第5話:室温24度、湿度50%の衝撃
LEDの光に満たされたリビングで、俺は全裸のまま仁王立ちしていた。
視覚的な文明は取り戻した。
だが、肌で感じる空気はまだ「外」のままだ。
「……暑い」
額から汗が流れ落ち、頬を伝って顎から滴る。
外気温四十度、湿度九十パーセント超。
家自体は無機物に書き換わったが、室内の空気までは完全に入れ替わっていない。
ねっとりとした熱気が、俺の体にまとわりついている。
不快だ。
このベトつきを、今すぐ洗い流したい。
俺は再び、空中に浮かぶシステムウィンドウを操作した。
【インフラ契約】
> 水道契約(月額:300MP)
> 電気契約(月額:500MP)
高い。
俺の現在のMP最大値からすれば、決して安くないコストだ。
だが、迷う余地はない。
これは生きるための必要経費だ。
「契約、実行」
タップした瞬間、体から力が抜ける感覚。
だが、それと引き換えに、壁の向こうから音が聞こえ始めた。
シューッ……ゴボゴボ……。
配管の中を、水が走る音。
生物の体内を流れる粘着質な体液の音ではない。塩ビパイプの中を、加圧された上水が勢いよく流れる音だ。
俺はその音を聞くだけで、喉が鳴るほどの渇きを覚えた。
よし、水も来た。電気も来た。
ならば、次やることは一つだ。
俺はリビングの壁を見上げた。
そこには、白く輝く長方形の機械が鎮座している。
エアコンだ。
現代文明が生み出した、熱力学の結晶。ヒートポンプという名の魔法の箱。
俺は壁に設置されたリモコンホルダーから、リモコンを手に取った。
液晶画面には何も表示されていない。
俺は祈るように、赤い「運転入/切」ボタンを親指で押し込んだ。
ピッ。
静寂な部屋に、電子音が響いた。
その音は、天使のラッパよりも美しかった。
ウィィィン……。
エアコンの前面パネルがゆっくりと持ち上がり、送風口のルーバー(羽)が開く。
数秒の沈黙。
そして、外壁の向こうから、重低音が響いてきた。
ブォォォォン……。
室外機のコンプレッサーが起動した音だ。
冷媒ガスが圧縮され、熱交換器が唸りを上げている。
生き物の呼吸音ではない。一定のリズムを刻む、頼もしいモーターの駆動音。
俺は送風口の下に立った。
全裸で、両手を広げ、その時を待つ。
フワッ。
最初の風が吐き出された。
まだぬるい。配管の中に溜まっていた常温の風だ。
だが、そこには「カビ」や「腐敗臭」がない。
フィルターを通した、少し埃っぽいような、しかし清潔な「機械の風」。
「来い……!」
俺はリモコンを操作した。
運転モード切替。
「冷房」? いや、違う。
今のこの状況で選ぶべき最適解は、それじゃない。
俺が選んだのは――**「除湿」**だ。
設定温度、二十四度。
生体都市の最大の敵は、熱ではない。「湿気」だ。
常に飽和状態にある水蒸気。汗をかいても蒸発せず、体温が下がらない蒸し焼き地獄。
服は肌に張り付き、紙はふやけ、パンは数時間でカビる。
あの呪わしい湿気を、科学の力で排除する。
数十秒後。
風の温度が、劇的に変わった。
「……あぁ」
冷たい。
鋭い冷気が、頭上から降り注いできた。
それは単に温度が低いだけではない。
水分を極限まで搾り取られた、乾燥した空気だ。
その風が俺の肌に触れた瞬間、奇跡が起きた。
スゥッ……。
全身を覆っていた不快な汗が、一瞬にして気化していく。
気化熱により、皮膚の表面温度が急速に奪われる。
ベトベトだった肌が、サラサラに変わる。
髪の毛の間を、乾いた風が通り抜ける。
脇の下も、背中も、股間も。
あらゆる場所が「乾いていく」。
「ははっ……!」
俺は思わず笑い声を上げた。
気持ちいい。
セックスよりも、どんなドラッグよりも、今の俺にはこの「乾燥」が快感だった。
肺に入ってくる空気が軽い。
酸素濃度は同じはずなのに、呼吸が圧倒的に楽だ。
水中で溺れていたところを引き上げられたような開放感。
俺はリモコンの液晶画面を見た。
現在の室内環境が表示されている。
【室温:24℃ 湿度:50%】
「勝った……」
俺は送風口の真下で、ガッツポーズを取った。
窓の外では、気温四十度、湿度九十パーセントの地獄が広がっている。
人々は熱中症と、腐敗ガスの悪臭に耐えながら、泥水をすすっているだろう。
だが、ここはどうだ。
壁一枚隔てたこの場所だけは、秋の高原のように爽やかだ。
文明万歳。ヒートポンプ万歳。フロンガス万歳。
俺は冷え切った体で、キッチンへと向かった。
足取りは軽い。
そこには、ファミリータイプの大型冷蔵庫(600Lクラス)が鎮座している。
鏡面仕上げのクリスタルホワイト。
もちろん、中身は空っぽだ。まだ何も入れていない。
だが、開けずにはいられなかった。
俺は観音開きのドアに手をかけ、勢いよく開け放った。
パァァァ……。
LEDの庫内灯が、真っ白な光で俺を照らす。
そして、顔面に叩きつけられる高密度の冷気。
設定温度、四度。
チルド室に至っては零度付近。
「んーーーーっ!」
俺は空っぽの冷蔵庫の中に頭を突っ込んだ。
冷えたプラスチックの匂い。
無菌に近い低温空間。
外の世界では、「冷やす」という行為には莫大なコストがかかる。
氷魔法を使える魔導師は王族並みの待遇だし、冬の氷を保存した氷室は金塊保管庫よりも厳重に守られている。
なのに、俺はどうだ。
電気さえ通せば、この極寒の冬を独り占めできる。
俺は庫内でニヤリと笑った。
「最高だ。俺は、この星の生態系に勝ったんだ」
冷気に包まれながら、俺は勝利の余韻に浸った。
さて、体は冷えた。汗も引いた。
次は、腹ごしらえだ。
俺は一度冷蔵庫を閉め(もったいないからな)、備蓄棚の方へと目を向けた。
文明的な空気の中で食べる飯は、きっと格別の味がするはずだ。




