第43話:影が落ちる時
午後三時。
本来であれば、太陽が最も高く輝き、世界を照らす時間帯だ。
だが、聖域の上空から、急速に光が失われていった。
「……あ、あぁ……」
山麓でへたり込んでいた査察官ザガンは、震える顎を抑えながら空を見上げた。
太陽が消えたのではない。
雲が湧いたのでもない。
巨大な「影」が、彼らを飲み込んだのだ。
ズゥゥゥゥン……。
世界そのものが軋むような音がして、巨大な足が止まった。
聖域のフェンスの目と鼻の先。
そこに、333メートルの肉の壁がそびえ立っていた。
「ひぃ……ッ!」
ザガンは悲鳴すら上げられなかった。
近すぎる。
見上げると首が痛くなるほどの高さ。視界のすべてが赤黒い筋肉繊維と、脈動する血管で埋め尽くされている。
圧倒的な質量。
生物としての「格」の違いを、本能レベルで理解させられる。
ボタボタ、ボタボタ……。
頭上から、何かが雨のように降り注いできた。
粘液だ。
タワーの全身から分泌される体液が、滝のように山麓の森へと降り注ぐ。
ジュワァァァ……!
粘液に触れた木々が、白煙を上げて溶解していく。
太い幹が飴細工のように崩れ、岩が泥のように溶ける。
強酸性。
ただ存在しているだけで、周囲の環境を死滅させる、歩く汚染源。
「お、終わりだ……」
ザガンは涙を流した。
こんなものが目の前に来て、助かるはずがない。
カイトの結界がどれほど強固でも、この質量で押し潰され、酸で溶かされればひとたまりもないだろう。
これは戦争ではない。災害ですらない。
ただの「捕食」だ。
その時。
タワーから、新たな音が響いた。
ギチギチ……ボコッ、ボコッ。
タワーの表面。かつて展望台があった場所や、鉄骨の継ぎ目だった部分が、醜く隆起し始めた。
肉が裂ける。
パックリと開いたのは、無数の「巨大な口(開口部)」だった。
「……ッ!?」
ザガンが息を呑む。
何十、何百という口。その中には、不揃いの乱杭歯がびっしりと並び、奥には煮えたぎる消化酵素の海が見える。
シュゴォォォォ……。
口から、黄色い霧が噴き出した。
猛毒のガスだ。
それが上空で湿気と混じり合い、黄色い雲を形成していく。
ポツリ。
ザガンの頬に、黄色い雫が落ちた。
ジッ。
「あつッ!?」
焼けるような痛み。
見れば、雫が落ちた頬の皮膚がただれている。
「さ、酸の雨だ……!」
ザガンは絶望に叫んだ。
これから降るのは、ただの雨ではない。全てを溶かし尽くす「溶解の雨」だ。
戦車の装甲も、プレハブの屋根も、そして人間の骨さえも残らないだろう。
「逃げ場なんてない……! 世界は終わったんだぁぁぁ!」
ザガンは泥に顔を埋め、子供のように泣き叫んだ。
政府の高官としてのプライドも、大人としての威厳も、圧倒的な死の前には塵に等しい。
ただ、溶かされるのを待つだけの肉塊。それが今の自分たちだ。
――その時だった。
ガラッ。
地獄のような轟音と悲鳴の中に、あまりにも場違いな音が混じった。
軽快で、日常的な音。
アルミサッシの窓を開ける音だ。
「……え?」
ザガンが顔を上げる。
音の発生源は、頭上。
白い家の、2階ベランダだ。
そこに、一人の男が立っていた。
Tシャツに短パン。足元はサンダル。
まるで休日の昼下がりに、ふらりと涼みに来たような格好のカイトがいた。
彼は手すりに寄りかかり、目の前に迫る「世界の終わり(タワー)」を見下ろす……ことはしなかった。
彼は、不機嫌そうに「空」を見上げていた。
「チッ……」
カイトが舌打ちをする。
その手には、スマートフォンが握られている。
彼は画面をタップし、何かのアプリを起動していた。
「カ、カイト……?」
ザガンは震える声で呼んだ。
正気か?
目の前に怪物がいるのに、なぜスマホを見ている?
遺書でも書いているのか?
「き、貴様、何をしている! 早く地下シェルターへ……!」
ザガンの叫び声に、カイトがちらりと視線を向けた。
だが、すぐに興味なさそうに画面に戻る。
「うるさいな。今、計算してるんだよ」
「け、計算……?」
カイトはスマホの画面――『日照シミュレーターアプリ』の結果を見て、深くため息をついた。
「やっぱりだ。今の時期、この角度(東南東)に遮蔽物があると、夕方の直射日光が遮られる」
「は……?」
ザガンは耳を疑った。
何を言っているんだ、こいつは。
カイトはベランダから身を乗り出し、眼下の庭を指差した。
そこには、彼が丹精込めて作った家庭菜園がある。
そして、物干し竿には、レナが干した洗濯物が並んでいる。
「見ろよ。トマトの苗が影に入ってるだろ」
カイトは、親の仇を見るような目でタワーを睨んだ。
「トマトは日光を好むんだ。昨日、高い肥料をやったばかりなんだぞ。それに、せっかく干したシーツが乾かないじゃないか」
それが、彼の怒りのすべてだった。
人類の存亡? 国家の危機?
そんなものはどうでもいい。
彼にとって許せないのは、「自分の平穏な生活リズム(ルーティン)を乱されること」。
ただそれだけだ。
カイトはスマホを握り直し、冷徹に宣告した。
「おい、デカいの。そこは僕の『日照権』の範囲内だ」
彼の全身から、静かだが、質量を持った殺気が立ち昇る。
「立ち退き勧告はしない。……即時撤去だ」
カイトの指が動く。
アプリを閉じ、別のアイコン――【ワールド・クラフト】をタップする。
その顔に恐怖は微塵もない。
あるのは、近隣の騒音トラブルにブチ切れた住民の「正当なる権利主張」だけ。
だが、そのクレーム処理の方法は、あまりにも過激で、神の領域に踏み込んだものだった。
「……消えろ」
カイトが画面をスワイプした瞬間、スマホが青白く発光した。
世界を書き換える準備が整ったのだ。
ザガンは、ただ口を開けて見上げることしかできなかった。
酸の雨が降り注ぐ中、スマホ片手に巨神に喧嘩を売る、ジャージ姿の男の背中を。




