想曲・弐~望~
「―――その手を放せ。冥府の亡者ども」
上から降ってきた刃のような声音に、閉じていた瞼を薄く開けた。視界に、一隻の舟が映る。使者を彼岸へと渡す茶色の船とは違う、黒色の小舟。
「僕は…助かった…の?」
掠れた呟きに、船の上の人物が顔を向ける。
「――――――ッ!」
見下ろしてきた、氷塊の如き冴え冴えとした輝きを宿した深緑の双眸に、息を呑んだ。
少年の姿をした彼は、死神なのだと、本能で悟る。
逃げなければ。彼に捕まればきっとこの願いは叶わない。
わかっているのに、恐怖で体が動かなかった。
『戯言を抜かすな、冥府の犬め』
『其奴は、我等の領域へと足を踏み入れた』
『まだ生きたいと、切に願うておる。その力は、まるで生者のようじゃ』
水の中から、背筋を凍りつかせるようなおぞましい声が上がる。
「――――ッ!」
先程頭上から響いた声音で一旦退いた手が、再び腕を掴んだ。反射的に背後を顧みて、その先で出会った黒い眼窩に喉が鳴る。
『幼子よ。生を切に望む死人よ。我等ならば、その望みを叶えてやろうぞ』
『其奴に捕まれば、向こうには決して戻れぬ。我等が、お前を向こう岸へと導いてやろう』
鼓膜から滑り込む、甘い囁き。
願いが叶うのならば、どんな方法だって構わない。たとえ相手が亡者であろうと、残してきたあの人にこの想いを届けることが出来るのなら、この魂すら惜しくなかった。
ばしゃん、と。苛立たしげに水面を打った櫂の音が、二つの世界を繋いでいた鎖を断ち切った。
「―――去れ」
たった一言が、絶対的な力となって亡者を水底へと押し戻す。
静けさを取り戻した水面にしばし呆然と浮いていたが、近くでした水音にはっと我に返って頭上を見上げた。
「面倒事は嫌いなんだ。早く乗ってくれる?」
温かみの欠片もないその声音に、しかし首を横に振る。
疲れたような溜め息が上から聞こえた。
「この川をどんなに泳いでも、君の望む場所には辿り着けないよ。狭間の世界を彷徨い続けて、最終的にはさっきのような亡者に成り果てる。此岸に還ることも、生まれ変わることも出来ずに」
永遠にここを彷徨うのは嫌だった。けれど、このまま向こうへ渡ることは出来ない。