第45話:鉄骨への回帰
俺の視界には、現実の風景の上に重なるようにして、半透明のステータスウィンドウが浮かんでいた。
【対象:S級捕食都市型生命体】
【構成物質:変異性タンパク質、有機酸、未知のDNA配列……】
「やれやれ。ウイルスだらけのファイルだな」
俺はスマホの画面を見ながら、ため息をついた。
目の前の怪物は、地球が作り出した免疫システムだ。
だが、俺の領域に入った以上、その定義は俺が決める。
俺はメニュー画面をフリックした。
【編集(Edit)】から【材質変更】を選択。
検索窓に『Tokyo Tower』と入力する。
検索結果:1件ヒット。
クラウド上のアーカイブ(俺の記憶データ)から、かつての設計図と材質データが呼び出される。
「プリセット読み込み」
俺は淡々と設定していく。
【主素材:SS400(一般構造用圧延鋼材)】
【塗装:インターナショナル・オレンジ(航空法標準色)】
【状態:竣工時(新品)】
画面の下に、請求額が表示された。
『消費ポイント:500万MP』
俺の指が、ピクリと震えた。
500万。
ゴミ袋を何万枚売れば稼げる額だ?
風呂屋の番台に何年座れば回収できる?
「……俺の老後資金が」
胃が痛い。
だが、このまま放置すれば、家もコレクションも溶かされる。
背に腹は代えられない。
「まあいい。これだけの質量の鉄だ。あとでスクラップにして売れば、元は取れるはずだ」
俺は自分にそう言い聞かせ、震える親指で【実行(Execute)】ボタンをタップした。
「上書き保存!」
◇
ザガンは、信じられない光景を目撃していた。
カイトの指先から放たれた青い光のグリッドが、猛烈な勢いでタワーを駆け上がっていく。
根元から、頂上へ。
光の格子が通過した場所から、世界の理が書き換わっていく。
「な……なんだ!?」
ザガンが叫ぶ。
タワーの足元。
大地をえぐっていた無数の触手が、一瞬にして動きを止めた。
ジュワッ。
触手の表面から、赤黒いぬめりが蒸発する。
柔らかく脈打っていた肉が、急速に乾燥し、ひび割れていく。
「石化魔法か!? いや、質感が違う……!」
石ではない。
ひび割れた肉の下から現れたのは、鈍い銀色の輝き。
鉄だ。
グネグネと曲がっていた触手が、直線的な「H型鋼」へと矯正されていく。
不規則な膨らみが、正確無比な「リベット(鋲)」の列へと変わる。
ヴォォォォォ……!
タワーが咆哮した。
自分の体が、自分のものでなくなっていく恐怖。
細胞の一つ一つが、無機質な物質へと置換されていく激痛。
怪物は必死に身をよじり、抵抗しようとした。
だが、その断末魔すらも、変質していく。
「ヴォォ……キィィ……キギギギッ……!」
声が変わる。
声帯が鉄に変わり、肺が空洞に変わる。
喉の震えが、金属板の振動へと置き換わる。
キィィィン……ガガガッ……ゴウッ!
それは生物の悲鳴ではなかった。
巨大な金属の塊が擦れ合う、乾いた「きしみ音」。
数万トンの質量が、物理法則に従って固定される時の、重厚な工業音。
ザガンは耳を塞いだ。
怖い。
目の前で起きている現象が、理解の範疇を超えている。
これは殺害ではない。「存在の書き換え」だ。
青いグリッドは止まらない。
展望台へと達する。
巨大な濁った眼球が、ギョロリとカイトを睨んだ。
その瞳が、カッと見開かれる。
パリンッ。
眼球がガラスに変わった。
白濁した水晶体が、透明度の高い強化ガラスのフロアへと精製される。
視神経がケーブルに変わり、まぶたが鉄枠に変わる。
「……目が、窓になった……?」
ザガンは腰を抜かしたまま、ただ呆然と見上げるしかなかった。
怪物が、建物に戻っていく。
いや、本来あるべき姿へと、強制的に「治療」されている。
そして、色彩が戻る。
血のようなドス黒い赤色が消え去り、鮮やかなツートンカラーが空に浮かび上がる。
「インターナショナル・オレンジ」と、「白」。
航空法に基づき、昼間の視認性を高めるために定められた、文明の色。
錆も、カビも、汚れも一切ない。
1958年の竣工当時そのままの輝きを取り戻した、巨大な鉄の塔。
その姿は、荒廃し、腐りきったこの世界においてあまりにも異質だった。
直線と、幾何学構造の美学。
人間が自然を征服し、空を目指した時代の墓標。
あまりにも、美しかった。
◇
キィン……。
最後の電子音が響き、グリッドが頂上のアンテナ(避雷針)から抜けた。
光が弾けて消える。
完了。
そこには、夕日に照らされた「東京タワー」が、静かに佇んでいた。
微動だにしない。
呼吸もしない。
ただの、巨大な建造物。
風が吹く。
かつては肉の壁に阻まれていた風が、今はスカスカになった鉄骨の隙間を通り抜けていく。
ヒュオォォォ……。
乾いた風切り音だけが、戦場に響き渡る。
「…………」
誰も声を発せなかった。
逃げ惑っていた政府軍の兵士たちも、プレハブから顔を出した避難民たちも、全員が口を開けてポカーンとしている。
「怪物を……殺したのか?」
「いや……『建物』に戻したのか……?」
「あんな魔法、聞いたことがない……」
それは、魔法を超えた「神の御業」に見えた。
荒ぶる神を鎮め、聖なる柱へと変えた奇跡。
恐怖は消え、代わりに圧倒的な畏怖が人々の心を支配した。
だが。
当の本人は、ベランダで淡々と作業を終えていた。
「……ふぅ」
カイトはスマホの画面を確認する。
『処理完了。エラーなし』
彼は満足げに頷き、スマホをポケットにしまった。
「やっぱり、直線はいいな」
彼はうっとりとタワーを見上げた。
あの三角形の集合体(トラス構造)。力学的合理性の塊。
グネグネした触手なんかより、よほど見ていて心が落ち着く。
そして、彼の視線はすぐに「実利」へと向いた。
「高さ333メートル。鋼材重量、およそ4000トン」
カイトはニヤリと笑った。
その笑顔は、世界を救った英雄のものではない。
解体現場で、転がっている鉄屑の山を見たスクラップ業者の顔だ。
「これ全部、SS400鋼(一般構造用圧延鋼材)だよな? しかも新品同様」
この世界の鉄は腐食しているため、純粋な鋼鉄はレアメタル以上の価値がある。
それを、自分で生成(1キロ10ポイント)するのではなく、ここにある現物を切り出して使えば……。
「ガレージの増築に使おう。いや、地下倉庫の拡張もできるな」
「展望台はガラス張りだし……『空中展望浴場』に改装するのもアリか」
夢が広がる。
8億ポイントの出費は痛かったが、この巨大な「資材の山」が手に入ったと思えば、悪い投資ではない。
「さて」
カイトは伸びをした。
人々が地面に額を擦り付けて祈っている中、彼は一人だけ、タワーを「解体待ちの粗大ゴミ」として値踏みしていた。
「あの鉄骨、全部僕の所有物ってことでいいよね? だって僕が『直した』んだし」
ジャイアニズム全開の理屈で、彼は世界遺産級の建造物を私物化することを決定した。
夕日が沈む。
赤と白の鉄塔が、長い影を大地に落とす。
それは、カイトの「絶対的な支配圏」を示す、巨大な楔のようにも見えた。




