第44話:スキル【領域拡張】発動
目の前には、世界の終わりが迫っていた。
高さ333メートルの赤黒い肉塊。旧・東京タワー。
頭上からは、全てを溶かす酸の雨が降り注ごうとしている。
山麓の査察官ザガンは、泥にまみれて泣き叫び、避難民たちは絶望に祈りを捧げている。
当然の反応だ。生物としての格が違いすぎる。
だが、ベランダに立つ俺、柏木カイトが見ていたのは、怪物ではなかった。
手元のスマートフォンだ。
起動しているのは「資産管理アプリ(自作)」。
「……はぁ」
俺は深く、重いため息をついた。
画面に表示された数字を見つめる。
【現在保有ポイント:9億8765万MP】
凄まじい数字だ。
これは、俺がこの世界に来てから、コツコツと貯め込んできた血と汗の結晶だ。
レナが持ち帰った魔石を換金し。
ゴミ袋を高値で売りつけ。
避難民たちから毎日の家賃を徴収し。
風呂上がりの牛乳代をチャリンチャリンと稼いだ。
すべては、いつか完全に働かなくてもいい「究極の不労所得生活」を送るための老後資金だった。
「塵も積もれば山となる。……いや、ゴミ袋が金山になっただけか」
俺は顔を上げ、目の前の巨塔を睨んだ。
この怪物をどうにかするには、通常の【クラフト】では範囲が足りない。
庭先をいじるレベルではなく、地図そのものを書き換える規模の干渉が必要だ。
それには、莫大なコストがかかる。
「……8億、か」
試算結果が出ている。
俺の貯金の、八割以上が吹き飛ぶ計算だ。
手が震える。
タワーへの恐怖ではない。
「金が減る」という、小市民的な激痛に身悶えしているのだ。
だが。
俺はポケットの中にある「折れたツインテール(フィギュアの破片)」の感触を確かめた。
「……許せねぇ」
金はまた稼げばいい。剛田やザガンからふんだくればいい。
だが、限定版のフィギュアは二度と戻らない。
そして何より、俺の平穏なティータイムを邪魔し、あまつさえ日当たりを遮ろうとするその図体が気に入らない。
「フィギュアの弔い合戦だ。……持ってけドロボー!」
俺は親指に力を込め、画面上のアイコンをタップした。
【ワールド・クラフト(拡張モード):起動】
◇
フォンッ……。
俺の視界にだけ、世界が変わった。
現実の風景の上に、半透明のUIが重なる。
3DCG作成ソフトの編集画面のような、デジタルな空間。
「範囲指定(ドラッグ&ドロップ)」
俺はスマホの画面をスワイプした。
指の動きに合わせて、現実空間に「青い光の枠」が出現する。
始点は、俺が立っているベランダのフェンス際。
そこから、光の線が前方へと爆発的に伸びていく。
シュババババッ!!
光線は森を駆け抜け、酸の雨を切り裂き、3キロメートル先まで到達する。
次は高さだ。
俺は指を上へ弾いた。
ズオォォォッ!
光の枠が空へと伸びる。
高さ500メートル。
333メートルのタワーが、頭のてっぺんまで余裕ですっぽりと収まる巨大な直方体。
「……座標固定。干渉オブジェクト、全選択」
俺は虚空に向かって指を動かし、タワーを「囲った」。
その様子を下から見ていたザガンは、涙でぐしゃぐしゃになった顔で空を見上げた。
「カ、カイト……? 何をしている……?」
彼には、カイトが何もない空に向かって、奇妙な手つきで何かを描いているようにしか見えない。
「祈っているのか……? 死を前にして、神に……?」
違う。
祈りなどという曖昧なものではない。
これは「設定」だ。
俺は画面上の最終確認ボタンに指をかけた。
『消費ポイント:8億5000万MP。実行しますか?』
「……チッ。高いな、ちくしょう」
俺は悪態をつきながら、そのボタンを押し込んだ。
「承認!」
キィィィィィィン……!!
世界に、耳鳴りのような高周波音が響き渡った。
魔力の爆発音ではない。
世界を構成するデータが、強制的に書き換わる時の「処理音」だ。
俺の指先から、奔流となって「光」が噴き出した。
レーザーのような青白い光の線――ワイヤーフレーム。
それが、俺が指定した3キロ四方の空間を、猛烈な勢いで浸食していく。
格子状の光が、地面を走り、空を覆う。
世界が「青いグリッド」に閉じ込められていく。
「な、なんだこれは!?」
ザガンが叫ぶ。
彼らの周囲の風景が、一変していた。
腐った森も、泥沼も、全てが青いデジタルな線で構成された空間に取り込まれている。
そして、物理法則が上書きされた。
ピタリ。
空中で、何かが止まった。
タワーの口から吐き出され、降り注いでいた「酸の雨」だ。
何千、何万という黄色い雫が、空中で静止している。
「雨が……止まった?」
いや、違う。
カイトの視界では、その雨粒の一つ一つに『属性:有害液体』というタグが表示され、『処理:無効化』のコマンドが適用されているのだ。
ジュワッ。
空中で静止していた酸の雨が、青い光に変換され、ただの「水(H2O)」へと分解されて地面に落ちた。
ポツポツと優しい雨音が響く。
もはや装甲を溶かす毒ではない。
ヴォォォォォォッ!!
タワーが咆哮した。
異変を感じ取ったのだ。
自分の領域が、他者のルールによって塗り潰されようとしていることに。
タワーは反撃に出た。
根元から無数の触手が槍のように伸び、カイトの家を粉砕しようと殺到する。
ヒュンッ!
数百メートルの触手が、音速で迫る。
だが、カイトは身じろぎもしない。
スマホの画面を、軽くタップしただけだ。
ガガガガッ!
触手が、家の手前50メートル地点で、見えない壁に激突したかのように停止した。
いや、壁ではない。
触手の先端が、青いグリッドに触れた瞬間、ポリゴンのように分解され、静止画のように固まったのだ。
「無駄だよ」
カイトは冷ややかに告げた。
「僕の庭に入ったな。ここからは、僕が管理者だ」
この青いグリッドの内側では、地球の法則は適用されない。
生物としての強さも、質量も、魔力も関係ない。
あるのは、カイトが保有する「ポイント」と「編集権限」だけ。
「暴れても無駄だ。君はもう、生き物じゃない」
カイトは、空を覆う巨大な檻――編集領域を見上げた。
その中で、333メートルの巨体が、バグったゲームキャラのように痙攣し、身動きが取れなくなっている。
「ただの『背景オブジェクト』だ」
ザガンやレナたちが、口をあんぐりと開けて空を見上げている。
現実離れした光景。
世界が青い格子に覆われ、S級災害が無力化されている。
カイトは、スマホのメニュー画面を開いた。
そこに表示されているのは、攻撃魔法のリストではない。
「編集」「削除」「コピー」「材質変更」といった、無機質なツール群だ。
「さて」
カイトは指を鳴らした。
8億5000万ポイントの請求書が確定する。
胸が痛むが、それに見合うだけのショーを見せてもらおう。
「鉄骨に戻って、反省してもらうよ」
カイトの指が、【材質変更】の項目を選んだ。
それは、世界を「あるべき姿」へと強制的にロールバックさせる、神の御業だった。




