いだ。
「甘い」
どうやら気に入ったようで、味わうように何度も噛んでいる。ラティは満足して頷くと、ふと机の上に置かれた絵本に目をやる。幾日か前、ルーイに買い与えた童話の絵本だった。
「ルーイ、字を習ってみる?」
「字?」
「そう。絵本に書いてある、これのこと」
ラティは紙に黒いインクで書かれた文字の一つを指差してやる。
ルーイは里で一番孵化が早かったとはいえ、師匠も驚かせる程の急激な成長をみせていた。
アンディの白狼など数日遅れで孵化したというのに、未だにろくに言葉を喋れない。それに比べてルーイは簡単な会話もできれば、絵本の絵で物の名前をいくつも覚えた。
「字が解れば、もっと難しい本も読めるようになるよ」
「習いたい」
そして、ルーイは白狼には珍しく知的好奇心の固まりだった。外で他の白狼たちと泥まみれになって遊ぶよりも、部屋に籠って絵本を指差し、ラティに物の名を訊ねる方が好きらしい。
「よし。じゃあ、私が街の学校に入れてもらえるように頼んでみるね」
大人びているルーイに友達を作らせるには、同じ白狼よりも人間の子どもの方が良いかもしれない。ラティはそんな思惑もあって、思い切って師匠に頼んでみることにした。
数日後、師匠はラティの頼みを聞き入れ、ルーイは街の学校の初等クラスに通うことになった。
今日は最初の登校日だ。ラティは一緒に街の先生に挨拶に行くことになっている。
ラティは、朝、まだ日が上りきる前に張り切って起きると、新しい麻布でできた肩掛け鞄に、紙と羽ペン、インクの入った壷を詰め込んだ。それから、紙でくるんだサンドイッチと水の入った革袋も忘れない。寝ぼけ眼で階下に降りて来たルーイの肩に、鞄をかけてやると、少し重みでよろめいた。不思議そうに、肩ひもをいじっている。
「さあ、今日からルーイは学校に行くんだよ」
小さな手を引いて、自分のことのように誇らし気にラティは言った。
ラティは学校に行ったことがない。
ラティの生まれた村はここよりもだいぶ東にずれた場所で、全員が冬も越せないくらいに痩せた貧しい土地だった。母親は、次々に子を生んだ。ラティは幼い頃、しょっちゅう寝込む病弱な役立たずで、今よりももっと貧相な身体つきだった。両親はラティが8つの時の飢饉でついに、彼女を手放す決心をした。
だからといって、両親を恨む気持ちは特にない。
両親は孤児院に預けずにラティを師匠の元にやってくれた。そのおかげで、こうして風使いとしての今がある。でも、やはり学校に行って友達を作ったり同世代の子達と遊んだりすることは、今でもラティの憧れだった。
学校は街の外れ、教会の隣のこじんまりした古びた屋敷だ。帝都の学校で教師資格をとった人が派遣されてきて、この場所を借りて教えているという。
話が師匠から行っているのだろう。訊ねるとすぐに先生は家の中に招き入れてくれた。街でたった一人の先生は、豊かな黒髪の小さな女の先生だった。
一階には何人かの生徒がいて、書き物の手を止めて物珍しそうにルーイをじろじろ見た。先生は自習を命じて二人を二階へ案内する。二階は小さな部屋がいくつかあり、先生の居住空間になっているようだ。応接室に入ると、ふんわりとリラの花の香りが漂った。
「貴方がルーイ君ね」
ソファに座ったルーイが、こっくりと頷く。先生がルーイを気に入るだろうかとやきもきするラティの心中も知らず、本人はそれ以上喋らず沈黙した。
「あの、大人しい子なんです」
代わりにラティが弁解すると、先生はいいんですよ、とやんわり止めた。それからルーイにいくつか質問をして、今日は終わりだった。明日からはもう普通の授業を始めるというので、いくつか必要な物を聞いて、階下の子ども達に自己紹介だけすませて学校を出た。
二人で手をつないで街の石畳を歩いていると、浮き立つような歓声とともに、隣の教会から祝福の高い鐘の音が響いてきた。街の人々が入り口に集まって、口々に祝いの言葉を述べている。
レースを凝らした純白のドレスを着た小さな女の子達が、籠に入った白い花びらを撒いて練り歩く。その花吹雪の向こうに、幸せそうに手を取り合う男女の笑顔が垣間見えた。どうやら婚礼のようだった。
「わあ、綺麗だね」
ラティは足を止め、眩しそうに見つめた。花嫁の衣装は雪のように真っ白で、裾のレースに縫い付けられた硝子玉が水晶みたいに輝いている。腕に抱えるブーケには、安寧を願う黄色のレンスイショウ、蒼天を表すミリアナ、純真な真心を贈る純白のアリアの三種類の花が、競うようにほころんでいた。
新郎が引き寄せられるように、花嫁のヴェールをあげて口づける。二人の視線は絡み合い、空気にまで光の粒子がきらきらと輝くようだった。
「いいねえルーイ。私もあんな風に幸せになりたいなあ」
「幸せ」
見知らぬ言葉のように、ルーイが繰り返す。その瞳はじっと花嫁のブーケをみつめていた。