表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
56/65

第56話:揺らぐ心とヒロインの焦燥

 カイトの意識は、現実と切り離されたシミュレーション空間の中にあった。


 そこは、ガイアが提示した報酬――「永遠の楽園」のプロトタイプだ。

 カイトは自分の部屋(の再現データ)に立っていた。


「……すごい」


 思わず感嘆の声が漏れた。

 見た目はいつものリビングだ。だが、決定的に違うことがある。


 空気が、静止しているのだ。

 ほこりが舞っていない。

 窓枠のサッシを指でなぞる。塵一つつかない。

 フィギュアのケースを見る。紫外線による劣化も、可塑剤かそざいの気化によるベタつきも、永久に起こらない。


 自分の体を見る。

 爪が伸びていない。髪もボサボサにならない。

 トイレに行きたいという尿意も、腹が減ったという空腹感もない。

 ただ、純粋な「存在」としての快楽だけがある。


『どうだ、バックアップよ』


 脳内にガイアの声が響く。


『これが「エントロピーの凍結」だ。ここでは全ての物質が、最も美しい状態ピークで固定される』

『掃除機をかける必要はない。洗濯もいらない。肉体のメンテナンス(風呂・睡眠)すら、ここでは娯楽としての選択肢に過ぎない』


「……最高だ」


 カイトの頬が緩んだ。

 これだ。俺が求めていたのは。

 社会に疲れ、人付き合いに疲れ、汚れることに怯えて生きてきた俺にとって、この「変わらない世界」は涙が出るほど安らかな桃源郷だった。


 俺はソファに身を沈めた。

 永遠にヘタらないクッション。

 ここで一生、積みゲーを消化して過ごす。誰にも邪魔されず、急かされることもなく。


「……ああ。これ以上の幸せなんて、あるわけない」


 カイトの意識は、甘美な毒に侵されるように、陶酔の底へと沈んでいった。


 ◇


 現実世界。

 光の巨人の前で、カイトは虚空を見つめたまま立ち尽くしていた。

 その表情は、今まで見たことがないほど穏やかで、とろけるように幸せそうだった。


 それを見たレナは、全てを悟った。


「……ああ。主様は、『あちら側』を選ばれるおつもりだわ」


 声が震えた。

 だが、そこに恨み言はなかった。


「当然です……」


 隣でエリスが、自嘲気味に微笑む。


「カイト様にとって、人間はずっと『ストレス』でしかありませんでした」

「ええ。剛田たちのような汚い人間。……そして、押しかけて居座っている私たち」


 彼女たちは知っている。

 カイトがどれほど潔癖で、どれほど孤独を愛しているか。

 彼がレナたちを受け入れたのは、優しさからではない。「掃除が面倒だから」「追い出す手間が惜しいから」という、消極的な理由だったことを。


 だからこそ、彼女たちは自分たちが「足枷あしかせ」であることを自覚していた。


「抵抗はやめましょう、エリス」

「……はい、レナさん」


 二人は顔を見合わせ、寂しげに、しかし晴れやかに頷き合った。


「せめて最期は、主様の手を煩わせないようにしましょう」

「ええ。断末魔で耳を汚したり、血飛沫で服を汚したりしては、あの人に嫌われてしまいますから」


 彼女たちは、カイトの邪魔にならないよう、部屋の隅へと後ずさった。

 そして、静かに目を閉じ、消滅の時を待つ。

 その姿は、あまりにも健気で、痛々しいほどの献身だった。


 ◇


 再び、シミュレーション空間。

 カイトは至福の時間の中にいた。

 目の前には、ガイアが用意した「全人類の遺産アーカイブ」が展開されている。


 過去に発売された全てのゲーム、全ての漫画、全てのアニメ。

 それらが無限のライブラリとなって並んでいる。


「すげぇ……。遊びきれない。一生かかっても無理だ」


 カイトはライブラリをスクロールした。

 懐かしいレトロゲームから、文明崩壊直前の最新作まで。

 まさにオタクの宝物庫。


 彼は、ある人気漫画のタイトルを見つけ、指を止めた。

 大好きな作品だ。文明崩壊のどさくさで、最新刊が読めていなかった。


「おっ、これこれ。続きが気になってたんだよな」


 カイトはワクワクしながら、そのシリーズを開いた。

 第1巻、第2巻……第45巻。

 そこでリストが終わっていた。


「ん? あれ?」


 カイトは首を傾げた。

 おかしい。この漫画は、まだ完結していないはずだ。

 作者は「クライマックス突入!」と宣言していた。


「おい、ガイア。この続きは? 最終巻はどこだ?」


 カイトの問いに、システム音声が淡々と答える。


『データは存在しません』

『それが、人類文明が崩壊した時点で出版されていた最新刊です』


「は? いや、だから続きだよ。作者は生きてたんだろ? その後の原稿データとか……」


『存在しません』


 ガイアの声は冷徹だった。


『私は「過去のデータ」を保存するシステムだ。未来の創造は行わない』

『有機生命体を消去すれば、新たな創作物は二度と生まれない。作者も、開発者も、すべて消去される』


 カイトの指が止まった。

 背筋に、冷たいものが走る。


「……待てよ」


 彼は別のゲームタイトルを開いた。

 オンライン対応の大作RPG。

 『大型アップデート予定! 新エリア解放!』という告知バナーが残っている。

 だが、その新エリアのデータはどこにもない。


「おい。……このゲームのアップデートは?」


『永遠に来ない』


「続編の制作決定してたアニメは?」


『永遠に作られない』


「……バグ修正パッチは?」


現状維持フリーズだ』


 カイトの顔から、表情が抜け落ちた。

 陶酔が、急速に冷めていく。


 不老不死。

 永遠の時間。

 それはつまり、「永遠に『続き』が供給されない世界」で生き続けるということだ。


 完結しない物語。

 回収されない伏線。

 修正されないクソゲーのバランス。


 それらを抱えたまま、永遠に、一人で?


「……」


 カイトは震えた。

 それは楽園ではなかった。

 

 「サービス終了(サ終)」したMMORPGのサーバーに、自分一人だけ取り残された孤独。


 更新のないウェブサイトを、永遠にF5連打し続ける虚無。

 それは「生」ではない。

 ただの「デジタルな剥製はくせい」だ。


「……ふざけるな」


 カイトの口から、低い唸り声が漏れた。


 ◇


 現実世界。

 カイトの瞳に、光が戻った。


 彼はゆっくりと顔を上げ、部屋の隅を見た。

 そこには、死を覚悟して身を寄せ合うレナとエリスがいた。

 彼女たちは、カイトが「イエス」と言うのを待っている。自分たちを消去するコマンドを、カイト自身の口から発せられるのを待っている。


 カイトは二人を見た。

 騒がしくて、手がかかって、よく食べる同居人たち。

 彼女たちがいなくなれば、部屋は静かになるだろう。掃除の手間も減るだろう。


 だが。


(こいつらが消えたら……誰が僕の作った飯を「美味い」と言って食べるんだ?)

(誰が、僕がクリアしたゲームの自慢話を聞いてくれるんだ?)

(誰が、ピカピカになったトイレを見て感動してくれるんだ?)


 カイトは気づいてしまった。

 「承認」のない掃除は、ただの作業だ。

 「共感」のないゲームは、ただのデータ処理だ。


 完璧な世界で、一人ぼっち。

 それは、今の彼にとって、死ぬよりも恐ろしい「退屈」地獄だった。


 カイトは深く、深くため息をついた。

 そして、ガイアを睨みつけた。


 その目は、楽園を夢見る少年の目ではなかった。

 運営から「サービス終了のお知らせ」を突きつけられ、理不尽な仕様変更にブチ切れた、「クレーマー(ガチ勢)」の目だった。


「……条件は完璧だ。文句のつけようがない」


 カイトが口を開くと、レナがビクリと肩を震わせた。

 終わりの時が来たと思ったのだろう。


 だが、カイトは続けた。


「……でも、致命的な欠陥バグがある」


 カイトは、神に向かって中指を立てるように、人差し指を突きつけた。


「お前のプランには、『新作』がない。論外だ」


「え……?」

「大家さん……?」


 レナとエリスが顔を上げる。

 カイトは不敵に笑った。

 それは、世界を救う英雄の顔ではなく、欲しいおもちゃを取り上げられそうになった子供の、ワガママで、傲慢で、最高に人間臭い笑顔だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ