第64話:ヒロインたちの定位置
ズバァァァァッ!!
早朝の聖域に、空気を切り裂く轟音が響き渡った。
俺、柏木カイトが眠い目をこすりながらベランダに出ると、庭ではいつもの光景が繰り広げられていた。
「ハッ! セイッ! ……そこです!」
朝日の中、エプロンドレスを翻して舞っているのはレナだ。
彼女の手には、俺がDIYした特製武器――「カーボン樹脂芯・超高密度竹箒(対戦車仕様)」が握られている。
上空から、一匹の怪鳥が急降下してくる。
生き残っていた「肉化モンスター」の残党だ。
だが、レナは慌てない。
落ち葉を掃く動作の延長で、竹箒を逆手に持ち替え、空へ向かって突き出した。
ドォォォン!
衝撃波。
箒の穂先から放たれた風圧だけで、怪鳥の骨格が粉砕される。
鳥は悲鳴を上げる間もなく絶命し、ボロ雑巾のように落下していく。
「……ふっ」
レナは素早くポケットから「45Lゴミ袋」を取り出し、広げた。
落下地点に先回りし、ナイスキャッチ。
バサッ。カシャカシャ。
熟練の手つきで袋の口を縛る。
「ふぅ。危ないところでした。芝生に血がつくと、染み抜きに重曹を使わなければなりませんから」
彼女は額の汗を拭った。
その顔には「強敵を倒した」という高揚感はない。
「生ゴミの水切りに成功した」という、主婦の達成感だけがある。
俺はベランダから声をかけた。
「おはよう、レナ。すごいな、動きに無駄がない」
「あ! 主様!」
レナがパッと顔を輝かせ、箒を抱きしめて振り返る。
「おはようございます! 今日の朝食は、厚切りベーコンエッグと、焼きたてのクロワッサンです!」
「最高だ。すぐ行く」
彼女にとって、「防衛」と「清掃」と「調理」は同義だ。
俺の生活環境を維持する聖なる務め。
Sランク冒険者の身体能力を、全て家事に全振りした最強のメイド。
俺は満足げに頷き、視線を庭の外――フェンスの向こう側へと移した。
◇
聖域の最外周エリア。
かつて俺が剛田たちを廃棄した、山麓の沼地付近。
そこは今、整備された公衆衛生エリアとなっていた。
プシューッ!
高圧洗浄機の水流が、公衆トイレの外壁を洗っている。
作業をしているのは、お揃いのグレーのつなぎ(作業着)を着た男たちだ。
「おい、そこの目地! まだ黒ずんでるぞ! ブラシ掛けろ!」
「へい、リーダー!」
現場監督のように指示を飛ばしているのは、剛田だ。
かつての彼は、肉化病に蝕まれ、欲望と憎悪に塗れていた。
だが今の彼はどうだ。
カイトから支給された薬で病状は安定し、顔色も良くなっている。
何より、その目には奇妙な「誇り」が宿っていた。
「よし、ピカピカだ。……いい仕事だぜ」
剛田は磨き上げた便器を見て、満足げに頷いた。
彼らは一度、カイトによって楽園を追放された。
だが数日後、カイトから「エリア拡大に伴い、汚い仕事(下水掃除やゴミ処理)をする人手が足りない」という理由で、再雇用されたのだ。
条件は、最低賃金の魔石と、安全な寮、そしてまともな食事の提供。
以前の彼らなら「ふざけるな」と暴れたかもしれない。
だが、「地獄」を知った彼らにとって、それは救いの蜘蛛の糸だった。
「仕事が終われば、風呂に入れる。そして、キンキンに冷えたビールが飲める」
剛田は作業着のポケットから、支給された缶コーヒーを取り出して開けた。
カシュッ。
「……悪くねぇ」
昔は人を殺して奪っていた。明日の命も知れなかった。
今は、便器を磨いて金をもらう。
誰にも恨まれず、誰からも追われず、泥のない布団で眠れる。
剛田は、山頂に輝く白い家を見上げた。
「へへっ……見てろよカイト。いつかお前よりピカピカに掃除して、あの白い城の執事になってやるからな」
かつての「冒険者としての野心」は、「清掃員としてのプロ意識」にすり替わっていた。
恐怖と利益による支配。
カイトの統治は、かつての敵さえも忠実な労働者へと変えていた。
◇
一方、リビングルーム。
俺の目の前には、一人の見知らぬ美少女が座っていた。
豪奢なドレス。金の縦ロール。
西の大国アズライトの第三王女、アイリスだ。
彼女は扇子で口元を隠し、高飛車に言い放った。
「単刀直入に言いますわ。カイト様、私を貴方の『妻』にしてください」
「却下」
俺は即答した。
コーヒーを飲みながら、視線は手元のゲーム画面に向けたままだ。
「なっ……!? 即答ですの!?」
アイリス王女が目を剥く。
彼女は政略結婚の使者として送り込まれてきたのだが、俺にとっては迷惑な訪問販売と同じだ。
「妻とかいらない。僕のプライベートスペースが減るし、枕の位置とか変えられると眠れないんだよ」
「そ、そんな理由で!? 私は王族ですよ!? この国の領土と、莫大な持参金もついてきますのよ!?」
俺が「いらない」と言おうとした、その時だった。
「聞き捨てなりませんね!!」
バンッ!
キッチンのドアが開き、二人の影が飛び込んできた。
レナと、エリスだ。
レナはフライ返しを剣のように構え、エリスはタブレット端末を盾のように持っている。
「どこの馬の骨とも知れない小娘が! 主様の妻ですって!?」
「カイト様の生活リズムを理解していない素人が、パートナーなど片腹痛いですわ!」
二人はアイリスを睨みつけた。
一触即発の空気。
修羅場展開か?
俺は面倒くさくなって、ソファに深く沈み込んだ。
アイリスはひるまず、フンと鼻を鳴らした。
「あら、家政婦と秘書風情が。私は王女ですのよ? 貴女たちとは『格』が違いますわ」
「格だと?」
「ええ。教養、作法、そして……」
アイリスは妖艶な笑みを浮かべ、自身の豊かな胸元を強調した。
「『ベッドの温め方』なら、負けませんわ」
シーン……。
空気が、絶対零度まで凍りついた。
レナとエリスが、顔を見合わせる。
そして、心の底から哀れむような目で、王女を見た。
「……何も分かっていないのですね、この素人さんは」
「ええ。まさかカイト様の前で、そんな地雷を踏み抜くなんて」
「え? な、なんですの?」
アイリスが狼狽える中、俺は溜息をついて身を起こした。
ゲームを置き、彼女を真っ直ぐに見据える。
「あのさ、王女様」
俺は呆れ声で言った。
「僕にとって『妻』っていうのは、一緒に寝てイチャイチャする相手のことじゃないんだよ」
「は? では何ですの?」
「『僕の寝室に入っても、埃を舞い上げないレベルの清潔操作スキルを持つ者』のことだ」
俺の定義に、アイリスがポカンと口を開ける。
「ベッドを温める? バカ言うな。体温で温めたら、湿気が移るだろ」
「へ?」
「人は寝ている間にコップ一杯分の汗をかくんだ。布団がジメジメする。布団乾燥機の方が百倍優秀だ」
俺の潔癖理論に、王女の顔が引きつる。
ロマンスの欠片もない。
「僕の隣に立ちたければ、家柄も、容姿も、夜のテクニックも関係ない」
「必要なのは、ただ一点」
俺はポケットから、白い手袋を取り出した。
検品用の白手袋だ。それを、テーブルに投げる。
「『掃除スキル』だ」
「そ、掃除……?」
「そうだ。僕が許せるレベルまで、部屋を完璧に綺麗にできるか。それが唯一の採用基準だ」
俺は廊下を指差した。
「トライアルだ。あの廊下の突き当たりまで、雑巾がけをしてこい」
「はぁ!? 王族の私に、雑巾がけをしろと!?」
「嫌なら帰れ。タレットの餌食になる前に」
俺が冷たく言い放つと、レナとエリスが前に出た。
二人の目には、メラメラと対抗心が燃え上がっている。
「望むところです! Sランクの身体能力を生かした高速拭き掃除、お見せします!」
「私も負けません! 聖女の浄化魔法を併用した、分子レベルの洗浄術を!」
彼女たちは既に、バケツと雑巾を装備している。
その本気度(ガチ勢のオーラ)に、アイリス王女が気圧される。
「な、なんですの、この家は……! 狂ってますわ!」
だが、彼女もまた王族。負けず嫌いの血が騒いだらしい。
「……やってやろうじゃありませんの!」
アイリスはドレスの裾をまくり上げ、俺が投げた白手袋(と雑巾)を掴み取った。
「王家の教育には、清掃の作法も含まれていますのよ! 見てらっしゃい、一番ピカピカにして、貴方に『参った』と言わせてみせますわ!」
「よーい、ドン」
俺の合図と共に、三人の美少女が一斉に廊下へダッシュした。
キュッ、キュッ、キュッ!
猛烈な勢いで床が磨かれていく。
レナの神速。エリスの魔法。アイリスの意地。
それぞれの技が交錯し、廊下が鏡のように輝き始める。
「……ふぅ」
俺はソファに座り直し、再びゲームのコントローラーを握った。
「これで今日も、家がピカピカになるな」
俺は満足だった。
誰が勝ってもいい。誰が一番でもいい。
結果として、俺の家が綺麗になり、俺が掃除をする手間が省けるなら、それが正義だ。
恋愛感情? 嫉妬? 権力争い?
そんなものも、俺にとっては「家のメンテナンス」のための動力源に過ぎない。
「頑張れー。一番綺麗にしたやつに、おやつのプリンをやるぞー」
適当に声援を送りながら、俺は画面の中のダンジョン攻略に戻った。
外では鳥が鳴き、家の中では美少女たちが床を磨く。
騒がしくも、清潔で完璧な日常。
俺の「マイホーム領主」としての生活は、今日も順調に稼働している。




