第6話:神の食べ物「カップヌードル(シーフード)」
室温二十四度、湿度五十パーセント。
文明的な空調によって体の芯まで冷やされると、次にやってくるのは猛烈な飢餓感だった。
「……腹減った」
俺の胃袋が、何か固形物をよこせと悲鳴を上げている。
それもそうだ。ここ数日、俺が口にしたものといえば、泥水を濾過しただけの液体と、ゴムのような食感の干し肉だけだったのだから。
俺はキッチンに備え付けられた吊り戸棚を見上げた。
ここは祖父の元別荘だ。もしかしたら、当時の備蓄が残っているかもしれない。
期待と不安を抱きながら、戸棚の扉を開ける。
「……あった」
そこには、埃を被ったいくつかのカップ麺が鎮座していた。
そのパッケージの配色は、日本人なら誰でも知っている「青と白」のツートンカラー。
日清カップヌードル、シーフードヌードル。
俺は震える手でそれを一つ取り出した。
軽い。乾燥技術の結晶だ。
底面の賞味期限を確認する。
「……大昔に切れてるな」
通常であれば、油が酸化し、麺は湿気て、食べれば即座に腹を下す毒物だ。
だが、今の俺には「管理者権限」がある。
「頼むぞ、イノガニック・キーパー」
俺はカップ麺を両手で包み込み、スキルを発動した。
対象の状態を、「工場出荷時」のステータスへとロールバックする。
フォォォン……。
淡い光がカップを包む。
積もっていた埃が消滅し、色褪せていたパッケージの印刷が鮮やかさを取り戻す。
ベコベコに凹んでいた容器が、内圧を取り戻してパンと張る。
そして、外装フィルムが「ピシッ」と音を立てて密着した。
「完璧だ……」
俺は新品同様になったカップ麺を光にかざした。
保存料と乾燥技術、そしてプラスチック容器による完全密封。
これこそが人類の英知だ。腐敗が支配するこの世界に対する、ささやかだが力強い抵抗の証だ。
俺は電気ケトル(これも棚の奥で眠っていたティファールだ)を水道の蛇口に持っていく。
水を注ぐ。
透明で、無臭の水。
スイッチを押す。
ボコボコボコ……。
数十秒後、沸騰音がキッチンに響き渡る。
ただの水(H2O)が、摂氏百度で相転移を起こしているだけの物理現象。
だが、外の世界で湯を沸かせばどうなるか。不純物が多すぎて変な色の泡が出たり、異臭が立ち上ったりする。
この「純粋な沸騰音」を聞くだけで、俺の涙腺は緩みそうになる。
カチン。スイッチが戻り、湯が沸いた。
俺はカップ麺のフィルムを剥がし、蓋を半分まで開けた。
中には乾燥した具材たちが見える。
黄色い卵、緑のキャベツ、赤いカニカマ、そして白いイカ。
宝石箱かよ。
熱湯を注ぐ。
内側の線まで、きっちりと。
多すぎてもいけない、少なすぎてもいけない。メーカーが定めた「黄金比」を守る喜び。
蓋をして、付属のシールで止める。
スマホのタイマーをセットする。
三分間。
俺はダイニングの椅子に座り、直立不動でその時を待った。
この三分間は、どんな宗教的な祈りの時間よりも神聖だ。
隙間から、湯気と共に香りが漏れ出してくる。
あの独特の、クリーミーでジャンキーな香り。
海鮮の匂い? いや違う。これは「シーフード味」という名の、化学的に合成された香料の匂いだ。
昨日の食事を思い出す。
「アシッド・ラット(酸性ネズミ)」の干し肉。
噛むとアンモニア臭と酸味が口いっぱいに広がり、飲み込むには勇気が必要だった。あれは食事ではない。ただの燃料補給だ。
ピピピピ、ピピピピ。
アラームが鳴った。
俺は弾かれたようにシールを剥がし、蓋をめくった。
ブワッ!
白濁したスープの湯気が、顔面を直撃する。
強烈な「旨味(グルタミン酸ナトリウム)」の香りが、鼻腔を蹂躙する。
「いただきます……ッ!」
プラスチックのフォークを突き刺し、麺を持ち上げる。
スープを吸って少し太くなった縮れ麺が、白濁した液体をたっぷりと絡め取っている。
ズズッ、ズズズッ!
行儀悪く音を立ててすする。
その瞬間、俺の脳内で何かが爆発した。
「……んぐっ……!」
美味い。
いや、「美味い」なんて言葉では生温い。
これは、暴力だ。
舌を殴りつけるような強烈な塩分。
脳髄を直接揺さぶるような、計算され尽くした化学調味料(アミノ酸等)の旨味。
ポークと魚介のエキスが、飢餓状態の体に染み渡っていく。
自然界には絶対に存在しない味。
不揃いで、予測不能で、時に泥臭い「自然の味」とは対極にある、均一で管理された「人工の味」。
俺は震えた。
この舌が痺れるような化学的な刺激こそが、文明の味だ。
俺たちが怪物に怯えながら求めていたのは、オーガニックな野菜なんかじゃない。この暴力的なまでのカロリーと塩分だったんだ。
次は具材だ。
俺は「ほぼイカ」と呼ばれる白い物体を口に運んだ。
くにゅっ。
その歯ごたえに、涙が出そうになる。
外のモンスターの肉は、噛み切れないほど硬いか、腐ったように崩れるかのどちらかだ。
だがこれは、心地よい弾力を返してくる。
噛めば噛むほど、染み込んだスープの味が滲み出てくる。
フリーズドライの卵の、優しい甘み。
キャベツの、シャキシャキとした歯ごたえ。
カニカマの、ほぐれる繊維感。
全てが愛おしい。
全てが、俺を祝福している。
俺は無言で麺をすすり続けた。
一口食べるごとに、生体都市の悪夢が遠のいていく。
ここは安全だ。ここには食料がある。ここには「味」がある。
あっという間に麺がなくなった。
残ったのは、白濁したスープだけ。
底には、溶け残った粉末スープが沈んでいるかもしれない。
通常なら、塩分過多で体に悪いとして残すところだ。
だが今の俺にとって、これは最高級のエリクサーだ。一滴たりとも無駄にはできない。
俺はカップを両手で持ち、傾けた。
ごく、ごく、ごく。
喉を焼くような熱さと、濃厚な塩気。
クリーミーな豚骨と魚介のハーモニーが、食道を滑り落ちていく。
最後の一滴、底に溜まった濃い部分まで、舌で舐めるようにして飲み干した。
「……ぷはぁっ」
俺は空になったカップをテーブルに置き、大きく息を吐いた。
満腹感。
そして、体の中から湧き上がってくる熱量。
エアコンの効いた涼しい部屋で、熱いカップ麺を食う。
こんな贅沢が、他にあるだろうか?
いや、ない。断じてない。王侯貴族のフルコースだって、この至福には勝てないはずだ。
俺は空の容器を見つめた。
ゴミ箱に捨てる? とんでもない。
洗ってとっておこう。この容器を見るたびに、今日の感動を思い出せるように。
……いや、さすがにそれは貧乏くさいか。ゴミ箱も清潔だしな。
俺は容器をゴミ箱(足踏みペダル式)に捨て、ソファに深く沈み込んだ。
血糖値が上がり、心地よい眠気が襲ってくる。
「明日も……これを食べるために生きよう」
その決意は、どんな崇高な目的よりも固く、俺の心に刻まれた。
カップヌードル。それは間違いなく、この終わった世界における「神の食べ物」だった。




