2.深奥潜入 足りないピースはどこにある?
男は雲一つない快晴の空を見上げていた。いや、正確にはその空をバックに空の青を前面に反射させるガラス張りの巨大な建物をだろうか。
「――待たせたな」
背後から声をかけられ、男は肩越しにちらりと振り返って相手を確認し、それから改めて身体ごと振り返る。眼前にいるのは白髪の短髪にギロリとした鳶色の目をした初老の男。体は細身だが、決してひ弱な印象は受けない。それは刃物か何かで切ったと思われる、左の目にだけ縦に大きく走る裂傷の跡だけのせいだけではない。
「ご足労ありがとうございます。天之御影命さん。いえ、三条重光さんと言った方がよろしいですか?」
「……ふん。どっちでも構わねえさ。稀代のハッカーテンペストさんよ。それともBBこと久那島総司って呼んだほうがいいのか?」
鼻を鳴らしながらの言葉に、総司はほんの少しだけ目を見張る。絶対にばれないと思っていたわけでもないが、二度目の接触から四日程度でハッカーとしての名前まで調べられるとは思っていなかったのだ。
「ふむ。さすがにキャラクターを特定されていると調べられてしまうものですね。やはり安易に自分の正体を明かすのは得策ではありませんでしたか」
通常は無数に存在するキャラクターから何のヒントもなしに目的の人物を探し出す事は不可能に近いが、そのキャラクターが特定されていればそこから辿ろうと思えば出来ない事はない。
ゲームという枠組みがある以上、そこから逸脱しきらない程度の防御策では限界があるのだ。人を隠すには人の中だが、それが最初から分かっているのだから仕方がない。
「まあ、下らん話はここまででいいだろう。一般人の仮想都市ネットワークの滞在期間はそう長くない。やるならやるで急がないと面倒な事になるからな」
重光が先ほどまで総司がそうしていたように、空の青を映したガラス張りのビル――バーチャルAA社の社屋を眺めながらそんな事を言ってきた。十数年前には自分が所属していた企業である。いろいろと思うところもあるのだろうと総司は考えていた。
「そうですね。ではまず場所を変えましょう。この前の下見の時にいい場所を見つけました。そこからなら人目につかず事を起こせるはずです」
しかし重光自身が言っていたように、あまり悠長に構えている事は出来ない。総司は重光に行動を促しつつ、先立って歩を進め始めた。向かう先はAA社の裏手の方。背の高いビルによってほとんどの時間が影になってしまう位置にある、すでに潰れてしまった小さなカフェだ。借主募集中という看板が下げられているのを無視して、総司は少し指を動かすだけで電子ロックを解除。ドアを開き、
「どうぞ」
まるで自分の家に招き入れるように背後の重光に侵入を促した。
「早速俺が教えた情報を活用しているみてえだな。いくら仮想都市ネットワーク内のセキュリティレベルが外に比べて低めだとはいえ、不正ツールもなしに突破出来るほど柔な物でもないはずなんだがな」
「そうですね。仕組みさえわかってしまえば仮想都市内の分身であるアバターに分割したツールを引っかからないように忍び込ませる事も出来ますから。さすがに大量には無理ですが、あの日から毎日コツコツと持ち込んでおきましたから、今日持ってきたもので目的は達成出来るはずです」
重光に仮想都市ネットワークの仕組みを教えてもらった事で、その検査方法やセキュリティの仕組みを理解した総司は、それらを掻い潜る形での不正プログラムの持ち込みに成功していた。
この四日間の内にそれらをこの場所に集め、一気にAA社を攻略する作戦である。
「……ふん。こいつはずいぶんと持ち込んだもんだな。証拠隠滅が大変そうだぜ」
カフェ内の一角にずらりと並ぶパソコンやら黒箱の装置を前にして、重光が低くうなった。実際はどれもこれもただのデータなのだが、そこらのスクラップを再利用して形を与えてあるのだ。
確かにその量は証拠隠滅に当たって手を焼きそうではあるが、
「ご心配なく。事が済んだらこの機材は自壊消滅するようになっています」
そこはやはり形があろうともデータである。自壊プログラムによって直接手を下す事なく跡形もなく消し去る事が可能なのだ。
「どうせこれが正真正銘最初で最後のチャンスでしょう。最初だからこそ、ありえないはずだからこそ付け入る隙があるというだけですからね」
仮想都市ネットワーク内で大規模なハッキングは行えない。それはハッキングに必要なツールやデータを持ち込めないという前提によるものだ。
しかし今回ばかりは事情が違う。知りえるはずがない情報を知りえるはずはない人間が知る事によって、その前提は覆された。故に一番最初の今回に限り、この仮想都市内に存在するいかなるセキュリティであっても総司を止める事は出来ないのだ。
とはいえ、当然にしてそれは絶対安全というわけではない。用意出来たものはどうしても必要最低限のものになってしまったため、こうして重光に協力を要請したのである。
「ツールの使い方はわかりますか? 分からないようであればお教えしますが」
「なめんじゃねえよ若造が。こちとらただずっと生きてきたわけじゃねえんだ。お前のサポートくらい――」
すっと重光が機器の前にある椅子に座り、即座にプログラムを走らせ始めた。総司と仲間の手製プログラムだというのに、操作するしわの刻まれた手には一切のよどみが存在しない。
「――難なくやってやるよ」
肩越しに振り返ってきた傷の刻まれた瞳が総司を射抜く。
「……なるほど。では早速始めましょう」
総司もまたメインのプログラム操作を開始し、仮想都市ネットワーク史上初めての大規模ハッキングを開始した。
◇
攻略を始めてわずか十分。総司は最初の関門へと到達していた。目指すべき存在の位置は第七ブロック。そこへいたるためには計四つのブロックを退路を確保しつつ進入していかなければならない。
そして一つ目のブロックを攻略した後は四十分以内に残り三つのブロックを突破し、目的の作業を全てを終わらせて仮想都市ネットワークから出なければならないのだ。
ここから先は時間との勝負になる。
総司は一度重光の方へ視線を向け、彼が無言で頷くのを確認した。それに総司も頷きを返し、躊躇いなく一気に一つ目のブロックを突破した。同時にカウントダウンが開始され、残り時間が表示される。
仮想都市ネットワークからのログアウトにかかる時間を考えると、実質的な作業時間は三十五分程度しかない。
総司は慎重かつ大胆にセキュリティを突破して行く。外部からではそのあまりに強固なプロテクトに散々と手を焼いたものだが、やはり情報秘匿の安全性に裏打ちされた仮想都市ネットワーク内のセキュリティは外に比べると必要最低限の性能しかない。
不正ツールの持込が出来ないという前提の下ではこれでも十分過ぎるが、今の総司のようにすり抜けて持ち込めている場合はプロテクトというには脆過ぎる。
――この調子なら十分行けますね。
なにぶん世界的に初めての行為である。事前の下調べも出来ていない状態だが、そこはそれまでに培った経験と、重光という強力なサポーターの存在でどうにか切り抜けて行く。
二つ目のブロックを九分で突破。このエリアには巡回プログラムが走っていなかったが、広さがあるために退路を確保しつつの攻略にやや時間がかかってしまった。しかし特に問題はない。
三つ目のブロックは巡回をやり過ごしたためにやや時間をロスして十二分。周期計算から弾き出された次の巡回までは約十五分だ。退路を設置しなければならない事を考えると、残り時間に関係なくこの十五分後には確実に総司の侵入が相手に発覚する。
次のブロックの巡回との兼ね合いが全てを決定してしまうだろう。
――完全に運任せになってきましたね。けど、これも悪くはない。
奥へ奥へと進みながら、総司は久々に胸が高鳴る感覚を味わっていた。ぎりぎりの綱渡りが生み出す緊張感。それが最高にたまらない。
最後のブロックへ七分で到達。天が総司に味方してくれたのか、その時はちょうど巡回が過ぎたばかりだったため、残り時間十二分――実質八分の段階で総司は目的の第七ブロックへ到達した。
――よし。
ここまで来てしまえば後はもうあとはひたすらに目的の物を探して持ち出すだけである。退路は確保しているので持ち出しには一秒もかからない。
ここで動いて勘付かれたとしても、相手にとってはもう後の祭りだ。
「重光さん。自壊プログラムの発動を五分後にセットしてください。ちょっと暴れますから確実に勘付かれると思います。都市からのログアウトはいつでも出来るようにしておいて下さい」
「おう」
要請通りに重光が作業を開始したのを確認すると、総司は第七ブロックの一斉捜査をかけ、目的の情報を検索し始める。
当然にしてすぐにアラートが鳴り始めるが、その警告を無視して走査を続け、
「あった!」
目的物である圧縮データを発見。即座に確保しつつ設置していた退路を自壊させながらデータを保持したプログラムを自分の手元に呼び戻す事に成功していた。
「手に入れました。ログアウトを!」
「よし」
重光に促すと同時に総司も仮想都市ネットワークとの接続を切り、視界が一瞬にして暗転。気絶するように意識が遠のいていった。
◇
バーチャルリアリティ機器の中で目を覚まし、総司は機器に差し込んでいた大容量記憶装置を取り外しながら外に出る。
逃げる際に自分と重光の痕跡を消したとはいえ、しばらくは仮想都市ネットワークに関わる事は出来ないだろう。とはいえ、すでに目的のものを手中に収めた以上は仮想都市ネットワークに関わる必要はないのだが。
――さしあたってあちらも大丈夫かどうか確認してみますか。
総司は自分のデスクに赴き、記憶装置をパソコンに差し込みながら音声チャットを起動。事前に聞いていた相手方へコンタクトを試みる。すると――
『おう。こっちは何とか大丈夫みたいだ。そっちはどうなんだ』
すぐに応答があった。どうやらあちらも問題なく戻ってこれたらしい。総司はその事にやや安堵しつつ、
「こちらも大丈夫ですよ。それと、データは複製してお渡しした方がよろしいですか?」
一応そう尋ねてみた。データさえあれば重光でも多少の調べは出来るだろうと思ってのものだったのだが、
『いいや。それは俺が持ってても仕方がねえもんだ。近場の事に関しては協力出来るだろうが、基本的にはお前に任せるぜ』
彼は即答でその申し出を断った。総司としてもそれは予想の範囲内だったので特には驚かない。
「そうですか。それでは、何か分かり次第すぐに報告します」
『ああ。俺はちょっとあいつらの様子を見てくる。十七時頃にはこっちに戻って来てるだろうから、そのとき意一度連絡をくれ』
「分かりました」
チャットを終了し、総司はすぐさま記憶装置に納まったデータを閲覧する事にした。
今回手に入れたデータ。それは百人分の個人データだ。住所氏名年齢、CMOでの使用キャラクターの情報。ログイン・アウト履歴。発言ログ。その他諸々の個人情報の塊である。
これはAA社の第七ブロック――すなわち今回の件の首謀者が潜んでいるエリアに個別で隔離されていたもの。それの意味するところは明らかだった。
「賞金首百人の個人データ。これがあれば誰がどこの病院に収容されているのかが分かるはずですからね」
一人呟いて、総司はまず手に入れた個人データを各地域ごとに分別する。リスト通りに精査していたのでは時間がかかり過ぎるため、まずはやり易いようにセッティングしなければならないからだ。
大まかに都道府県別に分け、さらに住所から収容される可能性の高いであろう病院ごとに分別する。
そうしてすっかり分別し終わったとき、総司はある事に気がついた。
「……ん? 足りない……?」
新規に組みなおしたリストに表示される総計人数。そこには九十九人という数値が表示されていた。百人には一人足りない。
――分別し損ねたか?
そんな事はないと思いつつも総司は元データの方で人数を確認して、やはりそこには九十九人分の情報しかない事に気が付く。
すわ取りこぼしたかと思うが、一まとめの圧縮ファイルで保管されていた情報から一人分だけ欠落するというのもおかしな話である。また、解凍の際にファイルの破損警告はなされていない。
つまりは、このデータはもともと九十九人分しかなく、最後の一人がここには含まれていなかったという可能性が高い。
――その一人だけまた別の場所に隔離されていたと……?
普通に考えてそんな事をする意味がない。もし個別にするのであれば百人全てを個別にしなければ道理に合わないからだ。百人のうち一人だけが個別になっているという事は、その一人が残りの九十九人とは何か異なる意味を持っていると考えるべきだろう。
――誰だ? 誰が足りない。
総司はCMOの掲示板を開き、過去のスレッドから賞金首全員の名前が書き込まれているものを探す。程なくしてその名前全てを己のプログラムに落とし込み、入手してきたデータとの比較検出を行った。
しかしその結果としてエラーが返されてしまい、データと掲示板から引っ張ったキャラクター名との比較検出が失敗に終わってしまう。
――全件対応なし……? 何でそんな事が――文字化け?
ツールの結果に首をひねりながらも原因を探していた総司は、AA社から持ってきたデータの中でCMOのキャラクター情報が全て文字化けしているのを発見した。他の部分はなんともないというのに、その部分だけがはかったかのようにまったく判別出来なくなっているのだ。
――ふむ。
このままではどうしようもないと総司は自作の文字化け解消ツールで全データの補正をかけるが、半ば予想通りにまったく効果がなかった。依然としてキャラクターデータだけがまったく意味不明な状態になっており、この状態では欠けている一名が誰なのかまったく分からない。
総司はしばし考えて、結局そのアプローチからの解決をあきらめた。時間はかかるが、個人データを洗っていけばどこかしら別口でキャラクター情報は入手出来る。
重光から聞かされているタイムリミットまではあと四日。それだけの時間があれば九十九人を洗い切る事は出来るだろう。
「よし」
総司は椅子から立ち上がり、軽く体を伸ばしながら事務所内を移動する。途中でコーヒーメーカーにカップをセットしてボタンをおしておき、その足で事務所の出入り口へ向かう。扉を開けて表に『Close』の札を下げ、扉を閉めて鍵をかける。これで邪魔者はやってこない。
デスクへ戻る途中で先ほどセットしたカップを取り、黒い液体の香りを吸い込みながら席に戻った。
「さてさて。それでは地味で大変な作業に移るとしますか」
余分なウィンドウを全て閉じ、必要な個人情報だけを残しつつ、総司はネットの海へと飛び込んでいった。