第40話:都市が歩き出す
赤と白の鉄塔。
高さ333メートル。
「旧・東京タワー」。
だが、俺の知っている鉄塔とは決定的に違っていた。
鉄骨のトラス構造は、赤黒い筋肉と軟骨に変質している。
美しい末広がりの脚部は、無数の「根」のような触手に変わり、ナマコのように蠢きながら大地を削り取っている。
ズゥゥゥン……!
根が地面に突き刺さり、引き抜かれるたびに、マグニチュード5クラスの振動が発生する。
二つの展望台は、巨大な白濁した「眼球」となり、ギョロギョロと不規則に回転しながら世界を睥睨していた。
先端のアンテナからは、フェロモンのような赤い霧を噴射している。
それは建造物ではない。
直立歩行する、超巨大な捕食者だ。
「ヒッ……!?」
ザガンが腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
口ひげが震えている。
人類にとっての悪夢。
「S級指定災害・捕食都市型モンスター」。
それが意思を持って、進撃を開始したのだ。
そして、その進行方向は――。
「……真っ直ぐ、こっちに来るな」
俺は冷ややかに呟いた。
偶然ではない。迷いがない。
あの巨大な目玉は、明確にこの「白い家」をロックオンしている。
俺は手元のタブレット端末を確認した。
画面には、真っ赤な警告ウィンドウが表示されている。
『システム警告:惑星免疫機構の活性化を確認』
【対象:特異点(カイトの家)】
「なるほど。そういうことか」
俺は納得した。
地球という巨大な生命体から見れば、肉化していない俺の家は「癌細胞」や「皮膚に刺さったトゲ」のような異物だ。
世界中が有機物になろうとしている中で、唯一「無機物」を保ち続けるこの場所。
それを排除するために、白血球――つまりあのタワーを送り込んできたのだ。
これは、災害ではない。
地球規模の「治療行為(異物排除)」だ。
「た、隊長! 逃げましょう! 踏み潰されます!」
「退避! 総員退避ぃぃッ!」
政府軍の規律は崩壊した。
戦車が、捕食者のプレッシャーに耐えきれず、制御不能になって勝手にUターンを始める。
恐怖に駆られた兵士たちが、我先にと逃げ出していく。
「ま、待て! 私を置いていくな!」
ザガンが泥まみれになって叫ぶ。
彼は俺の足元にすがりついた。
「き、貴様! 早く結界を解け! この家を囮にして、我々は逃げるぞ!」
「は?」
「わからんのか! 奴の狙いはこの異質な空間だ! ここを食わせている間に、聖女様を連れて撤退するんだ!」
軍事的には、極めて合理的な判断だろう。
勝てない敵からは逃げる。被害を最小限に抑えるために、拠点を放棄する。
国家の存亡を考えれば、正しい選択だ。
だが。
「断る」
俺は即答した。
「貴様、正気か!? あんな化物に勝てるわけがない! 死ぬぞ!」
「死ぬ?」
俺は鼻で笑った。
「ここを捨てて、外へ逃げろって? あの湿度90%の森へ?」
「い、命があればいいだろう!」
「よくないね。泥水をすすって、カビだらけの服を着て、虫に怯えながら生き延びる? ……それは『生』じゃない。ただの『苦役』だ」
俺はベランダの手すりに寄りかかり、迫りくる333メートルの絶望を見据えた。
俺の背後には、白いサイディングの家がある。
中には、涼しいリビングがあり、冷えたコーラがあり、読みかけの漫画がある。
ふかふかのベッドがあり、温かいシャワーがある。
もし逃げれば、それらは全て踏み潰される。
汚い胃酸で溶かされ、永遠に失われる。
ピキッ。
俺の手の中で、マグカップにヒビが入った。
「……ふざけるなよ」
恐怖?
そんなものはない。
湧き上がってきたのは、静かで、しかし溶岩のように熱い、憤怒だった。
「捨てるわけないだろ。ローン(魔石払い)も終わってないのに」
俺はスマホを構えた。
画面には、【ワールド・クラフト】の起動アイコン。
「おい、赤いの。……僕の庭の日当たりを遮るなよ」
それは、近所迷惑にブチ切れた住民のクレームだった。
だが、そのクレームの威力は、戦車の砲撃よりも遥かに重いことを、世界はまだ知らない。
333メートルの質量に対し、たった170センチの人間が喧嘩を売った瞬間。
最後の防衛戦が、幕を開けようとしていた。




