空蝉と現身
空蝉。抜け殻。空っぽな、中身のないもの。
そんなろくでもない意味のある単語を苗字に持つというのが、嫌で仕方なかった。現に小中学校の頃は、苗字を散々からかわれたものだし。
さすがに高校生になった今では、からかわれることもほとんどなくなったが。
「あ、空蝉」
下校中、後ろから声が上がり、振り返る。
見ると、クラスの女子が立ち止まってた。
何回か話したことはあるが、呼び捨てにされたことはない。急に何だろう。
訝しながら彼女を見ていると、目が合った。すると僕の心を推し測ったのか、違う違う、と手を振ってきた。
「空蝉くんのことじゃなくて、本物の空蝉。ほら」
彼女が指差したのは、自分の前にある木だった。
近くに行き、彼女の指先を目で追う。
そこには彼女の言う通り、蝉が衣を脱いで、空蝉を創り出しているところだった。
「空蝉なんて、初めて見たよ。綺麗だね」
綺麗? こんな空っぽのものが?
彼女の言葉を受け、空蝉をじっくり観察する。
そう言えば僕も、実物を見るのは始めてだ。空蝉は日の光に透け、きらきら光り、確かに美しかった。
そう伝えると、彼女は嬉しそうに笑い、良かった、と言った。
良かったとは、どういうことだろう。怪訝に思っていると、彼女が口を開く。
「えっと、空蝉くん、自分の苗字があまり好きじゃなそうだったから。呼ばれると、いつも顔をしかめてるし」
……自覚がなかった。なのに彼女は、僕が苗字が好きじゃなさそうだと、気に掛けてくれていたのか。
そう考えていると、それにね、と彼女は続けた。
「多分、苗字が好きじゃないのは、空っぽとか、そういう意味があるからだよね。でも空蝉って、それだけじゃないんだよ」
そう言うと彼女は地面に落ちていた棒を拾い上げ、〝現身〟と書いた。
「空蝉は現身、この世の人ってこと。だから空蝉くんは、空っぽなんかじゃないよ」
そう言うと彼女は僕の手を取り、自分の頬にくっつけた。どきり、と胸が跳ねる。
思わず手を引っ込めようとして、……やめた。
もう少しだけ、彼女の温もりを感じたいと思ってしまったから。
「ね? 空蝉くんは生きてるから。空っぽなんかじゃないから。だから私の存在も、感じ取れるでしょ?」
笑顔を見せてくれた彼女に、僕も笑顔を返す。
「……うん。今はもう、この苗字も……嫌いじゃないよ」
そう言って、彼女の頬から手を放し……代わりに、彼女の手を握りしめた。
彼女はちょっとだけ戸惑ったような顔をしたあと、僕の手を握り返してきた。
そのまま、僕たちは歩き出す。
歩きながら僕は、ふと、振り返る。
そこには羽化を終えた蝉と、光を受け、きらきらと光る空蝉だけが残されていた。




