第7話:シャワー、あるいは聖なる儀式
満腹感に包まれたあと、俺が向かったのは「脱衣所」だった。
そこにある白いドア。
すりガラスがはめ込まれた、アルミ枠の折れ戸。
日本の賃貸アパートならどこにでもある、標準的な「ユニットバス(一坪タイプ)」への入り口だ。
俺は全裸のまま、そのドアの前に立った。
「……ここが、最後の聖域だ」
外の世界において、水場とはすなわち「死地」である。
水がある場所には必ずボウフラが湧き、水棲モンスターが潜み、あるいは水そのものが強力な酸性毒であったりする。
無防備な裸を晒して水を浴びるなど、自殺志願者でもなければやらない。
だが、ここは違う。
俺は折れ戸をガラリと開けた。
目の前に広がるのは、FRP(繊維強化プラスチック)で覆われた、継ぎ目のない空間。
床も、壁も、天井も、すべてが白とアイボリーで統一されている。
窓はない。換気扇の回る静かな音だけが響いている。
「……少し埃っぽいな」
長年放置されていたため、浴槽にはうっすらと埃が積もり、排水溝の周りにはカビの死骸のような黒ずみが見えた。
普通ならスポンジと洗剤でゴシゴシ洗うところだ。
だが、俺は素手で触りたくない。
今の俺は、管理者だ。
「システム起動」
俺は空中にウィンドウを展開し、浴室全体を赤枠で指定した。
【対象:浴室空間】
【コマンド:初期化】
実行。
フォンッ。
青白い光が浴室を走る。
光が通過したあとには、塵一つ残らない。
カビの黒ずみは原子レベルで分解され、曇っていた鏡は新雪のように輝きを取り戻す。
「完璧だ」
掃除すら、指一本動かさなくていい。
これこそが「管理された空間」の特権だ。
俺はピカピカになった洗い場へと足を踏み入れた。
足の裏に伝わる、FRP特有の少しザラついた、しかし温かみのある樹脂の感触。
石や土ではない。工業製品の床だ。
目の前には、サーモスタット付きの混合水栓。
右のハンドルで温度を調整し、左のレバーで湯を出す。
俺は温度設定のメモリを慎重に回した。
「42」。
日本人にとっての黄金比、四十二度だ。
深呼吸をする。
いよいよだ。
俺は震える手で、吐水レバーを「シャワー」側へとひねった。
ボッ。
浴室の外、おそらくベランダあたりから、小さな着火音が聞こえた。
続いて、ゴーッ……という低い燃焼音が響き始める。
給湯器だ。
ガス(もちろんスキルで生成したプロパンガスだ)が燃え、銅配管の中を走る水を急速加熱しているのだ。
その音は、俺にとって「文明の心臓音」のように頼もしく聞こえた。
魔法で沸かすのではない。
科学とインフラが、俺のために湯を沸かしている音だ。
ジャーーーーーッ!
シャワーヘッドから、勢いよく水が噴き出した。
最初は冷たい。配管に残っていた水だ。
俺は手で湯加減を確かめながら待つ。
数秒後、水流の色が変わったように見えた。白い湯気が立ち上り始める。
手にかかる水が、ぬるま湯から、熱いお湯へと変わる。
「来た……!」
俺は洗い場の椅子(これもプラスチック製だ)に腰を下ろし、頭からシャワーを浴びた。
「ぐ、ぅぅぅ……あぁ……」
言葉にならない呻き声が漏れた。
熱い。
そして、圧倒的な水量。
四十二度の熱湯が、頭皮を叩き、首筋を伝い、背中へと流れていく。
その熱が、皮膚の毛穴をこじ開け、こびりついていた「都市の脂」を溶かしていく感覚。
冷え切っていた末端の血管が拡張し、血流が再開する。
ただお湯を浴びているだけなのに、まるで魂が洗濯されているようだ。
俺はしばらくの間、口を開けて呆けていた。
目をつぶれば、ここが地獄の底だなんて信じられない。日本のどこかのビジネスホテルにいるようだ。
「……さて、儀式を始めるか」
俺は目を開け、備え付けのボトルに手を伸ばした。
以前の住人が残していったものだろうか、それとも俺のスキルが「浴室の付属品」として再現したものだろうか。
ポンプ式のボトル。ラベルには「ボディソープ」とある。
ポンプを押す。
手のひらに、透明なとろりとした液体が出る。
鼻を近づける。
「……リンゴ?」
安っぽい、化学合成されたフルーツの香り。
あるいはフローラルの香りか。
高級な天然香料ではない。ドラッグストアで数百円で売っているような、人工的な匂い。
だが、腐臭と鉄錆の臭いに慣れきった俺の鼻には、それが最高級の香水以上に芳しく感じられた。
「いい匂いだ……。嘘偽りのない、清潔な化学の匂いだ」
俺はナイロンタオルにお湯を含ませ、ソープを揉み込んだ。
クシュクシュと音を立てて、真っ白な泡が膨れ上がる。
界面活性剤の力。
親油基が汚れを捕まえ、親水基が水に溶かす。
その単純にして強力な化学反応が、俺の体の上で起こる。
俺はタオルを体に押し当て、力いっぱい擦った。
ゴシゴシ、ゴシゴシ。
剛田に蹴られたわき腹の泥。
森で浴びたモンスターの返り血。
空気中を漂う微細な汚染粒子。
それら全てが、白い泡によって包み込まれ、中和されていく。
俺はそれを「除霊」のように感じた。
この世界が俺に押し付けてきた「穢れ」を、文明の力で祓っているのだ。
泡が灰色に、いや黒く濁っていく。
こんなに汚れていたのか。
今まで「皮膚」だと思っていたものが、実はただの「汚れの層」だったことに気づく。
最後に、シャワーで一気に洗い流す。
ジャーーーッ。
足元の排水溝に、黒く濁った水が渦を巻いて吸い込まれていく。
泡切れの良い、キュッキュッという肌の感触が戻ってくる。
「さようなら、外の世界。もう二度と僕に触れないでくれ」
俺は排水溝を見つめながら呟いた。
黒い水が完全に消え、透明なお湯だけが流れるようになるまで、俺はシャワーを浴び続けた。
◇
風呂上がり。
俺は脱衣所で、バスタオルを手に取った。
これもスキルで新品同様にした、柔軟剤仕上げのフカフカのタオルだ。
体を拭く。
水分が瞬時に吸い取られる快感。
外の世界では、濡れた体を拭く布なんて贅沢品だ。自然乾燥(生乾き)が当たり前で、そのせいで風邪をひいたり、皮膚病になったりする。
だが、このタオルは優しく俺を包み込み、完璧に乾かしてくれる。
髪を拭き、鏡を見る。
そこには、クマこそひどいが、さっぱりとした顔つきの男が映っていた。
目は死んでいるが、肌だけはツヤツヤだ。
「……着替えるか」
俺は脱衣カゴに用意しておいた服を手に取った。
鎧でも、革の服でもない。
どこにでもある、グレーの**「スウェット(ジャージ)」の上下**だ。
素材は綿100%。
袖を通す。
ふわり。
締め付けがない。重さがない。
ゴワゴワした縫い目も、肌に食い込むバックルもない。
ただただ柔らかく、肌に馴染む。
外の世界では、身を守るために常に硬い素材で体を覆っていなければならない。
寝る時でさえ、ナイフを通さない革のベストを着ているのが常識だ。
こんなペラペラの布一枚で過ごすなんて、自殺行為に等しい。
だが、ここは俺の城だ。
外敵はいない。壁は強固で、ドアには鍵がかかっている。
だからこそ、この「防御力ゼロ」の服が着られる。
この無防備さこそが、王の衣装だ。
俺はジャージのズボンの紐をゆるく結び、Tシャツの裾を伸ばした。
リビングに戻る。
冷蔵庫から取り出したミネラルウォーター(500mlペットボトル)を一気飲みする。
冷たい水が、火照った体に染み渡る。
髪からはシャンプーのいい匂いがする。
俺はリビングのソファに深々と沈み込んだ。
背もたれに体重を預け、天井を見上げる。
白い天井。LEDの光。エアコンの静かな風音。
満たされた。
食欲も、衛生欲求も、安全欲求も。
マズローの欲求階層説の底辺が、完璧に埋め尽くされた。
「……決めた」
俺は天井に向かって、独り言のように宣言した。
「僕はもう一歩も、この家の敷地からは出ない」
外には地獄がある。
内には天国がある。
なら、外に出る理由なんて一つもない。
ここで一生、綺麗な水を飲み、柔らかい布団で寝て、この白い壁の中で朽ち果てるのだ。
それは世界に対する、完全な「引きこもり宣言」だった。
俺は目を閉じ、清潔なタオルの感触を楽しみながら、静かに意識を手放そうとした。
今夜はきっと、いい夢が見られるはずだ。




