表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
46/65

第46話:静寂のランドマーク

 ヒュオォォォォ……。


 乾いた音が、夕暮れの空に響いていた。

 それは、この世界では聞き慣れない音だった。

 怪物の咆哮ほうこうでもない。粘液が滴る不快な水音でもない。

 巨大な鉄骨の隙間――トラス構造の網目を、風が素通りしていく音だ。


「……止まった?」


 山麓の泥沼でへたり込んでいた査察官ザガンは、震える手で眼鏡の位置を直した。


 ほんの数分前まで、そこには世界を終わらせる「動く災厄」がいたはずだった。

 鼓動し、よだれを垂らし、大地を食らい尽くす333メートルの肉塊。


 だが、今は違う。


 夕日に照らされ、長い影を落としているのは、赤と白に塗り分けられた「鉄の塔」。

 微動だにしない。

 呼吸もしない。

 ただ圧倒的な質量を持って、そこに「在る」だけの建造物。


 かつて不気味にうごめいていたシルエットは、今は美しい幾何学模様の影絵となって、大地に静寂をもたらしている。


「死んだのか……? いや、これは……」


 ザガンの言葉は、喉の奥で消えた。

 死体ではない。死体ならば腐敗し、崩れ落ちるはずだ。

 だが、あの塔は毅然として立っている。

 まるで、最初からそこに建っていた遺跡であるかのように。


 ◇


 ポツ、ポツ……。


 空から雨が落ちてきた。

 ザガンは身を縮こまらせた。酸の雨だと思ったからだ。

 だが、頬に触れた雫は、熱くなかった。


「……水?」


 冷たい。ただの水だ。

 タワーの口から噴き出していた黄色い毒霧が消失し、上空の雲が浄化されたのだ。

 雨は優しく降り注ぎ、戦場を覆っていた酸の煙や、兵士たちの恐怖を洗い流していく。


 雲の切れ間から、夕日が差し込んだ。

 空には、うっすらと虹がかかる。


「あぁ……」


 誰かが声を上げた。

 地獄のような光景が、一瞬にして絵画のような美しさに変わっていた。


 政府軍の兵士たちが、放置された戦車の陰から恐る恐る顔を出す。


「俺たちの装甲が……溶かされていない?」

「空気が吸えるぞ! 毒ガスが消えたんだ!」

「見ろ、あの塔を! なんて……なんて神々しいんだ」


 避難民たちが、プレハブ住宅から出てきて、泥の上にひれ伏した。

 彼らは知っている。この世界で最も恐ろしいのは「動くもの」であり、最も尊いのは「動かないもの(安全な場所)」だと。


「あれは神の塔だ……」

「領主様が、悪魔を聖なる鉄の柱に封印なされたんだ……!」


 祈りの声がさざなみのように広がる。

 ザガンはふらつく足で立ち上がり、タワーの足元へと歩み寄った。

 かつて触手だった部分。今は太いH型鋼となって大地に突き刺さっている。


 彼は恐る恐る、その表面に触れた。


 キンッ。


 指輪が当たって、硬質な音が鳴る。


「……鉄だ」


 ザガンは呟いた。


「魔力で強化された生体金属ミスリルですらない。ただの、純粋な『鉄』だ」

 

 冷たく、ザラリとした塗装の感触。

 そこには生命の温かみも、脈動もない。

 完全に「物質」だ。


「馬鹿な……。生物を、瞬時に無機物へ変える魔法など聞いたことがない」


 石化魔法? いや、そんなレベルではない。

 構成要素そのものを置換している。

 生物としての情報を消去し、構造物としての情報を上書きしたのだ。


「これは『死』ですらない。……『無』への回帰だ」


 ザガンは戦慄した。

 カイトという男の底知れなさ。

 彼は怪物を倒したのではない。世界のことわりを捻じ曲げ、自分の都合のいいように「定義し直した」のだ。

 それは、人間に許された領域を超えている。


「神の……御業みわざ……」


 ザガンは膝をつき、圧倒的な鉄の巨塔を見上げた。

 もはや、接収しようなどという不敬な考えは微塵も残っていなかった。

 ただ、畏怖あるのみ。


 ◇


 下界が宗教的な熱狂に包まれている頃。

 当の「神」は、自宅のベランダで涼しい顔をしていた。


「……ふぅ」


 カイトはスマホの画面を確認した。

 バッテリー残量は残りわずかだが、処理完了の通知が出ている。


 『プロセス終了。エラーなし。オブジェクトの固定化を確認』


「よし。成功だ」


 カイトは満足げに頷き、スマホをポケットにしまった。

 目の前には、夕日に赤く染まる東京タワー。

 かつての世界で見慣れた、あの美しいシルエット。


「やっぱり、直線はいいな」


 彼はうっとりと呟いた。

 あの三角形の集合体――トラス構造。

 力学的合理性の塊。無駄のない機能美。

 グネグネした触手や、ヌルヌルした粘液なんかより、よほど見ていて心が落ち着く。癒やされる。


 下の庭では、レナとエリスが彼を見上げている。

 二人の瞳はキラキラと輝いていた。


「さすが大家さんです……! 掃除(駆除)ですらなく、インテリア(置物)に変えてしまうなんて!」


 レナが感嘆の声を上げる。彼女にとって、これは究極の「整理整頓」に見えたらしい。


「あの塔からは、もう塵ひとつのけがれも感じません」


 エリスも胸の前で手を組んでいる。


「世界で二番目に巨大な『無機物の聖遺物』となりました(一番はカイト様の家です)。あの塔は、これからこの地の守り神となるでしょう……」


 彼女たちの目には、カイトが夕日を背負った救世主に見えているのだろう。

 だが、カイトの頭の中は、もっと即物的な計算で埋め尽くされていた。


 カイトは手すりに肘をつき、タワーをじろじろと値踏みした。

 その目は、観光客のそれではない。

 解体現場で鉄屑の山を見つけた、スクラップ業者の目だ。


(……高さ333メートル。鋼材重量、およそ4000トン)


 カイトの脳内で、電卓が弾かれる。


(これ全部、SS400(一般構造用圧延鋼材)だよな? しかも新品同様、錆止め塗装済み)


 この世界の鉄は、酸性雨ですぐに腐食してしまう。

 だから、純粋な鋼鉄はミスリルやオリハルコンに匹敵するレアメタルだ。

 それを、自分のスキルで1から生成しようとすれば、1キログラムあたり10ポイントのMPを消費する。


 だが、ここには現物がある。

 4000トンの鉄の塊が、タダで転がっているのだ。


(8億ポイントの出費は痛かったけど……この巨大な『資材の山』が手に入ったと思えば、悪い投資じゃないな)


 カイトはニヤリと笑った。

 

「これだけあれば、ガレージの増築に使っても余るな。いや、地下倉庫の拡張もできる」


 彼はタワーの上部、大展望台あたりを見つめた。


「あの展望台、ガラス張りだし……あそこに湯を引いて『空中展望浴場』に改装するのもアリか? 絶景だぞ」

「余った鉄骨で、庭に五重塔を建てるのも風流だな。日本庭園には合うはずだ」


 夢が広がる。

 世界遺産級の建造物を、自分のDIY素材としてしか見ていない。

 「もったいないから再利用する」という、貧乏性(エコ精神)の極みだ。


「さて」


 カイトは大きく伸びをした。

 人々が地面に額を擦り付けて祈っている中、彼は一人だけ、タワーを「解体待ちの粗大ゴミ」として所有権を主張することにした。


「おーい、レナ、エリス。晩飯にしよう」


 カイトは下に向かって声をかけた。


「今日は祝勝会だ。とっておきの缶詰を開けるぞ」

「はいっ! 直ちに準備します!」

「お祝いですね! コーラも解禁ですか!?」


 二人が嬉しそうに家の中へ駆けていく。

 カイトは最後に、もう一度タワーを見上げた。


「……あの鉄骨、全部僕の所有物ってことでいいよね? だって僕が『直した』んだし」


 ジャイアニズム全開の理屈で頷くと、彼は部屋へと戻っていった。


 夕日が沈む。

 赤と白の鉄塔が、長い影を大地に落とす。

 それは、かつて東京を照らした電波塔であり、今はカイトの「絶対的な支配圏(資材置き場)」を示す、巨大なくさびとして、静かにそこに在り続けるのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ