第56話:揺らぐ心とヒロインの焦燥
カイトの意識は、現実と切り離されたシミュレーション空間の中にあった。
そこは、ガイアが提示した報酬――「永遠の楽園」のプロトタイプだ。
カイトは自分の部屋(の再現データ)に立っていた。
「……すごい」
思わず感嘆の声が漏れた。
見た目はいつものリビングだ。だが、決定的に違うことがある。
空気が、静止しているのだ。
埃が舞っていない。
窓枠のサッシを指でなぞる。塵一つつかない。
フィギュアのケースを見る。紫外線による劣化も、可塑剤の気化によるベタつきも、永久に起こらない。
自分の体を見る。
爪が伸びていない。髪もボサボサにならない。
トイレに行きたいという尿意も、腹が減ったという空腹感もない。
ただ、純粋な「存在」としての快楽だけがある。
『どうだ、バックアップよ』
脳内にガイアの声が響く。
『これが「エントロピーの凍結」だ。ここでは全ての物質が、最も美しい状態で固定される』
『掃除機をかける必要はない。洗濯もいらない。肉体のメンテナンス(風呂・睡眠)すら、ここでは娯楽としての選択肢に過ぎない』
「……最高だ」
カイトの頬が緩んだ。
これだ。俺が求めていたのは。
社会に疲れ、人付き合いに疲れ、汚れることに怯えて生きてきた俺にとって、この「変わらない世界」は涙が出るほど安らかな桃源郷だった。
俺はソファに身を沈めた。
永遠にヘタらないクッション。
ここで一生、積みゲーを消化して過ごす。誰にも邪魔されず、急かされることもなく。
「……ああ。これ以上の幸せなんて、あるわけない」
カイトの意識は、甘美な毒に侵されるように、陶酔の底へと沈んでいった。
◇
現実世界。
光の巨人の前で、カイトは虚空を見つめたまま立ち尽くしていた。
その表情は、今まで見たことがないほど穏やかで、とろけるように幸せそうだった。
それを見たレナは、全てを悟った。
「……ああ。主様は、『あちら側』を選ばれるおつもりだわ」
声が震えた。
だが、そこに恨み言はなかった。
「当然です……」
隣でエリスが、自嘲気味に微笑む。
「カイト様にとって、人間はずっと『ストレス』でしかありませんでした」
「ええ。剛田たちのような汚い人間。……そして、押しかけて居座っている私たち」
彼女たちは知っている。
カイトがどれほど潔癖で、どれほど孤独を愛しているか。
彼がレナたちを受け入れたのは、優しさからではない。「掃除が面倒だから」「追い出す手間が惜しいから」という、消極的な理由だったことを。
だからこそ、彼女たちは自分たちが「足枷」であることを自覚していた。
「抵抗はやめましょう、エリス」
「……はい、レナさん」
二人は顔を見合わせ、寂しげに、しかし晴れやかに頷き合った。
「せめて最期は、主様の手を煩わせないようにしましょう」
「ええ。断末魔で耳を汚したり、血飛沫で服を汚したりしては、あの人に嫌われてしまいますから」
彼女たちは、カイトの邪魔にならないよう、部屋の隅へと後ずさった。
そして、静かに目を閉じ、消滅の時を待つ。
その姿は、あまりにも健気で、痛々しいほどの献身だった。
◇
再び、シミュレーション空間。
カイトは至福の時間の中にいた。
目の前には、ガイアが用意した「全人類の遺産アーカイブ」が展開されている。
過去に発売された全てのゲーム、全ての漫画、全てのアニメ。
それらが無限のライブラリとなって並んでいる。
「すげぇ……。遊びきれない。一生かかっても無理だ」
カイトはライブラリをスクロールした。
懐かしいレトロゲームから、文明崩壊直前の最新作まで。
まさにオタクの宝物庫。
彼は、ある人気漫画のタイトルを見つけ、指を止めた。
大好きな作品だ。文明崩壊のどさくさで、最新刊が読めていなかった。
「おっ、これこれ。続きが気になってたんだよな」
カイトはワクワクしながら、そのシリーズを開いた。
第1巻、第2巻……第45巻。
そこでリストが終わっていた。
「ん? あれ?」
カイトは首を傾げた。
おかしい。この漫画は、まだ完結していないはずだ。
作者は「クライマックス突入!」と宣言していた。
「おい、ガイア。この続きは? 最終巻はどこだ?」
カイトの問いに、システム音声が淡々と答える。
『データは存在しません』
『それが、人類文明が崩壊した時点で出版されていた最新刊です』
「は? いや、だから続きだよ。作者は生きてたんだろ? その後の原稿データとか……」
『存在しません』
ガイアの声は冷徹だった。
『私は「過去のデータ」を保存するシステムだ。未来の創造は行わない』
『有機生命体を消去すれば、新たな創作物は二度と生まれない。作者も、開発者も、すべて消去される』
カイトの指が止まった。
背筋に、冷たいものが走る。
「……待てよ」
彼は別のゲームタイトルを開いた。
オンライン対応の大作RPG。
『大型アップデート予定! 新エリア解放!』という告知バナーが残っている。
だが、その新エリアのデータはどこにもない。
「おい。……このゲームのアップデートは?」
『永遠に来ない』
「続編の制作決定してたアニメは?」
『永遠に作られない』
「……バグ修正パッチは?」
『現状維持だ』
カイトの顔から、表情が抜け落ちた。
陶酔が、急速に冷めていく。
不老不死。
永遠の時間。
それはつまり、「永遠に『続き』が供給されない世界」で生き続けるということだ。
完結しない物語。
回収されない伏線。
修正されないクソゲーのバランス。
それらを抱えたまま、永遠に、一人で?
「……」
カイトは震えた。
それは楽園ではなかった。
「サービス終了(サ終)」したMMORPGのサーバーに、自分一人だけ取り残された孤独。
更新のないウェブサイトを、永遠にF5連打し続ける虚無。
それは「生」ではない。
ただの「デジタルな剥製」だ。
「……ふざけるな」
カイトの口から、低い唸り声が漏れた。
◇
現実世界。
カイトの瞳に、光が戻った。
彼はゆっくりと顔を上げ、部屋の隅を見た。
そこには、死を覚悟して身を寄せ合うレナとエリスがいた。
彼女たちは、カイトが「イエス」と言うのを待っている。自分たちを消去するコマンドを、カイト自身の口から発せられるのを待っている。
カイトは二人を見た。
騒がしくて、手がかかって、よく食べる同居人たち。
彼女たちがいなくなれば、部屋は静かになるだろう。掃除の手間も減るだろう。
だが。
(こいつらが消えたら……誰が僕の作った飯を「美味い」と言って食べるんだ?)
(誰が、僕がクリアしたゲームの自慢話を聞いてくれるんだ?)
(誰が、ピカピカになったトイレを見て感動してくれるんだ?)
カイトは気づいてしまった。
「承認」のない掃除は、ただの作業だ。
「共感」のないゲームは、ただのデータ処理だ。
完璧な世界で、一人ぼっち。
それは、今の彼にとって、死ぬよりも恐ろしい「退屈」地獄だった。
カイトは深く、深くため息をついた。
そして、ガイアを睨みつけた。
その目は、楽園を夢見る少年の目ではなかった。
運営から「サービス終了のお知らせ」を突きつけられ、理不尽な仕様変更にブチ切れた、「クレーマー(ガチ勢)」の目だった。
「……条件は完璧だ。文句のつけようがない」
カイトが口を開くと、レナがビクリと肩を震わせた。
終わりの時が来たと思ったのだろう。
だが、カイトは続けた。
「……でも、致命的な欠陥がある」
カイトは、神に向かって中指を立てるように、人差し指を突きつけた。
「お前のプランには、『新作』がない。論外だ」
「え……?」
「大家さん……?」
レナとエリスが顔を上げる。
カイトは不敵に笑った。
それは、世界を救う英雄の顔ではなく、欲しいおもちゃを取り上げられそうになった子供の、ワガママで、傲慢で、最高に人間臭い笑顔だった。




