7.宣戦布告 嘲笑う銃兵
何か物事が起きる時は大抵の場合が突然である。そんな予期せぬ事態が起きたのはBBの外部エリアを訪れた翌日。鳳牙の発案で『世界の境界』踏破に関する議論を行っていた最中の事だった。
◇
「失礼いたします。お客様が一名お見えになっておりますが、いかがいたしましょうか?」
朝食を取った後でそのままあーでもないこーでもないと言葉を飛び交わせていた食堂兼会議室に、ハルナの凛とした声が響いた。特段大きな声を出したわけでもないのに、騒がしい室内にあってもその声はよく通る。
「お客さん?」
ハルナの声が聞こえた事でピタリと全員が押し黙る中、鳳牙が首を傾げながら問い返した。
彼女が固有名詞を述べなかった事が気になったのだ。そもそも中心街の外れにあるこのギルドホームを尋ねて来る者など、基本的には知り合い以外にいない。そして知り合いであるのならハルナはその人物の名前を述べるはずだからだ。
しかし彼女は客だと言った。それはつまり、初めてここを訪れる人物が来ているという事だ。
「lib。その方は皆様全員との対面を要求しております。いかがなさいますか?」
事務的なハルナの通達。直感的にだが、鳳牙はその客という相手にきな臭さを感じ取った。と同時に、その相手に会わなければならないと本能が告げている事を認識する。
「ハルナ。その客って誰?」
「lib。ただいまのお客様は『宴』のギルドマスター。『天崩』のどんどら様です」
さらりと述べられた名称に、室内の空気が一気に張り詰めた。それは決して忘れる事の出来ない名前。いずれ何らかの形で相対する事になると考えていた相手だ。
――そういう事か。
鳳牙は自分が感じたきな臭さと、それと相反するかのように会わなければならないという内からの訴えの意味を知る。
出来る事なら関わり合いになりたくはない相手ではあるが、今後必ず関わり合いにならざるを得ないであろう相手だ。それならば早い段階で接触を試みておくべきだろう。
「俺は行きますけど、みんなはどうしますか?」
早々に決断した鳳牙は席を立ち、仲間に問いかける。
するとフェルドはアルタイルと、小燕はステラと一度目を見合わせ、
「行くよ」
「行くで御座る」
「行く」
「行くばい」
全員が同時に席を立った。
「lib。それではこちらへ」
全員の意思を確認したハルナが、優雅な動作で踵を返し、一度肩越しに鳳牙たちの方へ視線を向けてから先導するように歩き始めた。
鳳牙はその後を追い、仲間たちも続く。
「入場の許可を保留にしましたので、どんどら様は外でお待ちになっています」
玄関ホールへやって来た鳳牙たちへ振り返り、ハルナがすっとお辞儀をした。そうして閉じられた扉に手を当て、ゆっくりと開いて行く。
縦に分かれた扉の隙間から外の景色が見え、そこに悠然と佇みながら右手でテンガロンハットを抑えて表情を隠したどんどらの姿を発見する。
鳳牙たちは黙ってギルドホームの外へ出ると、微動だにしないどんどらの前に揃って並び立った。しばしの間鳳牙たちとどんどらの間に重苦しい沈黙が漂っていたが、
「やあ。久しぶりだね。あの時以来かな?」
ついと表情を隠していた帽子をずらし、真紅の瞳を晒しつつ口元に笑みを浮かべたどんどらが旧知の間柄であるように話しかけてきた。
――また上っ面の演技か。
人懐こそうなどんどらの仮面。裏の顔を知るものでなければ簡単に騙されるであろう社交性を備えた作り物の顔。
傍から見ればそれはただの談笑、立ち話にしか見えないだろう。だが、相手を正面から見てみればそれが間違いである事は一目瞭然だ。
馴れ馴れしい口調に涼やかな笑み。その中にあってまるで笑っていない目。それは獲物を見定めるような狩人の目だ。鳳牙の身体は自然と警戒態勢に入り、耳と尻尾がピンと張っている。
「……おいおい。ずいぶんと怖い顔をしているな。安心しなよ。俺は何もしない。少なくとも今この場ではね」
強くなる笑みによって、どんどらの口元から白い歯が覗く。それは威嚇のようであり、挑発のようでもあった。
――何を企んでいる?
鳳牙は相手の行動の意味を図りかねていた。と同時に、その得体の知れないまでの余裕さが無性に心を揺さぶる。
いかに異端者の最果て内での戦闘行為を禁じられているとはいえ、相手はギルドシステムを利用した処刑方法を探り当てた人物である。他にも鳳牙たちの知らない事を知っていても不思議ではない。
何もしないなどという言葉を信用する事など出来ない。最悪この場で何かを仕掛けられる可能性だってあるのだ。
鳳牙がそんな警戒を抱きつつも出方を伺っていると、
「今日はさ、まあちょっとした――」
「っ!」
何気ない動作でどんどらの左手が抜き放って向けてきた銃口に全身の毛を逆立たせた鳳牙は、反射的に前に飛び出しつつ伸ばした手を相手の銃口に覆い被せ、そのまま強引に空へ向けさせた。
すべては二秒足らずの出来事。しかし、青空の広がる朝の光景に銃声は響かなかった。ただ――
「くっくくく……」
その代わりとでも言うように必死にこらえつつも漏れてしまった笑い声が鳳牙の耳に届いた。笑い声の主は鳳牙と手を合わせるような形で強制的に挙手させられているどんどらだ。
右手で帽子を押さえて口元以外を隠したまま、その晒した口元を大きく吊り上げている。
その様子からからかわれたと気が付いた鳳牙は銃口を掴んでいた右手を放し、痛烈な舌打ちをしつつもゆっくりと後退して最初の位置へ戻った。
「いい反応だ。縮地なしの純粋な反射のみでこの速度は驚嘆に値する。何か修行でもしたのかい?」
再び帽子をずらして晒された紅の瞳が愉快そうに笑っている。
鳳牙にしてればほめられたところで何一つ嬉しくない。だいたいからして相手の銃を抜き放つ動作と速度の方が異常だ。鳳牙たち五人が神経を集中させて挙動を見張る中、誰一人として銃を抜かれるまで銃を抜く行為を認識出来ていなかった。
それでも鳳牙が反応出来たのは、毎夜アルタイルとともに組み手をやっている成果である。
「……まあいいや。お遊びはここまでにしておこう」
左手の拳銃をさっと腰のホルスターに戻したどんどらが、再びピンとテンガロンハットの帽子を右手の指で弾いた。
そして今度はその手に何も握らずに指鉄砲を形作り、
「今日俺がここへ来たのは、まあ宣言というか宣戦布告みたいなものかな」
バンと撃つ仕草を交えながらそんな事を言ってきた。
「宣戦布告?」
どんどらの言葉に鳳牙は怪訝な顔で応じる。言葉の意味事態は分かるのだが、何をもって宣戦布告なのかが分からなかったせいだ。
そんな鳳牙の表情をどう受け取ったのかは不明だが、
「そうだ。こんな事になってからもう二ヵ月が過ぎた。そろそろ俺たちも本気でイベントクリアを目指す時期だと思っている」
仰々しい動作でどんどらが大きく左右に手を開く。口元の笑みは消えていない。
「俺は明日から『世界の境界』の踏破に挑む。そのために必要なものも揃えた。おそらくは今出来る最大級の準備は整えたはずだよ」
――なんだこいつ……
鳳牙はどんどらの態度に内心で首を傾げた。
相手の身体から滲み出るもの。それは自信だ。揺るぎようの無い程の絶対的な自信。それがどんどらの得体の知れない余裕を生み出している。
「このイベントって賞金首の誰がクリアしてもいいんだとは思うけれど、一応他にもクリアを目指している人がいたらあれかと思ってね。こうして方々のギルドを回っている。ちなみにここが最後だ。なにせここが一番遠いところにあるもんでね」
ピンと再びどんどらがテンガロンハットのつばを指で弾いた。
彼の言う事が本当であれば、確かにこれは宣戦布告だと鳳牙は思った。よりにもよって『宴』のマスターがそのような行動に出た以上、他のギルドも動かざるを得ない状況へ追い込まれてしまうからだ。
なぜなら賞金首たちは世界の境界と超越者の塔をクリアした際の報酬に関してごく断片的な内容しか知らされていない。ハルナたちサポートメイドもその部分に関してはミコトから明確な言及を避けるような通達を受けている事を確認済みだ。
しかし確実な事として二つのエリアにはクリアボーナスが存在するのである。それが何であるにせよ、他人に取られるくらいならば自分で取りに行くのが当然というものだ。
そしてそのクリアボーナスを最も手にして欲しくない人物であるどんどらがこうして動き出してしまった以上、もはや様子見も日和見も出来はしない。
おそらく先に挨拶を済ませたという他のギルドの面々は早々に動き始めている事だろう。
――明日からって事は、大方のギルドは今日から潜るだろうな。
どんどらの言葉がどこまで真実なのかは分からないが、少なくとも宣言上は明日から動くという事であれば今日の内に先んじようと考える者が大半のはずだ。
どんどらの傘下に収まらなかったギルドは妨害を受けながらも精力的に撃退マーク稼ぎを行っていて、それぞれに強力な武具をマークの交換で手に入れているはずだ。
それは最近になって掲示板に討伐した賞金首から妙な武具を拾ったという類の書き込みが散見するようになっている事からも伺える。『秘密の花園』の面々にしてもハヤブサを筆頭に複数名の装備は整っているという話だ。
――こいつもそれを揃えきったって事だよな。
鳳牙は泰然としたどんどらの姿をつぶさに観察するが、現状ではあの処刑の日と装備品が変わった様子はない。だが、鳳牙たちも着替え袋に神呪印装備を隠し持っているようにどんどらも普段は見せびらかすような真似をしていない可能性が高い。
銃兵の強化装備がどのようなものかは未知数だが、これだけの自信を見せるからには確実に世界の境界を攻略出来る算段が立っているのだろう。
その意味ではようやく今日から完全攻略の議論を開始した鳳牙たちは恐ろしいまでのハンデを負う羽目になっている。
「まあそういうわけだから。もし君らも攻略を考えているのなら早めの行動をお勧めするよ。何せあそこは無数のフィールドから計三十のフィールドをランダムに攻略しなければならない長期戦必至のエリアだからね」
「え……?」
ごく普通に、何の溜めも無く続けられた言葉の内容に、鳳牙は思わず声を漏らした。それは周りの中間たちにしても同じようで、一様にやや驚いた表情を作っている。
そんな鳳牙たちの様子に気が付いたであろうどんどらもまた眉を跳ね上げ、
「あれ? なんだ知らなかった?」
逆に驚いているようだった。それはまるでこの程度の常識すら知らないとは思わなかったとでも言うような感じだが、彼はすぐににやついた表情に戻ると、
「ああそっか。君らって有名どころだけど少数精鋭型のギルドだもんね。その一点に関しては他と同じだったっけ」
なにやら自分の中で整理と納得を済ませたかと思うと、
「ふむ。まあせっかくだからちょっと教えてあげるよ」
仕方がないなとでも言うような口調と態度でとある説明をし始めた。
「『世界の境界』は今言った通り無数のフィールドを計三十回トランスポーターで奥へ進みきれば攻略した事になるエリアなんだ。ちなみに六フィールド毎に中ボスフィールドを突破する必要がある。つまりは二十五の通常フィールドと五回の中ボスフィールドの攻略がクリア条件ってわけ」
それぞれ途中で両手を使って三十、二十五、五という数を示しながらの説明は、まるで小さな子供を相手にしているような印象を受ける。その事をやや腹立たしく思った鳳牙だが、内容が内容のために一先ずは自分を抑えて相手の話に集中する事にした。
「それとあの場所って神界門みたいなパーティー毎に個別のフィールドが用意されてるわけじゃないから、上手く選択すれば最大一フィールドおきに別のパーティーと同じフィールドを選択し続ける事も出来る。お勧めは偶数フィールドを別パーティーと共同攻略していく方法かな。これだと全ての中ボスフィールドに二倍の戦力で挑む事が出来るからね」
続く説明に関してはフェルドが似たような考えを持っていたものだった。別働パーティーと途中合流出来るという事は、何らかの法則を見出せれば狙ったタイミングでそれを起こせるというものだ。
「どういう条件でそれが出来るかは紙にでも書き出してみればすぐに分かるよ。ヒントは最初のフィールドにあるトランスポーター。これは隣り合うものの移動先もまた隣り合うものなんだって事を理解すればすぐに分かるよ」
「……ああ、そうか。つまりは始点を定めた後はピラミッド型のルート選択を考えればいいって事か」
どんどらの説明を受けて、不意にフェルドが口を挟んだ。どうやら紙に書き出すまでもなく今の話で仕組みを理解したらしい。
「ご明察。ちなみに横列に関してはループしてるから端っこっていう概念は無いよ」
「なるほど。それで――」
ふむふむと頷いていたフェルドだったが、突然眼鏡のブリッジに指を当てたかと思うとすっとその位置を調節しつつ、
「――何で君はそれを僕らに教えてくれるんだい? 何か目的でもあるのかな?」
鋭い目つきでどんどらに問いを投げた。黄玉の瞳と真紅の瞳が火花を散らすがごとく互いに視線をぶつけ合うが、
「別に? ただ単に情報提供してるだけさ。俺のギルドは人だけは多いからね。短時間で多くの試行錯誤が出来たってだけだよ」
視線合戦は帽子をずらして目を隠したどんどらの行為によって終了する。
しかし彼はフェルドの視線から逃げたわけではない。消えない口元の笑みからして、おそらくは単に面倒になっただけだろう。
どんどらは帽子で表情を隠したまま、
「いいじゃないか。信じる信じないはそっちの勝手だよ。俺は俺の知りえた情報を善意で提供しているだけに過ぎない。これは仕組みを知らない他のギルドにも話したよ。『聖帝十字軍』の連中はクリア条件フィールド数以外の部分は薄々気が付いてたみたいだったかな。ほら、あそこも三パーティーくらいの人員はあるし」
そんな事を言ってくる。
先ほどちらりと鳳牙たちが他と同じだといったのはそういう事実を踏まえての発言だったようだ。
「情報に格差を持たせたままってのもいいけど、せっかくならフェアな競争の方が面白いと思ってね」
実に爽やかな物言い。これが音声だけなら眼前のガンマンスタイルの彼は立派な好青年のようにも見るだろう。しかしより大きく吊り上げられた口元から覗く白い歯は、獰猛なる野獣の牙を想像させた。
――ここまでくるといっそ天晴れだな。
相手の本性を知っている身からすれば、それでも偽りの自分を演じ続ける姿にあきれと滑稽を通り越して賞賛が湧いて来る。化けの皮とはよく言ったものだと鳳牙は無駄に感心してしまった。
「まあそういうわけだから。攻略に挑むのなら情報の足しにしてくれ。俺からの話はこれだけだ。出来れば明日、最後のフィールドで君らに会える事を祈っているよ。それじゃあね」
最後にそれだけ言って、どんどらはさっさと踵を返して鳳牙たちの前から去って行った。来る時もいきなりなら帰る時もいきなりである。
「……どう思います? 今の」
「嘘、にしては手が込み過ぎてる気がするかな。ただの嘘でこんな労力を払おうとする性格とは思えないし」
「されど自らが動いているという事にはそれなりの意味があるはずに御座るよ」
「うーん。よく分からないけど、なーんかまだ隠してる気がするよ」
「うん。なんか意図的にこっちに伝えとらんものがある気がするばい」
鳳牙の問いに、それぞれが懐疑的な答えを返してきた。それらは概ね全員が共有しているものだろう。
――それに、何で最後にあんな事を言ったんだ?
どんどらの最後の言葉。鳳牙はそれに引っ掛かりを覚えた。今までされた説明の中で、それだけがやけに浮く。
――あいつはどこまで知っている?
今となってはもう確かめる事は出来ない。おそらくこちらから訪ねに行ったところでどんどらは会ってはくれないだろう。正直な話、会えたところで答えを得られるとは思えないとも鳳牙は考えていた。
わざわざ自分でこんな話をして回る理由。考えられるものとすれば――
「賞金首たちを『世界の境界』に挑ませたい……?」
「え?」
「あ……いえ、今なんとなくなんですけど、どんどらは自分たち以外の賞金首にも『世界の境界』へ挑んでもらいたい理由があるんじゃないかなって思って」
どんどらの行為は宣戦布告であり、同時に明らかな焚き付けだ。明日という明確な期限を区切って相手に決断を迫り、それでいて重要な情報を惜しげもなく晒す事で挑戦させる方向へ意識を煽る。
なおかつそれを彼自身が行う事で信憑性にも一切の疑いを挟む余地をなくすのだ。今の異端者の最果てにおいてどんどら以上に影響力を有する賞金首は存在しないのだから。
「……確かに、そういう考え方は出来るね」
「でもでも、なんでそんな事するの? 協力しないなら競争相手って少ない方がいいよね?」
ふむと顎に手を当てるフェルドに対し、小燕が小首を傾げて疑問を呈する。
それは鳳牙も感じた疑問だ。わざわざ競争相手、もし偶然にも同じフィールドに居合わせでもしたら妨害さえ受けそうな状況下で敵を増やす事の意味はどこにあるのだろうか。
「もしや、それが意図的に伝えておらぬものでは御座らぬか? 例えばクリア条件が三十のフィールドを突破する事だけではなく、『世界の境界』エリアに規定数以上の賞金首が存在している必要があるのならばいかがで御座ろう」
「ばってん、『宴』はまだ二十人以上おるばい。そこまで人数が必要と?」
アルタイルの意見にステラが指摘を行うが、それにしても残存賞金首の何割以上という条件だった場合にはやはり自分たちだけで足りない可能性も十分にある。
結局のところその場での議論は、詳細は分からないがどんどらが賞金首たちに『世界の境界』へ挑むきっかけを与えている事だけは確実だろうという結果に落ち着いた。
そして鳳牙たちの知りえない何かをどんどらが知っているであろう事もだ。
「まあ、あまり悠長にしている時間はなくなっちゃったわけだね。ともかく今日中に準備を整えて、明日の朝一番から僕らも『世界の境界』へ向かおう」
まとめ役のフェルドが方針の最終決定を下した。今日中に動かないのは昨日の疲れを完全に取っておきたいという考えと、今日中にも動けるように焚き付けたどんどらが最後に明日という部分を念押しした事による。
どんどらの態度からして自分がエリア踏破者になるつもりでいる事は明白だった。それでいて自分自身が明日動くという事であれば、今日の内に踏破者が出る事はないと確信している事になる。
その自信の理由は相変わらず不明だが、そういう事であれば鳳牙たちも今日動く意味はそれほどないだろうというわけだ。
方針を固めた鳳牙たちは、各々準備のためにギルドホームの中へ戻る。すると、
「お話は終わりましたか?」
ずっとそこにいたのか、さすがにドリンクは用意していないものの相変わらずの無表情さでハルナが出迎えてきた。
――あれ? なんでちょっと不安そうなんだ?
いつも通りの無表情に見えて、鳳牙はその中にわずかばかりの焦りというか感情の揺らぎのようなものを感じ取った。ひどく微細なものだが、間違いない。
さてそなんだろうかと鳳牙が内心で首をひねっていると、
「うん。ああそうそう。明日世界の境界へ行くから露店の準備をしてもらえるかな?」
フェルドがハルナへ依頼を行い、
「lib。ご入用の物がございましたら何なりとお申し付け下さい。通常及び撃退マーク交換商品にも新規のアイテムを入荷しましたので、そちらも合わせてご確認下さい」
受けた彼女が露店マークを点灯させた段にはもういつも通りに戻ってしまっていた。
――……まあいいか。
特に気にするでもなく、鳳牙はすぐにその違和感を忘れてしまう。そんな事よりも優先させなければならない事がたくさんあるためだ。
装備品関係はおおよそ整っているとはいえ、回復薬や各種ステータス治療に必要なポット類をはじめ、攻略にかかる時間を考えれば食料や水の手持ちも用意しなければならない。
また、それらを詰め込む持ち物ボックスの整理には入念に時間をかける必要がある。場合によってはコンマ一秒が生死を分ける事すらあるのだ。世界の境界では最悪死んでもホームポイントに戻るだけとはいえ、一人欠ければ攻略は絶望的だ。
フェルドの回復支援とは別に、最低限自分の生命をキープし続けるだけの準備は欠かせない。
「あ、ディスペルポット販売されるんだ」
露店のラインナップを確認していた鳳牙は、『New』の文字がついた商品の中にそれを発見した。
昨日のドラゴンゾンビのようにバッドステータスやステータスダウンを付加してくる相手と戦う場合の備えとして重要なアイテムだが、プレイヤーが製作しない限り手に入れられない代物であるために賞金首になって以降はとんと目にしなくなっていたアイテムである。
「lib。そちらは本日解禁のアイテムです。販売個数に制限はありませんが、やや高額ですのでお気をつけ下さい」
「うん。これは高いな……」
淡々と説明された通り、ポットの値段はいささか手を出し辛い価格である。なにせ通常相場の五倍近い価格だ。鳳牙の自由に出来るお金を全て注ぎ込んだところで十本買えるかどうかだろう。
――でもいくつか持っておきたいよなぁ。
悩んだ末、鳳牙はポットを五本買う事にした。残りのお金でヒールポットとスタミナポットなどを購入する。それでほぼすっからかんであった。
「うーん。普通に生活する分にはあまりお金を使う事がなかったから、ずっと稼ぐ狩りとかしてなかったもんね」
「そうで御座るな。最近は別の事に注力していた故、致し方ないで御座る」
「うええ。ポットとかは揃ったけどほとんどすっからかんだ。おーかーねーがー」
「倉庫の残金が五千ゴールド切っとう。近い内にどうにかせんといかんばい」
小燕は鳳牙と同じくポット類を揃えるだけで事足りるが、魔法触媒の購入が必要なフェルドとステラ。罠玉・投玉の素材になる素材玉などの忍具購入が必須なアルタイルはどうしても経費がかさんでしまう。
日々を生きる上では十分だった資金も、いざまともに準備をしようとすればこの様であった。
「よし。それじゃあ各自持ち物整理なんかの準備時間を設けようか。昼までにアイテムの整理を終わらせておいて、午後はちょっと南に狩りに行こう。せめて三万ゴールドくらいは倉庫に入れておきたいし」
フェルドの提案に全員賛成を示し、それぞれに各自の部屋へ散って行く。
ホールには鳳牙と、露店マークを消したハルナだけが残された。
「……なあハルナ。これって特売日とかそういうイベント発生しないのか?」
「lib。残念ながらそのようなイベントは存在しません。また、メイド露店はポイントカードの導入予定もありません」
「いや、そんな事までは聞いてないんだが……」
真顔で返された内容に鳳牙はどう反応していいものか迷った。すわこの無表情メイド渾身のボケかなにかかと勘繰るが、即座にその考えは否定する。どう見ても突っ込み待ちのようには思えないせいだ。
――前々から思ってたけど、こいつ天然だろ。
生真面目系無表情天然メイド。わけが分からなかった。
鳳牙はこんこんと掌で自分のこめかみを叩くと、
「まあ、普通売ってないものを露店で買おうとすれば値段が高くても当然だよな」
諦め顔で溜息を吐き出した。
わずかばかりとはいえ、貴重なアイテムを仕入れる事が出来た事は大きい。どうせ明日一日で伸るか反るか決まるであろう事だ。鳳牙は一先ずは何とか物的な準備が整っただけでも行幸であると考えておくべきだろうと思う事にした。のだが――
「……商品価格に関しては私の方で要望を上に提出しておきます。それで必ずしも抑えられるというものでもありませんが、やらないよりは意味があるかと思います」
ついとハルナが鳳牙から視線を逸らしたかと思うと、仕方ありませんねとでも言うような顔と態度でそんな事を言ってきた。
「え?」
突然の事に鳳牙が目を瞬かせると、
「ですから露店の販売価格に関しての意見を上げると言ったのです。私たちサポートメイドは賞金首の皆様の意見を逐一報告する義務を負っていますので」
相変わらず顔を逸らしたままにいつものよく通る声で早口にそうまくし立てられる。珍しい反応だった。
「そんな義務ってあったのか? 初耳だぞ」
「ええ。私とてギルドホーム管理メイドとしてひがな一日掃除に洗濯に料理ばかりしているわけではないのです」
改めてちゃんと向き直ってきたハルナが、どうだ参ったかとでも言いそうな雰囲気でやや胸を張る姿が妙に可愛らしく思えた鳳牙は、
「ああ、いつも助かってるよ。ありがとう」
非常にレアな反応を見せてくれた相手に対し、日頃からの感謝の念も込めて礼を述べる。
すると、若干頬を赤く染めたハルナは再びついと鳳牙から顔を逸らし、
「べ、別に貴方にそのような事を言って頂くような事はしていません。当イベントのサポートメイドとして当然の責務を果たしているだけです」
ややつっけんどんな物言いでそんな事を言ってきた。
「たとえそうでも、俺たちがハルナのおかげで快適にギルドホームで暮らしているのは事実なんだ。だから今までまともにお礼を言ってなかった事の方がおかしいんだよ。たぶん昼に集まった時にみんなから改めてお礼を言われると思うけど、素直に受け取っておけよ」
鳳牙がハルナに対してそう忠告を加えると、
「……なぜ他の方からもお礼を言われるような事になるのですか?」
彼女は怪訝な表情で問い返してくる。
鳳牙はそんな表情も出来たのかと感心しつつも、
「そりゃ今から俺がこの話をひろめに行くからだ」
今度は鳳牙の方がふんと胸を張って答える。
「……遠慮させていただきます」
「いやいや。ハルナの反応が面白いから是が非でもひろめに行くぞ俺は」
「結構です。面白くありません」
「そう思うのは当人だけってね」
言いながら鳳牙はくるりと踵を返し、
「じゃ、手始めにフェルドさんのところから――うひゃっ!」
突然全身を駆け巡った何とも言えない感覚に、鳳牙は妙な声を上げてしまった。そうして恐る恐る振り返ると、白い手袋に覆われたほっそりした指が鳳牙の尻尾をわし掴みにしている様が目に飛び込んでくる。
その手の持ち主は無表情チックなふくれっ面で鳳牙の事を睨み付けていた。
「止めて下さい」
「いや、止めてくれってのは俺の――ひうっ!」
きゅっとハルナの手に力が込められるたび、握られた尻尾から力の抜けるような何かが体中を駆け巡る。
本来存在しない器官である獣人の尻尾は、まともに握られると妙な感覚が体中を突き抜けるために鳳牙にとって急所に近い扱いであった。
戦闘中にどこかに触れたりわずかな接触を受けるだけならなんでもないのだが、こうしてむんずと掴まれるとなぜか全身の力が抜けるのである。
「ハル、ハルナ。し、しし尻尾放せ」
「……尻尾?」
鳳牙の言葉にきょとんとなるハルナだったが、自分が掴んでいるふさふさの銀毛を備えたもふもふをじっと眺め、その後でいつも通りの無表情顔に戻ったかと思うと一瞬だけ口元を釣り上げた。
途端、鳳牙の背中を悪寒が走る。何か非常に不味いという警告を本能が発してくるが、現状まともに対処出来る余裕がない。
「……なるほど。解放してもいいのですが、先ほどの件を内密にするという約束をして頂けますか?」
「内密って、ただ単にお礼を言う――くふっ!」
再び尻尾をぎゅっと握られ、ついに鳳牙はペタンとその場にへたり込んでしまった。出来る事なら尻尾を掴む手を振り解きたいところなのだが、この状態になると身体が思うように動かなくもなってしまうためにそれも出来ない
――くそっ、不覚だ!
状況は極めて不利である。不本意ながらここは相手の言う条件を飲む以外に選択肢はない。
「わ、分かった。い、言わない、から尻尾をはな――はうっ!」
言葉の途中で再び尻尾を握られ、鳳牙は最後まで言えずに悲鳴を上げる。
すると、
「申し訳ありません。今なんと仰いましたか? よく聞こえなかったのでもう一度お願いします」
しれっとした顔と声でハルナがそんな事を言ってきた。
「いやだから、誰にも言わ、ないから尻尾はな――ひゅいっ!」
「ええと、すみませんもう一度――」
「ちょま、お前わざとやっ――んんっ!」
「………………楽しい」
「おいこら目的ちが――ひうっ!」
◇
その後しばらくそんなやり取りが続き、ようやく尻尾を解放された時には鳳牙は完全に息も絶え絶え状態になっていた。
対してハルナはどこか満足そうな顔をして、
「先ほどの件、よろしくお願いいたします」
最後にそれだけを言ってどこかへ行ってしまった。
残された鳳牙はホールに敷かれたじゅうたんの上に伸びたまま荒くなった呼吸を徐々に整え、どうにか起き上がれるまでに回復したところで散々握り締められた自分の尻尾を確認する。
――くそ。自分で触る分には平気なんだけどな……
言葉通り妙な弱みを握られてしまった事を後悔しつつ、鳳牙はその場で盛大な溜息を吐き出してから自分に割り当てられている部屋へと向かった。
変なところで時間を使ってしまったが、幸いにして準備に必要な時間はそう多くはない。ちゃっちゃと持ち物の整理を終えた鳳牙は、無駄に消耗した精神的な疲れを癒すために一眠りしようと欠伸を漏らす。
――明日が終わった後も、さっきみたいな馬鹿が出来ればいいんだけどな。
そんな事を考えながら自室のベッドに身を投げる。パリッとした清潔なシーツに包まれたベッドの上で目を閉じると、鳳牙の意識はすぐさま眠りに落ちていった。