第4話:フローリングの硬度について
目の前にあるのは、どこにでもある変哲もない玄関ドアだ。
LIXILか、YKK APか。日本の建売住宅で標準装備されているような、断熱仕様のアルミドア。
だが、今の俺にとって、それはミスリル銀で作られた城門よりも神々しく見えた。
俺は恐る恐る、ドアノブに手を伸ばした。
ステンレス製の、ヘアライン仕上げが施された銀色のレバーハンドル。
指先が触れる。
「……っ」
冷たい。
そして、ぬるりと滑らない。
分子が密に結合した金属特有の、拒絶的とも言える硬さ。
外の世界にあるものは、すべてが生温かく、湿っていて、触れれば吸い付くような粘着質を持っていた。
だが、これは違う。
俺の体温を奪い、俺の指紋を弾く。
その冷徹なまでの「物質感」が、俺の背筋を震わせるほどの快感を与えた。
俺は鍵を持っていない。
だが、この家は俺のスキル【無機物保存】によって生成された俺の領域だ。
俺がノブを握った瞬間、所有者認証が完了する。
ガチャリ。
乾いた金属音が響いた。
ラッチボルトがストライクから外れ、バネが収縮する音。
外の世界の音――グチャ、ドロロ、ギチギチといった生理的不快音とは対極にある、精密加工された工業製品の音。
俺はその「ガチャリ」という一音だけで、脳髄がとろけるようなASMR(自律感覚絶頂反応)を感じた。
何度も聞きたい。録音して、寝る前にずっと聞いていたい音だ。
俺はゆっくりとレバーを押し下げ、ドアを引いた。
プシュッ。
気密ゴムパッキンが剥がれ、空気が動く音がした。
室内の気圧がわずかに下がり、外気が吸い込まれる。
俺は慌ててドアの隙間に体を滑り込ませ、すぐに閉めた。外の汚れた空気を、これ以上入れたくなかったからだ。
バムッ、という重厚な閉鎖音と共に、世界が遮断された。
「……」
俺は、土間のコンクリートの上に立ち尽くした。
暗い。まだ電気は通っていないからだ。
だが、玄関の空気は劇的に違っていた。
匂いが、ない。
生ゴミのような腐臭も、鉄錆の血の臭いも、甘ったるい消化液の臭気もしない。
漂っているのは、新品のクロスの糊の匂いと、建材の微かな化学臭だけ。
無臭。無菌。
俺にとって、それは世界最高級の香水よりも芳しかった。
肺いっぱいに吸い込むと、体の中の汚染物質が浄化されていくような錯覚を覚える。
俺は視線を足元に落とした。
自分の靴を見る。
泥と粘液、そして何かの糞で汚れた、ボロボロのトレッキングブーツ。
レインコートには、得体の知れない緑色の体液がこびりついている。
「……こんなもの、持ち込めるか」
俺は躊躇なく靴を脱ぎ捨てた。
いや、それだけでは足りない。
レインコートを脱ぎ、中のシャツを脱ぎ、ズボンを下ろす。
下着一枚になり、それすらも脱ぎ捨てた。
俺は全裸になった。
生まれたままの姿。
外の世界であれば、皮膚が露出した瞬間に蚊に刺されるか、空気中の胞子で肺をやられる自殺行為だ。
だが、ここでは違う。
この「無防備さ」こそが、安全の証明だ。
俺は汚れた装備一式を土間の隅に蹴りやり、目の前の段差――「上がり框」を見つめた。
高さ二十センチほどの段差。
その向こうに広がるのは、薄暗闇に沈む廊下。
複合合板のフローリングだ。
俺はゴクリと唾を飲んだ。
聖域への第一歩。
右足を上げる。上がり框を超え、フローリングの上へ。
着地。
「……!」
足の裏に伝わる衝撃。
その瞬間、俺は感動で膝が震えそうになった。
沈まない。
1ミリたりとも、沈まないのだ。
外の地面は「胃壁」だった。
歩くたびに「ムニュ」と沈み込み、足首を包み込もうとしてきた。常に不安定で、平衡感覚を狂わせる柔らかい地面。
だが、この床は違う。
作用・反作用の法則。
俺がかけた体重を、物理法則通りに、床が完璧に押し返してくる。
たわまない。揺らがない。
俺の体重六十キロを、微動だにせず支え切る剛性。
「硬い……」
俺は左足も上げた。
全身で廊下に上がる。
ペタ、ペタ、という素足の音が響く。
俺はその場に四つん這いになった。
そして、耐えきれずに突っ伏した。
頬を、フローリングに押し付ける。
ひんやりとした熱伝導。
俺の火照った頬から、急速に体温が奪われていく。
その冷たさが、オーバーヒートしそうだった脳を心地よく冷却してくれる。
さらさらとしていて、ベトつかない。
ワックスの効いた表面は滑らかで、摩擦係数が低い。
「……平らだ。水平だ……」
俺は床を撫で回した。
継ぎ目も、節も、すべてが工業的に管理された平面。
でこぼこの血管もなければ、脈打つ筋肉もない。
涙が溢れた。
ポタリ、と床に涙が落ちる。
その涙すら、床は吸い込まなかった。
表面張力で丸い粒となり、床の上に留まっている。
外の地面なら、水分は即座に吸収され、栄養として取り込まれていただろう。
だが、この床は俺を拒絶してくれる。
「お前は俺の一部ではない」と、冷徹に線を引いてくれる。
その冷たい拒絶こそが、今の俺には最高の優しさだった。
個としての輪郭を保てる場所。
俺が俺でいられる場所。
「ただいま……」
俺はフローリングに頬ずりしながら、嗚咽を漏らした。
「ただいま。僕の文明。……会いたかった」
しばらくの間、俺は全裸で床と愛し合っていた。
変質者と言われても構わない。
この硬度、この水平性、この乾燥こそが、俺が命がけで求めた宝なのだから。
◇
どれくらいそうしていただろうか。
日が完全に落ち、家の中は漆黒の闇に包まれていた。
だが、その闇は外のそれとは違う。
モンスターの眼光が光る闇ではない。
静謐で、管理された闇だ。
俺は仰向けのまま、虚空に手を伸ばした。
指先をスワイプさせる動作をする。
フォン、と淡い光と共に、空中に半透明のウィンドウが浮かび上がった。
スキル【無機物保存】の管理画面だ。
デザインは洗練されたスマホのUIに似ている。
「まずは……明かりだ」
メニュー画面をタップする。
【設備管理】
> 電力供給(OFF)
> 上下水道(OFF)
> ガス(OFF)
すべてがオフになっている。
俺は【電力供給】の項目をタップした。
『警告:電力を復旧しますか? 維持コスト:毎時5MP』
MPとは、俺自身の魔力だ。
今の俺のMP残量は、覚醒直後のせいでギリギリだ。
だが、迷いはなかった。
「ON」
俺はボタンをタップした。
その瞬間、頭の芯がズンと重くなる感覚。
俺の生命力の一部が吸い上げられ、電圧へと変換される。
パッ。
リビングの天井にあるシーリングライトが点灯した。
「うっ、まぶし……」
俺は目を細め、手で顔を覆った。
蝋燭の揺れる火でも、バイオライトの不気味な青光でもない。
LEDの昼白色。
フリッカー(ちらつき)のない、圧倒的な定常光。
明るい部屋に浮かび上がったのは、何もない空間だった。
白いクロスが貼られた壁。
明るい木目のフローリング。
家具はまだない。
だが、その「何もない箱」が、宝石箱のように輝いて見えた。
俺は眩しさに目を細めながら、心からの笑みをこぼした。
闇を払うのに、聖なる魔法も、松明もいらない。
スイッチひとつ。
ただそれだけで、夜を昼に変えられる。
「電気がある。……文明が生きてる」
俺は全裸のまま立ち上がり、光に満ちたリビングを見渡した。
勝利だ。
俺は、この腐った世界の一角に、光の杭を打ち込んだのだ。
次は、水だ。
喉が渇いた。それに、ベトベトした汗を洗い流したい。
俺は再びウィンドウを操作し、【水道契約】のボタンに指をかけた。
「さあ、生き返る時間だ」




