想曲・壱~心~
二つを並べられて、どちらが大事かと問われれば。本当ならば、躊躇い無く、そちらを選択したかったけれども。
願われた心が、何処までも純粋で、強いものだと。ずっと傍らにあって、知っていたから。
「他者の為に、自らの想いを切り捨てるか」
何の感情も含まない、平淡な声が事実だけを告げる。視線を上げれば、新緑の緑よりもなお深い色の双眸と目が合った。
暗い紫に満たされた空間を、不快感を与える生暖かい風が吹き抜ける。
二つの世界を分かつ門の上に、彼は同じように腰掛けてきた。何の感情も読み取れない深緑の双眸が、遥か彼方に浮かぶ広大な川を渡す船を見据える。
「…その心が、誰よりも強い事を、知っていますから」
哀しげに笑ってそう応えれば、自らの言葉を鼻で笑われる。隣に視線を遣れば、きっと不愉快そうな横顔に出会うだろう。
「君といい、彼といい…己よりも他者を優先する――僕にはその心がわからない」
軽く肩を竦める彼に、淡い微笑を浮かべる。
「大切だから、ですよ。大切な人だから、幸せになって欲しいと願う」
「それが、自己満足だとしてもか?」
彼は容赦が無い。しかしその辛辣な言葉に嘘はなく、だから何も言えなくなる。
曖昧に笑って頷くと、呆れたような溜め息が聞こえた。
「まったく…。人間という生き物は、本当に愚かだ」
横の気配が立ち上がる。そのまま、瞬き一つのうちに消え失せてしまった。
独り取り残され、門の上から広大な川を見渡す。
対岸を臨めぬ程に広大な川。彼岸と此岸を結ぶ冥府の川から、往来する船が消えた事は一度としてない。魂を乗せて、その船は彼岸へと通ずるこの門を通っていく。
満足と無念。絶望と安堵。諦観と固執。
この紫暗の空間に満ちる、相反する死者の抱く想い。
願っても戻れぬ、冥府の川。
本来なら自分も、命を終えた時点でこの川を渡らなければならなかった。けれど、残してきた人達が気掛かりで、どうしても伝えたい言葉があって。だから、門をくぐる前に、あの船の上から広大な川の中に身を投げたのだ。
必死に手足を動かしても、決して近付かない岸辺。冷たさを感じない川の中から、こちらを引きずり込もうと伸ばされた無数の手。
抗った。川の流れに。永遠の放浪へと引きずり込もうとする数多の手に。『死』という名の、絶対的な運命にさえ。
けれど、やはり自分は無力で。伸ばされた手を振り払う力さえ失い、暗い水底へと堕ちていこうとした、その時。
――その手を放せ。冥府の亡者ども。
凛としたその声は、今でも耳に残って離れることは無く。
昔に想いを馳せるかのように、ゆっくりと瞳を閉じる。
*