第三話 青磁の紋章(3)
限界まで引き絞られていた弦がついに耐えかねて弾けてしまったみたいだった。緊張状態に見ないふりをしていただけで、火種は元からあったのだ。
村を出る前、ラティは確かにルーイを殺そうとした。それが幼いルーイの心に焼き付けられなかったはずはない。加えて今、ルーイは不安定な状態にある。自分の中に芽生えた魔としての本能と、ラティがどうしようもなく弱いという現実が彼を苦しめている。
自分のせいだ、とラティは思った。ラティがルーイよりも強ければ、ルーイに脅かされないほどの実力があれば、きっとこんなことにはならなかった。彼は自分の本能が、怖いのかもしれない。
「あらー、結局一人になっちゃったの?」
「アンナさん…」
一人で宿にいるのは堪え難かった。昼時になり、気もそぞろのまま待ち合わせ場所に向かうと、アンナが明るい調子で声をかけてきた。
隣に、もう一人背の高い男性を連れている。彼がアンナの言っていた相棒の剣士だろう。がたいがよく、がっちりした肩や分厚い胸板から相当に鍛えられているとわかる。短く刈られた茶色の髪や獣のような金の瞳、頬の傷が野性味をいや増して、非常に威圧感があった。
男は、ラティを文字通り見下ろして舌打ちした。
「俺は魔法使いは嫌いだ」
と開口一番に言う。
「はあ」
ラティは呆気にとられて気の抜けたような反応しかできない。
「魔法使いって奴らが本当に嫌いなんだ」
二回も言うか。なんて感じの悪い男なんだろう、とラティはさすがにむっとした。
「それ以上言うと怒るわよ、カイ」
「…」
「ラティちゃん、ごめんなさいね」
アンナに笑顔でぴしゃりと言われるとむっつりと黙り込む。出逢って数瞬のうちに二人の力関係が解ってしまった。けして友好的とはいえない彼の態度に、先行きがちょっぴり不安になる。
男──カイはそれ以上ラティを睨みつけるだけで無言を貫いたので、アンナがその場を取り仕切った。三人はとりあえず依頼の詳細と打ち合わせをすることになった。
「…あれ?」
ラティは目の端に小さい影がするりと抜けていくのを捕らえて首を傾げた。今ラティが歩いているのは大通りから少し西に入り込んだ区画で、下級とはいえ貴族の屋敷が並んでいるためか人通りは少ない。
あの後アンナたちとの詳しい依頼の説明と打ち合わせはすぐに終わり、ラティは正式にこの仕事を請けた。
二人は王都からやってきたようで、王都でも何度か依頼をこなしているらしい。依頼書も見せてもらい、詳しい話を聞いてもやはり怪しいところはなかった。
ラティは、この依頼が終わったらルーイにきちんと自分の想いを伝え、改めて主として認めてもらうつもりだった。そのためにも、頼りがいのある主として、一人でもきちんと依頼がこなせるのだということを示さなくてはいけない。
話し合いの結果、早速今日から情報収集をしようということになった。ラティは行方不明の商家の娘を最後に見かけたという貴族へ話を聞きに行ってきた後だった。
貴族は、近所でも美しいと評判だった商家の娘が前から気になっていたらしい。その日も、彼女を大通りでみつけて声をかけようとしたそうだ。しかし、彼女は何かを探すようにきょろきょろしながら、慌てたように去ったという。探していたものとは、一体何だったのか。誰かと待ち合わせでもしていたのか。
ラティは思考を巡らせながら、気になった影に目を向ける。
「あ…あいつは!」
小さな影の正体に気がついて驚いた。綺麗に梳かされた白く長い毛に、ゆらゆらと揺れる長いしっぽ。どこかすました調子で歩くのは、ラティが昨日捕まえたばかりの、あの猫だった。
どうやら、また抜け出しているらしい。きっとあの娘が心配しているはずだ。一度は請け負った縁だ、捕らえて返してやろうと思い、ラティは猫に気づかれないようにそっと距離をつめる。猫はラティに気づかないまま、道を何度か曲がった。
すでに西の区画の外れまできている。そろそろ追いつくかという頃合いで、猫はラティを躱すように、また一つ角を曲がった。ラティも素早く後に続こうとして、
「…あれ?」
きょとんと立ち尽くした。猫は道からこつ然と姿を消して、素っ気ない石畳が続くだけだ。
ふと異様な気配を感じて顔を上げると、眼前には石を積み上げた高めの塀と、その向こうにうらぶれた雰囲気の屋敷が頭を覗かせていた。そこから吹いてくる風に、ラティは突き上げるような吐き気を感じて咄嗟に口を押さえた。
「なにこの……嫌な風は…」
胸がむかつくような、淀んだ空気がその屋敷に漂っていた。身に宿す魔力の性質上、ラティは風に含まれる魔力や匂いにかなり敏感だ。質の悪い魔力に、饐えた匂いが混じり合っているみたいだった。
この屋敷は、行方を探している娘が消えた場所と近い。なぜ今までこの屋敷に気づかなかったのだろうかと、ラティは首を傾げた。もしかして、結界でもはってあったのだろうか。どちらにしろ、調べる必要がある。
塀を辿った先、門の前に立つ二人の門番に怪しまれないように、とりあえず隣の建物の影に身を隠す。そこでラティはしばらく思案した後、まずはアンナたちにこの屋敷のことを伝えることに決めた。単独行動は危険である。
大通りに戻り、銅貨一枚で伝書用の小さな鳥獣を借りると、彼女たちから借りた匂い布を嗅がせて放った。それからすぐ、先ほどの場所に戻って大人しく待つことにした。
アンナは空を割って彼女の手に舞い降りた伝書用の鳥獣──ハピイを見て微笑んだ。白と灰色の羽を混じったハピイは満足げに胸を膨らませて嘴で毛繕いしている。黄色い小さな足に結わえられた紙を解くと、目を通した。
「どうやら、ラティちゃんは優秀みたいね。色々策を巡らす手間が省けて助かったわ」
そのまま紙をカイに渡すと、ハピイにご褒美のサンゲの実をやってから空に返す。ハピイは挨拶するように一回だけ旋回すると、すぐに去った。
「アンナ。どういうつもりだ?いきなり依頼に他人を引きずり込むなんて」
苦々しい顔をしたカイが、紙を乱暴に引き裂いて捨てる。
「なあに、怖い顔しちゃって」
「おまえがいきなりわけのわからんことを言い出すからだ」
カイはアンナの考えることがいつも解らない。元々の頭の出来が違うというのもあるかもしれないが、この女が常識からだいぶ横道にそれた変人だというのが一番大きいと思っている。
「別に依頼を二人でやろうと四人でやろうと関係ないでしょう?」
アンナは綺麗な笑みを顔に乗せた。その笑顔が心底彼女の機嫌が良いことを表していて、カイはますますわけが解らなくなる。
「だが…」
「どうも、あの二人は『当たり』な気がするのよねえ。カイ、ちゃんとあの子たちを見張っといてね」
「当たり?おまえ、まさか」
「当然じゃない。あんた、なんのためにこうやって旅してると思ってんの?」
カイは黙り込む。
「あたしはあの連れを探してくるわ。あんたは先にこの屋敷に行って、ラティちゃんを助けてあげて?お願い」
「…おまえのそれは命令だろう」
アンナはよくわかってるじゃない、とにっこり微笑んだ。
ラティは待っている間も注意深く屋敷を伺っていた。だんだんと日が落ちて、影が長くなってきている。よくしつけられた門番は微動だにせず、厳しい視線をまっすぐ前に向けたままだ。
立ちっぱなしで早くも強ばってきた足をそっと動かしていると、遠くから蹄の音が響いてきた。やってきた黒塗りの質素な馬車が屋敷の前に止まると、中から男たちが出てくる。
「あれは…!」
その男たちに抱えられるようにして屋敷へと運び込まれた少女の姿に、ラティは目を見張った。遠目だが間違いない。ラティに猫の捜索を依頼した商家の娘だった。意識をなくしているのか、ぐったりして男たちに身を任せていた。
アンナたちはまだ来ていない。ラティは逡巡の後、拳をぎゅっと握りしめると決意を固めた。ローブのポケットから小さな瓶を取り出す。自分は袖で口と鼻を多い、片手でコルクの栓を抜くとそっと律を唱える。
「風よ、我が導き手となりてかの者に届け」
瓶の縁から流れ出た甘い香りは風に乗ってするりと門番の元へと漂っていく。ラティが息を詰めて見守っていると、門番は目を擦り欠伸をした。そして、よろけたかと思うと、そのままその場に崩れ落ちた。成功だ。
ラティは瓶を再びローブに仕舞うと、他に誰か見張りがいないか目を配りながら足音を忍ばせ、用心深く門をくぐった。
門の中に足を踏み入れた途端、噎せ返るようなあの空気にえづきそうになる。必死に気持ち悪さを堪えて、ラティは屋敷へと続く砂利道の横、木の影に隠れた。屋敷の前のささやかな庭は長い間手入れされていないようで、背の高い草が伸び放題、様式もなにもあったものではない。
娘を運んだ男達はすでに屋敷の中へ入った後のようだ。扉の前の見張りも、ラティの使った香が効いたのか、地面に大の字で寝言を言っている。しかし、使った眠りの香の効き目はそんなに長くない上に量も限られていた。
ラティは素早く裏手に移動すると、使用人用の裏口から中へと入りこんだ。
屋敷の内部は人の手が入っているのか、そこまで荒れた雰囲気はない。ただ、人が極端に少ないようだった。呆気ないくらい簡単にラティは屋敷の奥深くまで入り込むことができた。たまに通る剣を携えた男たちは、空き部屋か通路の影に隠れてやり過ごす。
そうするうちに、ラティは微かに人の気配のする部屋をみつけた。話し声が聞こえないので、細めに扉を開けて中を覗く。部屋は普通の客室のようで、天蓋つきのベッドと革張りの机、椅子が一つずつ置いてあった。
その椅子に、一人の子どもが腰掛けていた。足をぶらぶらさせながら俯いている。ラティは警戒を緩めずに部屋の中へ入り、扉をしめた。
「誰?」
子どもが扉の閉まる音に反応し、怯えたような声をあげる。
「静かに。私は貴方の敵じゃないよ」
入ってきたのがラティのような女性だったことに安堵したのだろう、子どもは表情を緩めて素直に頷いた。12歳かそこらだろうか。色素の薄い青みがかった灰色の髪と、けぶるような蒼い瞳が美しい。先ほどの商家の娘といい、見目の良い者たちが誘拐されているのかもしれない。
「君もここに連れてこられたの?」
子どもは口をへの字に歪め、目に涙を溜めて頷いた。きっと辛い思いをしたのだろう、ラティはそっとその子どもの身体を抱き寄せる。昔ルーイにしてやったように、頭を優しく撫でてやった。
「…お姉ちゃん、僕たちを助けにきてくれたの?」
「そうだよ。すぐにこの屋敷から出してあげるから」
ラティは部屋を見渡した。他に捕らえられている者はいないようだ。子どもによれば、先ほどまでは見張りの男がいたそうなのだが、慌てた様子で外へ出て行ったという。ラティが門番を眠らせたことがばれたのかもしれない。そうすると、もうあまり猶予はなかった。
「他に囚われている人がいるのがどこか、知らない?」
「それなら、僕知ってるよ。案内する」
子どもは涙を拭い、自信を持った様子で頷いた。連れて行くのは危険だったが、この場に残してもどうなるかわからない。ラティは子どもに道案内を任せることにした。
彼は屋敷内には詳しいようで、すいすいと先へすすんで行く。赤い絨毯を踏みしめながら階段を二つほど上り、蝋燭で照らされた廊下を通り抜けて、二人はある扉の前に辿り着いた。
今や饐えたような匂いは強烈になっていた。頭が次第にくらくらしてきて、ラティは顔を顰める。子どもは匂いに慣れているのか、躊躇いもなく扉を開けた。
「ここは…」
窓には分厚いカーテンが引かれ、室内は薄暗い。目が段々と慣れてくると、ラティはその光景に絶句した。広い広間のような場所に、整然と檻が並んでいる。その中に蠢く気配。それは全て、変わり果てた人間の姿だった。




