第51話:ラストダンジョンは生ゴミの臭い
地下500メートル。
かつて上下水道が張り巡らされていた地下空間は、今や巨大な生物の「消化器官」へと変貌を遂げていた。
「……うッ、っぷ……」
Sランク冒険者であるレナが、ガスマスクの上から口を押さえた。
彼女ほどの猛者が、恐怖ではなく「生理的嫌悪感」で膝を屈している。
無理もない。ここは地獄だ。
トンネルの壁一面が、赤黒い肉襞で覆われている。
それらは不規則に収縮し、ドクン、ドクンと脈打ちながら、天井から粘着質の消化液を滴らせている。
グチュッ……ボコッ……。
足元は泥ではない。半消化された有機物のスープだ。
踏み込むたびに靴が沈み込み、糸を引く。
そして何より、臭い。
腐った卵とアンモニア、そして強烈な生ゴミの臭いを煮詰めたような悪臭が、防護服のフィルター越しにも漂ってくる。
「ここは……生物の腹の中です」
エリスが顔面蒼白で呟く。
「濃厚な消化液の霧で、肌が溶けそうです……。普通の人間なら、数分で発狂しています」
高濃度汚染区域。
ここはもう、人が立ち入っていい領域ではない。
だが、先頭を歩く男――カイトだけは、別の意味で不機嫌だった。
「……最悪だ」
カイトはLED投光器で足元を照らし、舌打ちをした。
「靴底にガムを踏んだみたいな感触だ。ネチャネチャする」
彼が気にしているのは「命の危険」ではない。
「靴の汚れ」だ。
新品の白いゴム長靴が、ドス黒い粘液で汚れることへの、純粋な憤り。
「もういい。我慢の限界だ」
カイトは立ち止まり、スマホを取り出した。
「舗装するぞ」
彼は画面をタップした。
スキル発動:【無機物保存】。
ただし、今回は定点設置ではない。彼自身の移動に合わせて結界を展開する「追従モード」だ。
フォンッ。
カイトの足元から、幾何学的な青い光のグリッドが広がった。
半径5メートル。
その光が、汚れた地面に触れた瞬間。
ジュワッ!
水分が蒸発する音が響いた。
ヌルヌルと動いていた肉の床が、一瞬にして乾燥し、灰色に変色する。
生物的な弾力が失われ、硬質な物質へと固定される。
――コンクリートだ。
カイトが一歩踏み出す。
それに合わせて、青いグリッドが前方へと伸びる。
彼が歩いた跡には、平らで、乾いていて、清潔な「コンクリートの通路」が生成されていく。
「あぁ……」
レナとエリスは、吸い寄せられるようにカイトの背後に回った。
そこだけが、唯一の安全地帯。
有機的な地獄の中に敷かれた、無機質のレッドカーペット。
「離れるなよ。結界の外に出たら、服が溶けるからな」
「は、はいっ! 一生離れません!」
「背中に張り付きます!」
二人の美女(と重武装の犬ロボット)を引き連れ、カイトはダンジョンを「造成」しながら進んでいく。
◇
しばらく進むと、巨大な空間に出た。
そこは、行く手を阻む「絶望」の場所だった。
「……道が、ありません」
レナが絶望的な声を上げた。
目の前に広がっていたのは、広大な「胃酸の地底湖」。
黄色く泡立つ強酸の液体が、湖のように滞留している。
ボコッ、ボコッ、と巨大な泡が弾けるたびに、鼻が曲がりそうな酸っぱいガスが舞い上がる。
落ちれば、Sランク装備だろうと骨まで溶かされるだろう。
壁を伝って行くこともできない。壁自体が激しく蠕動し、触手を伸ばして獲物を待ち構えているからだ。
「主様、引き返しましょう! 船も橋もありません!」
「引き返す? 面倒くさい」
カイトは即答した。
彼はスマホの「建築アプリ」を起動し、面倒くさそうに操作した。
「道がないなら、作ればいい。……埋め立てよう」
彼は湖に向かって手をかざした。
【クラフト:道路舗装】。
ズオォォォッ!
カイトの手から、黒い帯のような光が放たれた。
それは酸の海の上を走り、液体を強制的に「固体」へと置換していく。
ジュワァァァァァッ!!
凄まじい蒸気が上がった。
酸が蒸発し、化学反応を起こす音。
だが、その白煙を切り裂いて現れたのは――
「……道?」
エリスが目を疑った。
酸の海の上に、黒く、平らな一本道が出現していた。
アスファルト舗装道路だ。
しかも、ただの道ではない。
両脇には、転落防止用の「白いガードレール」。
さらに、等間隔に設置された「LED街灯」が、パッ、パッと自動点灯していく。
暗く、湿った生物の胎内に、突如として現れた「現代日本の国道」。
そのシュールすぎる光景に、世界の法則がバグったかのようだった。
「くっさ……」
カイトが鼻を鳴らす。
漂ってきたのは、胃酸の臭いではない。
出来たてのアスファルト特有の、焦げたような油とタールの匂い。
工業的な化学臭。
だが、この腐った世界においては、それこそが「文明の香り」だった。
「よし、開通だ。行くぞ」
カイトはアスファルトの上を歩き出した。
コツ、コツ、という革靴の音が、小気味よく響く。
街灯が明るく足元を照らし、ガードレールが酸の飛沫を防いでくれる。
「な、なんという……」
レナたちは恐る恐る、その道に足を踏み入れた。
硬い。安定している。
地獄の業火の上に架かった、冷たくて安全な橋。
「これは、海を割った預言者の奇跡……」
「いいえ、エリス。ただの道路工事よ」
レナは冷静にツッコミを入れつつも、ガードレールの冷たさに感動して頬ずりしていた。
その時、酸の海から水柱が上がった。
バシャァッ!
現れたのは、体長5メートルを超える「テンタクル・リーチ(巨大ヒル)」。
ぬらぬらした体で、アスファルトの上のカイトたちに襲いかかろうと飛び出してきた。
「危ないっ!」
レナが剣を抜こうとする。
だが、カイトは動じなかった。
ベチャッ。
ヒルがアスファルトの上に着地した瞬間。
「ギィィィッ!?」
怪物が悲鳴を上げた。
熱せられたアスファルトの乾燥と、化学物質が、湿気を好むヒルの皮膚に張り付いたのだ。
体内の水分が一瞬で奪われ、干物のように縮んでいく。
ナメクジに塩をかけたようなものだ。
「ワン!(排除シマス)」
ポチが背中の機銃を向け、動けなくなったヒルをハニカム(蜂の巣)にする。
カイトは顔をしかめ、腰から「トング」を取り出した。
「ったく。道路に生ゴミを散らかすなよ」
彼は死にかけのヒルをトングで摘み上げ、ガードレールの外――酸の海へとポイ捨てした。
ボチャン。
事務的な処理。
そこには、モンスターへの恐怖など微塵もない。あるのは「清掃員」としての義務感だけだ。
「さあ、サクサク行こう。湿気で髪がうねる前に帰りたいんだ」
カイトは早足で進んでいく。
その背中を見ながら、ヒロインたちは確信した。
この人にかかれば、地獄巡りすらただの「通勤路」になってしまうのだと。
一行は、整備されたハイウェイを通り、さらに深淵へと潜っていった。




