想曲・参~岸~
ただ黙って首を横に振り続けると、上から伸ばされた腕に襟首を掴まれる。実力行使に出た相手に、引きずられまいと無我夢中で手足を動かして抵抗した。
川の中から上半身まで持ち上げられた時、唐突に再び水の中に戻された。一旦水中に頭まで浸かり、水面に顔を出す。咄嗟のことで閉じた瞼を上げると、その少年は舟の上に立ったまま、その深緑の双眸でじっとこちらを見据えてきた。
黙ったままの少年に、今ならば想いが通じるのではないかと思って、口を開いた。
「僕は…言わなくちゃ。お兄ちゃんに、言わなくちゃいけないんだ。お兄ちゃんの所為じゃないんだよって。お兄ちゃんは、悪くないんだって」
自分達の暮らす地方は、冬になると深い雪に覆われる。日中になっても氷点下という日など珍しくなく、家の近くにある池には毎年氷が張った。
ずっと、両親に言われていたのだ。池の氷の上では遊んではいけないと。万が一氷が割れて池の中に落ちたら、助からないからと。
だけど、その日はいつもよりずっと冷え込んで。近くで見た限りでは、厚い氷が張っているように見えたから。だから、親の言いつけを破って氷の上で遊んでいたのだ。五つ上の兄は、危ないから止めろって言ったけど、止めにまでは入らなかった。
「お父さんとお母さんの言いつけを守らなかった僕が悪いんだ。お兄ちゃんが悪いんじゃない」
今でもはっきりと思い出すことが出来る。
池の氷の割れる音。一瞬後にこの身を襲った衝撃。池の水の冷たさ。そして、水中の暗闇の恐ろしさを。
「お兄ちゃんは、ずっと自分を責めてる。どうして、あの時無理矢理にでも僕を連れ戻そうとしなかったんだろうって」
子供を失ったショックで、お母さんは怒りを顕わにしてお兄ちゃんに当たった。どうして、弟の面倒をちゃんと見ていなかったの、って。お父さんが止めに入ったけど、子供って、大人が思っている程幼くないんだよ。
お兄ちゃんはわかっちゃったんだ。お父さんも、自分を責めているんだってこと。言葉にしなくても、不思議だよね。そういう事は、目を見ればわかっちゃうんだ。
「僕も恨んでるって、お兄ちゃんは思ってる。でも、それは全然違うんだ」
恨んでなんか、いないよ。だって、知ってるもん。僕が池に落ちた時、自分の危険も顧みずに助けに来てくれたよね。この腕を掴んだ暖かい手を、僕は今でも憶えているよ。
「一言、伝えたいんだ。ありがとうって。それだけ、僕はどうしても伝えたいんだよ!」
沈まないように必死に手足を動かし、叫ぶ。
黒色の小舟の上に立つ少年は、しかし悲痛な叫びを聞いても眉一つ動かさなかった。感情を排した深緑の瞳で、ただ静かにそこにいる死者を見下ろす。
やっぱり駄目かと諦めかけた時、その深緑の双眸がすっと動いた。その視線の先を追い、あれ程遠かった此岸の岸辺がはっきりと見えることに驚く。
まるで彼が行けと言っているように思えて、最後の力を振り絞って岸辺へと向かって泳ぎ始めた。