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第9話:庭の異変とSランクの遭難者

 チュン、チュン。


 小鳥のさえずりで目が覚める。

 電子音のアラームではない。外の森にいる鳥の声だ。

 本来なら、それは不気味な怪鳥の鳴き声に聞こえるはずだが、二重サッシと断熱材が余計なノイズをカットし、心地よい高音だけを寝室に届けてくれる。


「……ん」


 俺は羽毛布団から這い出た。

 室温は快適な二十四度。

 タオルケット一枚で寝ても寒くないし、布団を被っても暑くない。


「……生きている。そして、乾いている」


 俺は両手を開いて閉じて、生存確認をした。

 手のひらがベトつかない。

 毎朝のこの確認作業が、今の俺にとっては何よりの精神安定剤だ。


 俺はリビングへ向かった。

 電気ケトルのスイッチを入れる。ボコボコという沸騰音。

 棚から取り出したのは、ネスカフェ的な瓶入りのインスタントコーヒー。

 そして、冷凍庫から食パン(クラフトで作った、保存料たっぷりの市販品)を取り出し、トースターへ放り込む。


 チン。


 数分後、香ばしい小麦の匂いと、コーヒーのアロマが部屋を満たした。

 外の世界では、パンなんてすぐにカビが生えるから、黒くて硬いビスケットのような保存食しかない。

 こんなふうに、狐色に焼けたふわふわのトーストをかじるなんて、王族でも不可能な贅沢だ。


「いただきます」


 サクッ。

 バター(これも貴重品だ)が溶け出したトーストを口に運ぶ。

 至福。

 俺はコーヒーを啜りながら、優雅な手つきで空中にウィンドウを開いた。


「さて、今日の家のステータスは……」


 【電力供給:安定】

 【結界強度:異常なし】

 【浄化槽:正常稼働】


 完璧だ。

 俺は満足げに頷き、壁掛けの40インチ液晶テレビの電源を入れた。

 映し出されるのはバラエティ番組ではない。

 家の四隅に設置した、ワイヤレス防犯カメラの映像だ。


「東エリア、異常なし。西エリア、異常なし。南エリア……ん?」


 俺の手が止まった。

 コーヒーカップを置く。


 南側のカメラ。

 そこは、俺の敷地を囲む「銀色のフェンス(結界)」と、外の「肉の森」との境界線だ。

 そのギリギリ外側に、何かが転がっている。


「……ゴミか?」


 最初はモンスターの死骸かと思った。

 赤黒い塊だ。

 だが、よく見ると形状が人間に近い。


 俺はリモコンを操作し、カメラをズームさせた。

 4K画質のモニターが、その物体の細部を鮮明に映し出す。


「うわ……」


 俺は顔をしかめた。

 それは、一人の人間だった。

 だが、その姿はあまりにもグロテスクだ。


 全身を、赤黒い甲殻と、脈動する筋肉繊維のようなものが覆っている。

 装備……ではない。あれは「寄生」している。

 鎧の継ぎ目から赤い触手が伸び、着用者の白い肌に食い込んでいるのが見える。


 俺には見覚えがあった。

 かつて冒険者ギルドで見かけたことがある、特徴的な銀髪と、禍々しい深紅の鎧。


「あれは……『鮮血のレナ』か?」


 Sランク冒険者、レナ・ヴァレンシュタイン。

 若くして「剣聖」の称号を持ち、単独でドラゴンすら狩ると言われる人類最強の一角。

 その彼女が、なぜこんなところに?


 俺は元探索者としての知識を総動員して分析する。


(……あれは、装備の暴走オーバーロードだ)


 この世界では、金属製の武器はすぐに腐食してしまう。

 だから高ランクの冒険者は、モンスターの素材を生きたまま加工した「生体装甲バイオ・アーマー」を使用する。

 それは強力な再生能力とパワーを与えるが、リスクも大きい。

 装甲は「仮死状態の生物」だ。

 着用者が弱ったり、魔力が尽きたりすると、装甲は着用者を「主」ではなく「餌」と認識し、逆に取り込もうとする。


 画面の中のレナは、痙攣けいれんしていた。

 鎧がドクンドクンと脈打ち、彼女の体を締め上げ、養分を吸い取っている。

 このまま放置すれば数時間……いや、数十分で、彼女は鎧に完全に食われて「鎧の化けリビングメイル」に成り果てるだろう。


「……」


 俺は眉間にしわを寄せ、腕を組んだ。


 助けるべきか?

 人命救助の観点から言えば、イエスだ。

 彼女はSランクだ。恩を売れば、あとで金銭的な見返りも期待できるかもしれない。


 だが、俺の本音(生理的反応)が叫んでいる。


 『嫌だ』


 即答だった。

 理由はシンプルだ。


 汚いからだ。


 画面越しでもわかる。

 彼女の体は、モンスターの返り血、泥、そして暴走した鎧から溢れ出る粘液でベトベトになっている。

 あんなヘドロの塊のようなものを、この神聖なる「白いフローリング」の上に上げる?


(ありえない。絶対にありえない)


 想像しただけで鳥肌が立つ。

 玄関マットが汚れる。廊下に血が垂れる。

 もし暴れられたら、壁紙に傷がつくかもしれない。


 俺は平和な朝食に戻ろうとした。

 見なかったことにしよう。死体はあとで森のモンスターが片付けてくれるはずだ。


 だが――。


「……まてよ」


 俺はトーストを齧りながら、冷静に計算し直した。


 あそこで彼女が死んだとする。

 死体は腐敗し、強烈な死臭を放つ。

 するとどうなるか?

 死臭に釣られて、ハエやウジ、そして死肉を漁るスカベンジャー型のモンスターが大量に集まってくる。


 家の目の前で、死体パーティ開催だ。

 景観は最悪。

 窓を開ければ腐敗臭。

 害虫が結界の隙間から侵入してくるリスクも跳ね上がる。


「……チッ」


 俺は舌打ちをして、コーヒーカップを置いた。


「死体を処理する方が、生きた人間を洗うより面倒くさいか」


 実に消極的な、しかし合理的な結論。

 俺は重い腰を上げた。

 人助けに行くのではない。「家の前のゴミ掃除」に行くのだ。


 俺は玄関へ向かい、完全防護装備を身に着け始めた。

 厚手のレインコート。ゴム長靴。

 手には医療用のゴム手袋を二重に装着。

 顔にはN95規格の防塵マスクとゴーグル。


 そして、武器の代わりに手に取ったのは――


 「業務用デッキブラシ」と「高圧洗浄機」。

 腰には「除菌用アルコールスプレー」のホルスター。


 鏡を見る。

 そこに映っているのは、英雄でも冒険者でもない。

 ただの重装備な「清掃業者」だ。


「よし。……とりあえず、家に入れる前に『洗浄』だ」


 俺は決意を固め、ドアノブに手をかけた。

 平和な引きこもり生活を守るための、最初の防衛戦が始まろうとしていた。

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