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第65話(最終話):俺はただ、静かに暮らしたい

 カコーン……。


 乾いた竹の音が、夕暮れの庭に響いた。

 鹿威し(ししおどし)。

 竹筒に水が溜まり、重みで傾いて石を叩く。ただそれだけの装置。

 だが、かつては怪物の咀嚼音と悲鳴しか聞こえなかったこの世界において、これほど贅沢な「音」はない。


「……風流だ」


 俺、柏木カイトは、湯呑を片手にほうっと息を吐いた。

 座っているのは、リビングの奥に増築した「離れ(日本家屋)」の縁側だ。


 足元には、真新しい畳。

 井草の香りが、鼻腔をくすぐる。

 湿度40%、室温24度。完璧に空調管理された和室で、静岡茶(クラフト製)を啜る。

 これこそが、俺がたどり着いた文明の極致だった。


「あー、美味い。やっぱり日本人は茶だよな」


 俺は独りごちて、庭に目を向けた。

 そこには、俺が作り上げた「箱庭」が広がっている。

 かつては泥と肉しかなかった場所に、今は緑の芝生と、飛び石と、色とりどりの花が咲いている。


 そして、そこには「住人たち」がいた。


「主様ーっ! 見てください!」


 エプロン姿のレナが、物干し竿の前で手を振っている。

 彼女の腕には、取り込んだばかりの洗濯物が抱えられている。


「今日のタオルは最高です! お日様の匂いが120%充填されています! 今夜はきっと、泥のように眠れますよ!」

「おー、そりゃいいな」


 俺は手を振り返す。

 その横では、スーツ姿のエリスが走り回っていた。

 彼女は今や、聖域と諸外国を繋ぐ敏腕外交官だ。だが、今は仕事モードではないらしい。


「待ってくださいポチ! それは食べ物じゃありません! アズライト王からの親書です!」

「ワン!」


 愛犬ロボ・ポチが、口に羊皮紙をくわえて逃げ回っている。

 エリスが必死に追いかけるが、Sランクの機動力を持つ犬には敵わない。


「もう! カイト様、ポチを止めてください!」

「元気でいいじゃないか。紙くらいまたクラフトするよ」


 さらにその奥では、アズライトの王女アイリスが、不慣れな手つきで竹箒を握っていた。

 彼女はドレスの裾をまくり上げ、一心不乱に雑草と戦っている。


「こ、これでいいのですか!? 雑草一本残さず抜きましたわ! 私の『掃除スキル』も上がったでしょう!?」

「うん、いい腰つきだ。その調子」


 俺は適当に褒めた。


 賑やかだ。

 あまりにも、騒がしい。

 笑い声。叫び声。犬の鳴き声。

 

 俺は湯呑を置き、少しだけ目を細めた。


「……うるさいな。静かに茶も飲めない」


 口では文句を言いつつ、俺の表情には険がなかった。

 むしろ、水槽の中の熱帯魚を眺めるような、穏やかな満足感があった。

 

 彼女たちは、俺の生活を維持するための「システムの一部」だ。

 レナが洗濯をし、エリスが雑務をこなし、アイリスが庭を整える。

 そのおかげで、俺はこの縁側で茶を啜っていられる。


 遠く、フェンスの外を見る。

 仕事を終えた剛田たち清掃員が、一礼して帰宅していくのが見えた。

 彼らもまた、俺の快適な生活を支える歯車の一つだ。


「……変わったな」


 ふと、昔のことを思い出した。

 第1話のあの日。

 腐肉の森で、泥にまみれ、一人で死のうとしていた自分のことを。


 あの時は、「誰もいない静けさ」が欲しかった。

 他人は敵であり、裏切り者であり、汚れを持ち込むノイズでしかなかった。

 世界中から人が消えればいいとすら思っていた。


 でも、今は違う。


「……ま、悪くないか」


 俺は茶柱が立った湯呑を見つめ、呟いた。


 完全に一人は、メンテナンスが大変だ。

 広い家を掃除し、食事を作り、設備を点検する。それを一人でやるのは、スローライフとは言わない。ただの労働だ。


「僕がゲームに集中している間に、洗濯をしてくれる誰かがいる。……それは、とても合理的なシステムだ」


 俺は「愛」や「絆」という言葉を使いたくない。

 痒くなるからだ。

 あくまで「互恵関係ギブ・アンド・テイク」の成立。

 俺は場所と安全を提供し、彼女たちは労働と癒やしを提供する。


 それが、不器用な俺なりの「幸せ」の定義だった。


 日が沈む。

 空の青が、紫から群青へと変わっていく。

 家の中に、パッ、パッとLEDの明かりが灯り始める。


 ガラッ。


 縁側のガラス戸が開いた。

 レナが顔を出す。


「主様、ご飯ですよ! 今日はリクエスト通り、ハンバーグです!」


 背後からエリスも顔を出す。


「新作の強炭酸水も冷えてます! ポテチ(のり塩)も開けました!」

「わたくしがテーブルを拭きましたのよ! 指紋一つありませんわ!」


 アイリスもドヤ顔で報告してくる。


 ハンバーグの焼ける匂い。

 温かい家庭の灯り。


「……はいはい、今行く」


 俺は立ち上がり、畳の上で大きく伸びをした。

 関節がポキポキと鳴る。

 身体的な疲労はない。精神的なストレスもない。

 ただ、これから始まる「本業」へのやる気が満ちてくるだけだ。


 俺はリビングへ戻った。

 ダイニングテーブルには、湯気を立てるご馳走が並んでいる。

 俺は自分の席――一番上座のソファに座り、そこに放り投げてあったものを手に取った。


 ゲームコントローラー。


 壁掛けの65インチテレビには、タイトル画面が表示されている。

 ガイアのアーカイブから復元した、文明崩壊前の『新作RPG』だ。

 まだ誰もクリアしていない、未知の物語。


「いただきます!」


 ヒロインたちが食事を始める。

 俺は片手でハンバーグをフォークに刺し、もう片方の手でコントローラーを握った。


 窓の外、遥か遠くの街からは、俺を神と崇める祈りの声が聞こえているかもしれない。

 政府が俺の顔色を伺って右往左往しているかもしれない。


 だが、この二重サッシの内側には関係ない。

 ここは俺の城。俺の聖域。

 俺がルールブックであり、俺が主人公の世界だ。


「さて」


 俺は画面を見据えた。

 世界は救った。

 インフラは整えた。

 老後の資金も(また稼げば)なんとかなる。


 邪魔するものは、もう何もない。


「……自分の冒険を始めるとするか」


 俺は親指に力を込め、コントローラーの「START」ボタンを押した。


 ポチッ。


 軽快な電子音が鳴り響く。

 画面の中、勇者が旅立ちのファンファーレと共に歩き出す。

 

 外野はうるさいが、この家の防音性能なら静かに暮らせる。

 俺の「引きこもりスローライフ」は、ハッピーエンドのその先へ続いていくのだ。


 俺はニヤリと笑い、画面の中の世界へと没入していった。


(完)

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