第8話:絶対安全圏の睡眠
窓の外の世界が、赤黒い夕闇に沈んでいく。
生体都市において、夜とは「休息の時間」ではない。「捕食の時間」だ。
「ギチチチ……バキッ、メリメリ……」
不快な音が聞こえてくる。
昼間は大人しくしていた森の木々――骨と血管でできた植物もどきが、活動を開始した音だ。枝を触手のように伸ばし、通りがかる小動物や虫を絡め取って捕食しているのだろう。
遠くからは、何か巨大な獣の咆哮と、断末魔の悲鳴が混ざり合って響いている。
だが、俺は優雅にコーヒー(インスタントだが、お湯が綺麗なので極上の味だ)を啜りながら、その地獄絵図を眺めていた。
「さて、戸締まりの時間だ」
俺は窓辺に立ち、アルミサッシの窓枠に手をかけた。
二重サッシ(ペアガラス)だ。
二枚のガラスの間に乾燥空気を封入し、断熱性と遮音性を極限まで高めた現代の結界。
俺は窓を閉め、中央にある半月状の金具――「クレセント錠」を回した。
カチリ。
小さな、しかし確かな金属音が響いた。
さらに、サッシの下部にある補助錠も押し込む。
パチン。
たったこれだけの儀式。
厚さ数ミリのガラスと、小さな金属片が噛み合っただけ。
ドラゴンの爪や、オーガの棍棒の前では無力に見えるかもしれない。
だが、この家は俺のスキル【無機物保存】によって物理法則ごと固定されている。
この窓ガラスは、核シェルターの防壁よりも強固な「絶対障壁」だ。
「……よし」
鍵をかけたと同時、世界から音が消えた。
フッ、と電源を落としたかのように、外の「死の喧騒」が遮断されたのだ。
森の軋みも、獣の叫びも、風の音さえも。
高気密・高断熱住宅の遮音性能は、伊達ではない。
代わりに聞こえてくるのは、部屋の中の音だけ。
エアコンの送風音。
冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸る「ブーン」という振動音。
俺は目を閉じて、その機械音に耳を澄ませた。
かつては「騒音」として嫌われていたかもしれない生活音が、今の俺にはどんな名曲よりも心地よい子守唄に聞こえる。
それは、文明が稼働している証だからだ。
俺は遮光カーテンを閉めた。
一級遮光。光を99.99%遮断する厚手の布地。
外では、発光する苔や、モンスターの眼光が不気味に明滅しているはずだが、それらも全てシャットアウトする。
部屋に残るのは、俺が管理できるLEDの光と、俺が許した闇だけだ。
◇
夕食(レトルトのカレー。最高だった)を終え、シャワーを浴びた俺は、寝室へと向かった。
六畳の和室風に設えた部屋だ。
まだ畳はないが、フローリングの上に除湿シートを敷き、その上に布団を敷いている。
俺は布団の上に正座し、ふと天井を見上げた。
白いクロスが貼られた、平らな天井。
石膏ボードの裏には、頑丈な梁が通っているはずだ。
俺はじっと、その天井を見つめ続けた。
一分、二分。
瞬きもせずに見つめる。
「……落ちてこない」
当たり前の事実を、噛み締めるように呟く。
外の世界での「睡眠」は、命がけのギャンブルだった。
廃墟のビルの中で眠る時、俺たちは常に天井を警戒しなければならなかった。
なぜなら、都市は生きているからだ。
夜になり、気温が下がると、ビル(胃袋)は収縮を始める。
寝ている間に、天井がゆっくりと垂れ下がってくるのだ。
粘液を垂らしながら、眠る人間を包み込み、窒息させ、消化しようと降りてくる。
だから探索者は、交代で見張りを立てるか、あるいは狭い岩の隙間に体をねじ込んで、「潰されないこと」を祈りながら浅い眠りを貪るしかなかった。
熟睡することは、死を意味した。
目覚めたら顔に酸が垂れていた、なんて悪夢は日常茶飯事だった。
だが、この天井はどうだ。
俺がどれだけ見つめていても、ミリ単位も動かない。
呼吸もしない。
消化液も垂れてこない。
四隅は直角に交わり、強固な構造体として、ただそこにあるだけだ。
「殺意がない……」
この天井は、俺を殺そうとしていない。
ただの「構造物」だ。
その事実が、どんな精神安定剤よりも深く、俺の荒んだ神経を鎮めていく。
俺は枕を手に取った。
ニトリ風の「ホテルスタイル枕」。
頭を乗せると、ゆっくりと沈み込む低反発の感触。
カバーは今日、俺がスキルで生成した新品だ。
鼻を埋めると、太陽の匂いと、清潔な綿の香りがする。
そして、羽毛布団。
軽くて、温かい。
外の寝袋は、常に湿気を含んで重く、カビ臭かった。保温性など皆無で、凍えないために身を寄せ合って震えていた。
それとは次元が違う。雲に包まれているようだ。
俺は枕元のスタンドライトに手を伸ばした。
パチン。
スイッチを切る。
完全な闇。
だが、怖くはない。
二重サッシの鍵は閉まっている。壁は強固だ。
この闇の中に、俺を害するものは何一つ存在しない。
俺は布団の中に潜り込んだ。
シーツのひんやりとした感触が、肌を滑る。
足を伸ばす。
どこにもぶつからない。誰にも遠慮しなくていい。
「……あぁ……」
幸せすぎて、怖いほどだ。
俺は無意識に体を丸め、布団の端をギュッと握りしめた。
泥のような疲労感が、波のように押し寄せてくる。
これまで、俺は「眠って」いなかった。
ただ、疲労の限界で「気絶」していただけだ。
バッテリー切れで落ちるように、意識を失っていただけだ。
でも、今夜は違う。
これは「充電」だ。
明日も生きるために。明日もこの清潔な家で、美味しいご飯を食べるために。
自らの意志で、深い休息へと沈んでいく。
(明日の朝ごはんは、トーストにしよう……)
そんな平和なことを考えながら。
俺の意識は、数年ぶりに訪れた「安眠」の底へと、急速に落ちていった。
外の世界では、モンスターたちが血で血を洗う殺し合いを繰り広げている。
だが、俺には関係ない。
ここは聖域。絶対安全圏。
静寂なリビングに、俺の寝息だけが穏やかに響いていた。




