序
そこは、白い檻の中だった。
目の前を真っ白に塗りつぶす吹雪が、ラティの薄っぺらい体を山肌から引きはがそうと吹きつける。
大陸の北、国境にそびえるセルディア山脈の山頂付近は、万年雪に覆われ、草も樹々も生えない。風の行く手を阻むものは何もなかった。
峰の間を風が抜ける音か、はたまた魔獣の咆哮かわからない音が、時々遠くでおおん、と嘆くようにこだました。
ラティはねじふせようとする自然にあらがうように、前へと足を動かした。のろのろと山肌を這う姿は、竜の背に張りついた虫のように、どうしようもなくちっぽけだ。
魔獣の革で作った手袋や長靴は重く、じりじりとラティの体力を蝕んだ。しかし、普通の手袋や長靴では、この寒さに耐えられまい。ずっしりと小さな肩に食い込む鞄にも、必要最低限の食料しか入っていない。
時たま風が止むと、恐ろしいくらいの静寂がやってきた。自分の荒い息だけが、追いつめるように彼女を急かす。
孤独な戦い。ただ一人、白い檻の中を、ただ一つ、卵を求めてさまよっている。
もう駄目だろうか、と、自分の心に何度目かわからない問いかけをした。ここで引き返して下山しても、誰もラティを責めないだろう。麓の村の暖炉で蜂蜜酒を飲み、凍えきった身体を暖めたいという誘惑がラティに甘く囁きかける。
しかし、今日を逃せば山は深い雪と氷に閉ざされて、再び入山できるようになるには長い時を待たねばならない。ラティはまた、見習いとして一年を過ごすことになるだろう。
村の同じ見習いたちが次々と自分の卵の孵化を喜ぶなか、一人で孵化場の掃除をする惨めさは堪えがたいものだった。何度、皆に気を使わせないように、おめでとうと無理に笑顔を作っただろう。もうあんな苦しみを味わうのはごめんだ。
進むか、戻るか。逡巡してラティは足をとめた。
諦め悪く視線を泳がせたその時、霞む視界の端にぼんやりと明滅する光がみえた。
まさか、と心臓が期待で跳ねた。けれどすぐに、断定するにはまだ早いと冷静な自分が水をさす。
はやる気持ちをなだめて、積もったばかりの柔らかい雪をかきわけ、溺れそうになりながらも光源へ辿りつく。
分厚い革手袋をはめた手で、光を通して輝く雪をそっと掘り返す。すぐに硬い感触が革越しに伝わった。
「ああ…!」
こぼれでた白い吐息が空気に溶ける。
卵だった。
夢にまでみた、ラティの頭ほどもある卵が、雪に抱かれて顔を覗かせていた。ラティは革手袋をとると、震える指先で、そっとなめらかな殻に触れた。殻の表面は大理石のように白く光沢があり、ラティの顔が薄く映り込んでいる。
放たれる橙色の光は温かく、夜に家の窓から漏れる暖炉の灯りみたいだった。光の明滅は、心臓の鼓動と同じゆっくりとした速度で、生命の確かな息づかいを感じさせる。
きっと、この光景を一生忘れないだろうという予感があった。
「やっと会えた。私の、『ルーイ』」
うっとりしながら、ずっと前から考えていたその名を呟くと、卵の光がひときわ強くなる。ラティは寒さで強ばった顔を動かして、にっこり微笑んだ。初めましてと、よろしくの意味をこめて。
──そうして、ラティは相棒を手に入れた。