第62話:それからの世界(数ヶ月後)
カシャン、という軽い音を立てて、俺はマグカップをソーサーに置いた。
拡張工事を終えたばかりの、広々としたウッドデッキのテラス。
そこで飲む朝のコーヒーは、格別の味がする。
「……うん、いい眺めだ」
俺、柏木カイトは、眼下に広がる風景を見下ろして満足げに頷いた。
数ヶ月前まで、そこは地獄だった。
赤黒い肉の木々が蠢き、地面は消化液の泥沼で、空気は腐臭に満ちていた。
だが、今の景色はどうだ。
真っ直ぐに伸びる、濃いグレーのアスファルト道路。
その両脇に規則正しく並ぶ、白いサイディングのプレハブ住宅群。
少し離れた区画には、二階建ての軽量鉄骨アパートが整然と立ち並んでいる。
街路樹は植えられているが、かつてのように人を捕食しようと枝を伸ばしてくることはない。
俺がシステムを書き換えたおかげで、それらはただの「大人しい植物」として、風に揺れているだけだ。
「随分と『見られる景色』になったな。これなら景観条例違反にならない」
俺の潔癖な美意識によって区画整理された、幾何学的で清潔な街並み。
それが、新生した世界――「聖域都市」の姿だった。
◇
「主様、今月の報告書です」
背後から、秘書官のような口調でレナが現れた。
手にはタブレット端末を持っている。
エプロン姿は相変わらずだが、その表情は歴戦の冒険者ではなく、優秀な実務家のそれだ。
「第3エリアの『養殖ダンジョン』にて、魔石の収穫量が目標値を達成しました。また、ドロップアイテムとして『上質なオーク肉』が大量に確保されています」
「お、いいね。今夜はトンカツにするか」
俺はタブレットを受け取り、グラフを確認した。
右肩上がりの資源回収率。
あの日、俺は世界をリフォームしたが、「肉化現象」を完全に消滅させたわけではない。
なぜなら、モンスターは貴重な資源だからだ。
魔石はエネルギーになるし、素材は建材や薬になる。完全に消してしまっては、文明が維持できない。
だから俺は、世界中にいくつかの「隔離エリア」を残した。
そこを「資源採掘場」として再定義したのだ。
「モンスターは湧くけど、エリア外には出られない設定にしてある。冒険者はそこで狩りをして、経験値とドロップアイテムを稼ぐ」
俺はニヤリと笑った。
「……うん、完全にMMORPGのシステムだね」
人類は安全な居住区で暮らし、仕事としてダンジョンへ出勤し、定時になったら帰ってきて風呂に入る。
かつての「生きるか死ぬかのサバイバル」は終わり、管理された「経済活動」が始まったのだ。
「主様のパッチノート『バージョン2.1』のおかげですね」
レナが感心したように言う。
彼女にとって、俺の行うシステム調整は神の采配そのものらしい。
「まあ、リポップ率(再出現率)の調整が面倒だけどな。湧きすぎると処理落ちするし」
俺はあくまでゲームマスター(GM)的な視点でぼやきつつ、次の議題へと移った。
◇
俺はテラスに設置した高倍率の望遠鏡を覗き込んだ。
レンズの先、山麓の一等地に、真新しい建物が密集しているエリアがある。
プレハブ造りの「国会議事堂」。
重量鉄骨造の「騎士団本部」。
コンテナハウスを連結した「国立魔導研究所」。
「……ほんと、勝手に引っ越してきやがって」
かつての王都は、老朽化とモンスター被害で壊滅状態だった。
そこで政府は、最も安全で、最も文明が進んでいるこの「聖域」の膝元へ、首都機能を丸ごと移転させることを決定したのだ。
ピンポーン。
タイミングよく、インターホンが鳴った。
モニターに映ったのは、軍服をパリッと着こなした初老の男。
かつての傲慢な査察官、ザガンだ。
今の彼は、俺の家の「執事」か「御用聞き」のような顔つきになっている。
『カイト閣下。本日の閣議決定について、ご報告に参りました』
「……通していいよ」
俺がロックを解除すると、ザガンは小走りでテラスまでやってきた。
そして、直立不動で敬礼する。
「閣下! 先日ご提案いただいた『上下水道の配管拡張計画』ですが、議会で満場一致で可決されました! つきましては、予算(魔石)の承認を……」
「はいはい、わかったよ。ハンコ押せばいいんだろ」
俺は電子印鑑をタブレットに押した。
ザガンは「ははーっ!」とひれ伏さんばかりに恐縮する。
「あのさ、ザガン」
俺は呆れながら言った。
「だから僕は民間人だって。政治は君らでやってよ。なんでいちいち僕の決裁を仰ぎに来るんだ」
「無理をおっしゃらないでください」
ザガンは真顔で答えた。
「この国の電力、水道、通信網……すべて閣下の『家』から供給されているのですよ?」
彼は山麓の街を指差した。
アパートの明かりも、工場の動力も、通信端末の電波も。
すべては、俺が管理する「親機(ガイア・コア直結サーバー)」から分配されている。
「閣下の山こそが、世界の心臓部。我々政府は、その血管の一つに過ぎません」
「ライフラインを止められたら、国家は三日で崩壊します。……つまり、閣下がその気になれば、いつでも国を滅ぼせるということです」
ザガンの目は笑っていなかった。
それは恐怖と、絶対的な信頼の裏返しだ。
「この人は絶対にインフラを止めない(自分が困るから)」という信頼。
俺は頭を抱えた。
「ただの大家さんになりたかったのに、いつの間にか国家の『フィクサー』になってる……」
蛇口をひねれば水が出る。スイッチを押せば電気がつく。
そんな当たり前の生活を提供しただけで、俺は王様以上の権力を持ってしまっていた。
◇
ザガンが帰った後、俺のスマホが小さく震えた。
通知音。
【家賃収入のお知らせ】
画面を開く。
【今月の家賃収入(国庫納入分):5000万MP】
【自販機売上:1200万MP】
【銭湯利用料:800万MP】
ずらりと並ぶ数字。
俺の口元が、自然と緩んだ。
「……ククッ。まあ、悪くないか」
俺は「領主」という肩書きは嫌いだ。責任が重いから。
だが、システム上の「管理者」であることは、実に快適だ。
住民たちは、安全な家と温かい風呂のために、必死で働いて魔石を納める。
政府は、インフラを維持するために、俺の機嫌を伺いながら国を運営する。
俺はただ、テラスでコーヒーを飲みながら、その数字が増えていくのを眺めているだけ。
これだけポイントがあれば、次は遊園地でも作ろうか。
いや、映画館を建設して、アーカイブにある映画を上映するのもいいな。
娯楽が増えれば、住民の労働意欲も上がり、さらに税収が増える。
完璧なサイクルだ。
「カイト様ー! 見てください!」
庭から、明るい声が響いた。
見下ろすと、エリスが子供たちを集めて「青空教室」を開いている。
「いいですか皆さん! この袋に入った『ポテトチップス』こそが、聖なる糧なのです! カイト様に感謝して、パリッと音を立てて食べるのが作法です!」
「はーい! パリッ!」
子供たちが幸せそうにスナック菓子を食べている。
……おい、聖女。布教するものが違うぞ。
まあ、平和だからいいか。
その横では、レナが最新式の掃除機(ルンバの上位互換、自律走行型クリーナー)と戦っていた。
「待ちなさい! そこの隅に埃が残っています! 機械任せにはできません!」
彼女は掃除機と競争するように、デッキブラシを振るっている。
平和だ。
あまりにも平和で、忙しい日常。
俺は空になったマグカップを置いた。
「さて、今日も忙しいぞ」
俺は伸びをして、リビングへと戻る。
「溜まったアニメの消化をしなきゃな。あと、新作ゲームのデバッグ作業も」
世界一安全で、世界一重要な場所で、世界一どうでもいいことに時間を使う。
これぞ、俺が勝ち取った「真の勝利」だ。
窓の外では、復興していく都市の音が、心地よいBGMのように響いていた。




