第46話:静寂のランドマーク
ヒュオォォォォ……。
乾いた音が、夕暮れの空に響いていた。
それは、この世界では聞き慣れない音だった。
怪物の咆哮でもない。粘液が滴る不快な水音でもない。
巨大な鉄骨の隙間――トラス構造の網目を、風が素通りしていく音だ。
「……止まった?」
山麓の泥沼でへたり込んでいた査察官ザガンは、震える手で眼鏡の位置を直した。
ほんの数分前まで、そこには世界を終わらせる「動く災厄」がいたはずだった。
鼓動し、よだれを垂らし、大地を食らい尽くす333メートルの肉塊。
だが、今は違う。
夕日に照らされ、長い影を落としているのは、赤と白に塗り分けられた「鉄の塔」。
微動だにしない。
呼吸もしない。
ただ圧倒的な質量を持って、そこに「在る」だけの建造物。
かつて不気味に蠢いていたシルエットは、今は美しい幾何学模様の影絵となって、大地に静寂をもたらしている。
「死んだのか……? いや、これは……」
ザガンの言葉は、喉の奥で消えた。
死体ではない。死体ならば腐敗し、崩れ落ちるはずだ。
だが、あの塔は毅然として立っている。
まるで、最初からそこに建っていた遺跡であるかのように。
◇
ポツ、ポツ……。
空から雨が落ちてきた。
ザガンは身を縮こまらせた。酸の雨だと思ったからだ。
だが、頬に触れた雫は、熱くなかった。
「……水?」
冷たい。ただの水だ。
タワーの口から噴き出していた黄色い毒霧が消失し、上空の雲が浄化されたのだ。
雨は優しく降り注ぎ、戦場を覆っていた酸の煙や、兵士たちの恐怖を洗い流していく。
雲の切れ間から、夕日が差し込んだ。
空には、うっすらと虹がかかる。
「あぁ……」
誰かが声を上げた。
地獄のような光景が、一瞬にして絵画のような美しさに変わっていた。
政府軍の兵士たちが、放置された戦車の陰から恐る恐る顔を出す。
「俺たちの装甲が……溶かされていない?」
「空気が吸えるぞ! 毒ガスが消えたんだ!」
「見ろ、あの塔を! なんて……なんて神々しいんだ」
避難民たちが、プレハブ住宅から出てきて、泥の上にひれ伏した。
彼らは知っている。この世界で最も恐ろしいのは「動くもの」であり、最も尊いのは「動かないもの(安全な場所)」だと。
「あれは神の塔だ……」
「領主様が、悪魔を聖なる鉄の柱に封印なされたんだ……!」
祈りの声がさざなみのように広がる。
ザガンはふらつく足で立ち上がり、タワーの足元へと歩み寄った。
かつて触手だった部分。今は太いH型鋼となって大地に突き刺さっている。
彼は恐る恐る、その表面に触れた。
キンッ。
指輪が当たって、硬質な音が鳴る。
「……鉄だ」
ザガンは呟いた。
「魔力で強化された生体金属ですらない。ただの、純粋な『鉄』だ」
冷たく、ザラリとした塗装の感触。
そこには生命の温かみも、脈動もない。
完全に「物質」だ。
「馬鹿な……。生物を、瞬時に無機物へ変える魔法など聞いたことがない」
石化魔法? いや、そんなレベルではない。
構成要素そのものを置換している。
生物としての情報を消去し、構造物としての情報を上書きしたのだ。
「これは『死』ですらない。……『無』への回帰だ」
ザガンは戦慄した。
カイトという男の底知れなさ。
彼は怪物を倒したのではない。世界の理を捻じ曲げ、自分の都合のいいように「定義し直した」のだ。
それは、人間に許された領域を超えている。
「神の……御業……」
ザガンは膝をつき、圧倒的な鉄の巨塔を見上げた。
もはや、接収しようなどという不敬な考えは微塵も残っていなかった。
ただ、畏怖あるのみ。
◇
下界が宗教的な熱狂に包まれている頃。
当の「神」は、自宅のベランダで涼しい顔をしていた。
「……ふぅ」
カイトはスマホの画面を確認した。
バッテリー残量は残りわずかだが、処理完了の通知が出ている。
『プロセス終了。エラーなし。オブジェクトの固定化を確認』
「よし。成功だ」
カイトは満足げに頷き、スマホをポケットにしまった。
目の前には、夕日に赤く染まる東京タワー。
かつての世界で見慣れた、あの美しいシルエット。
「やっぱり、直線はいいな」
彼はうっとりと呟いた。
あの三角形の集合体――トラス構造。
力学的合理性の塊。無駄のない機能美。
グネグネした触手や、ヌルヌルした粘液なんかより、よほど見ていて心が落ち着く。癒やされる。
下の庭では、レナとエリスが彼を見上げている。
二人の瞳はキラキラと輝いていた。
「さすが大家さんです……! 掃除(駆除)ですらなく、インテリア(置物)に変えてしまうなんて!」
レナが感嘆の声を上げる。彼女にとって、これは究極の「整理整頓」に見えたらしい。
「あの塔からは、もう塵ひとつの穢れも感じません」
エリスも胸の前で手を組んでいる。
「世界で二番目に巨大な『無機物の聖遺物』となりました(一番はカイト様の家です)。あの塔は、これからこの地の守り神となるでしょう……」
彼女たちの目には、カイトが夕日を背負った救世主に見えているのだろう。
だが、カイトの頭の中は、もっと即物的な計算で埋め尽くされていた。
カイトは手すりに肘をつき、タワーをじろじろと値踏みした。
その目は、観光客のそれではない。
解体現場で鉄屑の山を見つけた、スクラップ業者の目だ。
(……高さ333メートル。鋼材重量、およそ4000トン)
カイトの脳内で、電卓が弾かれる。
(これ全部、SS400(一般構造用圧延鋼材)だよな? しかも新品同様、錆止め塗装済み)
この世界の鉄は、酸性雨ですぐに腐食してしまう。
だから、純粋な鋼鉄はミスリルやオリハルコンに匹敵するレアメタルだ。
それを、自分のスキルで1から生成しようとすれば、1キログラムあたり10ポイントのMPを消費する。
だが、ここには現物がある。
4000トンの鉄の塊が、タダで転がっているのだ。
(8億ポイントの出費は痛かったけど……この巨大な『資材の山』が手に入ったと思えば、悪い投資じゃないな)
カイトはニヤリと笑った。
「これだけあれば、ガレージの増築に使っても余るな。いや、地下倉庫の拡張もできる」
彼はタワーの上部、大展望台あたりを見つめた。
「あの展望台、ガラス張りだし……あそこに湯を引いて『空中展望浴場』に改装するのもアリか? 絶景だぞ」
「余った鉄骨で、庭に五重塔を建てるのも風流だな。日本庭園には合うはずだ」
夢が広がる。
世界遺産級の建造物を、自分のDIY素材としてしか見ていない。
「もったいないから再利用する」という、貧乏性(エコ精神)の極みだ。
「さて」
カイトは大きく伸びをした。
人々が地面に額を擦り付けて祈っている中、彼は一人だけ、タワーを「解体待ちの粗大ゴミ」として所有権を主張することにした。
「おーい、レナ、エリス。晩飯にしよう」
カイトは下に向かって声をかけた。
「今日は祝勝会だ。とっておきの缶詰を開けるぞ」
「はいっ! 直ちに準備します!」
「お祝いですね! コーラも解禁ですか!?」
二人が嬉しそうに家の中へ駆けていく。
カイトは最後に、もう一度タワーを見上げた。
「……あの鉄骨、全部僕の所有物ってことでいいよね? だって僕が『直した』んだし」
ジャイアニズム全開の理屈で頷くと、彼は部屋へと戻っていった。
夕日が沈む。
赤と白の鉄塔が、長い影を大地に落とす。
それは、かつて東京を照らした電波塔であり、今はカイトの「絶対的な支配圏(資材置き場)」を示す、巨大な楔として、静かにそこに在り続けるのだった。




