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第61話:目覚めれば、青い空

 浮遊感。

 地底での光の爆発の後、意識がふわりと持ち上げられるような感覚があった。

 それは、ゲームで「リスポーン地点」へと転送される時の感覚に似ていた。


 次に感じたのは、背中に触れる柔らかい感触だった。

 ゴツゴツした岩場ではない。

 ヌルヌルした肉の床でもない。


 ふかふかとした、植物の絨毯。

 そして、まぶたの裏を刺激する、暖かな光。


「……ん……」


 レナはうっすらと目を開けた。

 視界が白い光に満たされている。


(私……死んだの?)


 あれほどのエネルギーの奔流に飲み込まれたのだ。生きていられるはずがない。

 ここは死後の世界か、あるいは走馬灯の中か。


 彼女はゆっくりと体を起こした。

 視界がクリアになるにつれて、見慣れた風景が像を結ぶ。


 白く輝くサイディングの外壁。

 太陽光を反射する銀色のアルミフェンス。

 そして、丁寧に手入れされた緑の芝生。


「……あ」


 レナは息を呑んだ。

 ここは、天国ではない。

 カイトの家――「聖域」の庭だ。


 カイトが緊急時の避難先(リスポーン地点)として設定していた座標に、無事に転送されたのだ。


 横を見る。

 聖女エリスが、芝生の上で丸くなって眠っている。彼女の体からは、もうあのどす黒い瘴気は感じられない。

 そして、少し離れた場所。

 大の字になって倒れている、ジャージ姿の男。

 カイトだ。

 彼の胸は規則正しく上下しており、安らかな寝息を立てている。


「よかった……。みんな、無事……」


 レナの体から力が抜けた。

 助かったのだ。あの地獄のような地下空洞から生還したのだ。


 ふと、風が吹いた。


 フワァ……。


 髪が揺れる。

 レナは身構えた。

 彼女の記憶にある「風」とは、常に腐敗臭と湿気をはらんだ、不快な熱風だったからだ。


 だが、頬を撫でた風は違った。

 涼しい。

 そして、驚くほど「いい匂い」がする。

 土の匂い。草の匂い。そして、遠くから漂ってくる花の香り。


「……え?」


 レナは顔を上げた。

 何気なく、空を見上げる。


 その瞬間。

 彼女の思考が停止した。


「……青、い……?」


 言葉が、口からこぼれ落ちた。


 頭上に広がっていたのは、見たこともない色彩だった。


 彼女が知る空は、常に分厚い雲とスモッグに覆われた「灰色」か、あるいは都市の瘴気が充満した「赤黒い色」だった。

 太陽は濁った光源でしかなく、星など見えた試しがない。

 空とは、世界を閉じ込める圧迫感のある「天井」だった。


 だが、今はどうだ。


 どこまでも高く、どこまでも澄み渡る、宝石のような蒼穹そうきゅう

 スカイブルー。

 

 真っ白な雲が、綿菓子のように浮かび、ゆっくりと流れている。

 太陽の光が、遮るものなく地上に降り注ぎ、世界を鮮やかに照らし出している。


「きれい……」


 レナは涙を流した。

 これが、本当の空の色なのか。

 書物でしか読んだことのない、「青空」という概念が、今、目の前にある。


 それは、カイトが行った「世界リフォーム」の結果だった。

 大気中に充満していた有害なエアロゾルや浮遊微粒子が一掃され、太陽光が正しく大気層を通過し、青い光だけを散乱させる現象――レイリー散乱が復活したのだ。


「うぅ……ん……」


 隣で、エリスが目を覚ました。

 彼女もまた、体を起こし、空を見上げた。

 そして、言葉を失った。


「天国……」


 エリスは、震える手で胸の前で祈りを組んだ。


「私たちは……やはり死んで、天国に召されたのですね……。こんなに美しい空、地上にあるはずがありません……」

「いいえ、エリス」


 レナは涙を拭い、力強く首を振った。


「ここは地上よ。ほら、土の感触があるわ」

「え……?」

「これは、主様が作り変えた、新しい地上の姿よ」


 二人は手を取り合い、その奇跡の光景をただただ見つめ続けた。

 地獄は終わったのだ。

 長い長い、腐敗の時代が終わったのだ。


 ◇


「……うぅ、頭痛ぇ……」


 呻き声と共に、庭の主がのっそりと起き上がった。

 カイトだ。

 彼はこめかみを押さえ、顔をしかめている。


「飲みすぎた次の日みたいだ……。MPマジックポイントの使いすぎか……」


 脳が焼き切れそうなオーバーヒートと、9億ポイントを一瞬で失った虚脱感。

 二日酔いと金欠が同時に襲ってきたような、最悪の目覚めだ。


「今は何時だ……?」


 カイトはポケットからスマホを取り出した。

 電源ボタンを押すが、画面は真っ暗なままだ。


「チッ、バッテリー切れかよ。あの時、充電ケーブル挿したまま作業すればよかった」


 彼は舌打ちをし、スマホをポケットにしまい直した。

 そして、ようやく周囲の様子に気づく。


 泣き崩れているレナとエリス。

 そして、あまりにも眩しい日差し。


「……お」


 カイトは立ち上がり、フェンスに近づいた。

 ここからは、山麓の街や、遠くの旧・東京エリアが見渡せる。


 風景が、一変していた。


 かつてうごめいていた「肉の森」は、静かな緑の樹海に戻っている。

 不気味に脈打っていた血管のようなツタは消え、普通の植物として風に揺れている。


 そして、遠くに見える廃墟群。

 内臓のように赤黒く変色していたビルたちが、今は静かな灰色の「コンクリート」に戻っている。

 動くものはない。

 ただの物質として、そこに在るだけの遺跡。


「よし」


 カイトは安堵の息を吐いた。


「テクスチャの張り替えは成功だ。あの気持ち悪い血管も、ヌルヌルの粘液も消えてる」


 彼はあくまで「グラフィック設定を変更した」くらいの感覚で、世界の激変を受け入れた。

 重要なのは、視界に入る情報が「生理的に不快」か「快適」か、それだけだ。


 彼は大きく伸びをした。

 関節がパキパキと鳴る。


「主様ッ!!」


 背後から、レナが飛びついてきた。

 続いて、エリスも抱きついてくる。


「主様! 世界が……世界が綺麗です! 貴方が直してくださったのですね!」

「カイト様……! 空気が甘いです! もう空気清浄機がなくても、肺が痛くありません!」


 二人はカイトの胸に顔を埋め、泣きじゃくった。

 英雄への感謝。

 神への信仰。

 ありったけの賛辞を並べようとして、彼女たちは言葉を詰まらせた。


 カイトは、やれやれといった顔で、二人の頭をポンポンと撫でた。

 そして、濡れた人差し指を空にかざした。


「……湿度40%。微風。快晴」


 彼は、まるで天気予報士のように淡々と数値を読み上げた。

 そして、ベランダの物干し竿を満足げに見上げた。


「ふぅ。これでやっと」


 世界を救った男の第一声は、あまりにも生活感に溢れていた。


「除湿機なしで、洗濯物が外に干せるな」


「……へ?」


 レナとエリスが、キョトンとして顔を上げた。

 涙が引っ込む。

 そして、力が抜けたように笑い出した。


「ふふっ……あはははっ!」

「もう……カイト様ったら……!」


 世界が生まれ変わったというのに、この人は洗濯物の心配をしている。

 青空の価値を、「よく乾く」という一点で評価している。


 でも、それがカイトだ。

 このブレなさこそが、彼女たちが愛し、信じた「大家さん」の姿だった。


「笑うなよ。大事なことだぞ」


 カイトは心外そうに言った。


「部屋干しだと生乾きの臭いがするし、乾燥機だと電気代がかかる。太陽光殺菌こそが最強の洗濯術なんだ」

「はい、仰る通りです、主様」

「これからは毎日、お布団を干せますね」


 平和な会話。

 つい数時間前まで、世界の終わりを前に絶望していたのが嘘のようだ。


「さて、帰ろう」


 カイトはくるりと背を向け、家の玄関へと歩き出した。


「まずは風呂だ。地底の汚れを落とさないと、家に入れないからな。玄関マットが汚れる」

「はい! お背中流します!」

「私は着替えと、湯上がりのコーラを準備します!」


 ヒロインたちが嬉々としてついていく。


 カイトは歩きながら、もう一度だけ空を見上げた。

 ラピスラズリを溶かしたような、深い青。

 それは、彼が取り戻したかった「当たり前の日常」の色だった。


(ま、悪くないリフォームだったな。金はなくなったけど)


 彼は小さく笑い、ドアノブに手をかけた。

 ガチャリ。

 乾いた金属音が、新しい世界の始まりを告げるように響いた。


「ただいま」


 英雄は武器スマホをポケットにしまい、いつもの「潔癖な家主」に戻って、聖域の中へと消えていった。

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