第60話:最大出力【ワールド・クラフト】
脳内の視界が、赤く染まっていた。
血ではない。
視界を埋め尽くす、無数のエラーウィンドウの警告色だ。
『警告:MP残量低下』
『警告:精神リソース不足』
『警告:処理落ち(ラグ)が発生しています』
思考が泥のように重い。
指先一つ動かすのに、全身の筋肉を引きちぎるような労力がいる。
目の前にある仮想のプログレスバーは、「98%」で凍りついたまま動かない。
「くそっ……! あと少し、なのに……!」
カイトは歯を食いしばった。
ガイアの抵抗が、想定以上に分厚い。
惑星規模のデータを書き換えるには、一個人のCPU(脳)ではスペックが足りなかったのだ。
『無駄ダ』
ガイアの嘲笑が響く。
『個体ノ容量デ、星ノ定義ヲ覆ス事ナド不可能。諦メロ、抗体』
意識がブラックアウトしかける。
鼻から、耳から、目から血が流れる。
限界だ。
ここで意識を手放せば、書き換え途中の世界はバグの塊となって崩壊し、俺たちもろとも消滅するだろう。
(……ここまでか)
膝が折れそうになった、その時だった。
トン。
背中に、温かい感触があった。
柔らかく、しかし力強い重み。
「使ってください、主様!」
レナの声だ。
彼女の手が、カイトの背中にぴったりと押し当てられる。
「私の魔力も、生命力も、全部! 貴方の燃料にしてください!」
続いて、もう一つの小さな手が触れる。
「私もです! 聖女として溜め込んだ魔力、すべて捧げます!」
エリスだ。
彼女たちの体から、奔流のような光が流れ込んでくる。
それは、よくある「愛の奇跡」や「絆の力」といった、あやふやなものではなかった。
カイトの管理者視点には、もっと即物的な現象として映っていた。
『接続確認:外部大容量バッテリー×2』
『エネルギー供給(パススルー充電)を開始します』
カイトの目が、カッと見開かれた。
「……ははっ、助かる」
枯渇しかけていたMPゲージが、爆発的な勢いで回復していく。
Sランク冒険者の膨大な生体エネルギーと、聖女の高純度魔力。
これ以上ない、最高品質の電源だ。
「急速充電、完了だ!」
カイトは体勢を立て直した。
だが、まだ足りない。
システムを動かすための「電力」は確保したが、変更を確定させるための「対価」が必要だ。
地球全土をリフォームする請求書は、天文学的な数字になっている。
東京タワーとの戦いで使い切ったカイトのMPではとてもじゃないが足りそうになかった。
そこで、ガイアからMPを吸収しMPを奪い取った。
カイトは血走った目で、自分の資産管理画面を睨んだ。
【現在保有ポイント:9億8765万MP】
このMPを使い切ったらしばらく極貧生活だろう。
ガレージを増築し、遊園地を作り、一生遊んで暮らすための埋蔵金。
カイトは一瞬だけ、泣きそうな顔をした。
だが、次の瞬間には獰猛な笑みを浮かべていた。
「いいだろう。持ってけドロボー!」
彼は全財産をスロットに突っ込んだ。
【全ポイント放出】
「これで文句ないだろッ!!」
ガコンッ!
仮想空間で、巨大なスイッチが入る音がした。
コストは支払われた。
リソースは満タンだ。
プログレスバーが、「99%」から「100%」を一気に突破する。
『準備完了(Ready)』
カイトの目の前に、光り輝く【決定(Enter)】ボタンが浮かび上がる。
彼は血に濡れた指を振り上げ、叫んだ。
「世界……アップデート、実行!!」
叩き押す。
◇
カッッッッッ…………!!!!
音が消えた。
ガイア・コア(心臓)の中心から、爆発的な「青い光」が噴き出した。
それは物理的な衝撃波ではない。
世界を再構築するための「編集グリッド(ワイヤーフレーム)」の波だ。
青い光の格子が、地下空洞を一瞬で埋め尽くす。
迫りくる肉の触手が、泥の津波が、グリッドに飲み込まれた瞬間に静止し、光の粒子へと分解されていく。
光は止まらない。
天井の岩盤を透過し、地殻を突き抜け、地上の空へと駆け上がる。
『システム音声:世界再定義を開始します』
『対象範囲:地球全土』
◇
――地上。
山麓で震えていたザガンや避難民たちは、信じられない光景を目撃していた。
カイトの住む山の頂上から、青い光の柱が宇宙へ向かって打ち上がったのだ。
光は成層圏で弾け、ドーム状に広がり、地球全体を包み込んでいく。
そして、青いグリッド線が、地表を走った。
ヒュンッ、ヒュンッ!
グリッドが通過した場所から、世界が書き換わっていく。
都市を飲み込んでいた「肉の森」が、光に包まれる。
不気味に脈打っていた血管のようなツタが消え、静かな「樹皮」を持つ普通の木に戻る。
毒々しい赤色は、穏やかな緑色へ。
廃墟と化していたビル群。
壁面が内臓のように蠢いていた建物が、グリッドにスキャンされると同時に、硬質化する。
「静かなコンクリート」へ。
「錆びた鉄骨」へ。
生物としての機能を失い、ただの物質として固定される。
人を飲み込もうとしていたアスファルトの道路が、平らで硬い「道」に戻る。
そして、モンスターたち。
人を襲っていた異形の獣たちが、青い光を浴びて大人しくなった。
殺意に満ちた赤い目が、動物的な瞳に戻る。
彼らから「人間への敵対属性」が削除され、「中立」へと変更されたのだ。
『パッチ適用完了。バージョン2.0へ移行します』
世界から、不快なノイズが消えた。
都市の鼓動音も、悲鳴も、咀嚼音も。
残ったのは、風の音と、鳥の声だけ。
それは、機械の世界への回帰ではない。
カイトが望んだ、**「人間が快適に住めるレベルに難易度調整された、優しい自然界」**へのアップデートだった。
◇
――地下最深部。
光の奔流が収まった。
ガイアのアバターは消滅し、心臓は静かな青い球体となって、安定したリズムで明滅している。
敵対的な赤色は、もうどこにもない。
「……ははっ」
カイトは力なく笑い、膝から崩れ落ちた。
地面に倒れる寸前、レナとエリスが滑り込み、彼を抱き留める。
「主様! しっかりしてください!」
「カイト様……! 終わったのですか……?」
カイトは二人の腕の中で、薄れゆく意識を繋ぎ止めた。
全財産を失った。
体力も空っぽだ。
だが、この静けさはどうだ。
不快な熱気はない。
生ゴミの臭いもしない。
空気清浄機を通したような、澄んだ空気が満ちている。
「……ふぅ」
カイトは満足げに息を吐いた。
世界を救った英雄の、最後の言葉。
それは、勝利の宣言でも、愛の言葉でもなかった。
「これでやっと……枕を高くして……寝れる……」
カイトの目が閉じる。
その顔は、長年の激務を終え、ようやく休暇に入った社畜のように、安らかだった。




