第38話:大浴場とコミュニティの形成
プレハブアパートの建設により、山麓のスラム化は防がれた。
避難民たちは雨風を凌げる寝床を得て、ようやく安眠できるようになったようだ。
だが、問題はすべて解決したわけではなかった。
「……まだ、臭うな」
俺、柏木カイトは、自宅の2階ベランダから風の匂いを嗅ぎ、眉をひそめた。
漂ってくるのは、饐えたような酸っぱい臭気。
長年風呂に入らず、泥と垢にまみれて生きてきた人間特有の体臭だ。
この世界には「入浴」の習慣がない。
水は貴重だし、野外で裸になるのは自殺行為だからだ。
だが、俺の管理する領地(敷地)で、その不衛生さは看過できない。
「住民の衛生レベルは、領地の民度そのものだ。あんな状態で密集して暮らせば、シラミや皮膚病が蔓延する」
「そして、その病原菌が風に乗って僕の家まで飛んできたら……最悪だ」
俺は決断した。
これは慈善事業ではない。
俺自身の快適な引きこもりライフを守るための、防衛策だ。
「作るか。……日本人の魂の還る場所を」
俺はタブレット端末を操作し、建設メニューを開いた。
場所は、居住区の中央広場。地下水脈の真上だ。
【建設:公衆衛生施設】
> スーパー銭湯(中規模・サウナ付き)
タップ。
青いグリッドが走り、新たなランドマークが誕生する。
◇
突如として出現した建物に、避難民たちはどよめいた。
「なんだ、あれは……?」
「煙突から煙が出ているぞ? 工場か?」
白と水色のタイルで覆われた、清潔感あふれる平屋建て。
入り口には、紺色の暖簾が掛かっている。
染め抜かれた文字は「ゆ」。
異世界人には読めない文字だが、その曲線的なデザインはどこか優しげに見えた。
俺は拡声器(スキルで音量を上げている)を使って、アパートの住民たちに告げた。
『住民諸君に通達する。本日より、この施設を開放する』
『ただし、入居条件を追加する。「常に清潔を保つこと」だ。週に最低三回、この施設を利用し、体の汚れを落とせ。従わない者は退去処分とする』
強制力のある命令。
人々は顔を見合わせた。
「体を洗う」? そんな貴族のような贅沢を、平民がしていいのか?
彼らは恐る恐る、暖簾をくぐった。
◇
中に入った瞬間、彼らは足がすくんだ。
「す、涼しい……!」
脱衣所は、業務用の大型エアコンが効いていた。
そして、目の前に広がる光景。
整然と並ぶスチール製のロッカー。
床はピカピカに磨き上げられたリノリウム。
埃ひとつ落ちていない。
壁には大きな鏡があり、自分たちの薄汚れた姿を残酷なまでに映し出している。
「こ、こんな綺麗な床を、俺たちの足で踏んでいいのか……?」
「泥で汚してしまう……!」
彼らは躊躇した。
だが、番台(管理室)に座る俺の目が光っている。
「さっさと脱げ。服はそこの『全自動洗濯乾燥機』に放り込め。出る頃には乾いてる」
俺に促され、男たちは泥だらけの服を脱ぎ捨てた。
全裸になり、浴室へのガラス戸を開ける。
ムワッ。
濃厚な湯気。
そして、強烈な「石鹸」の香り。
中は広かった。
壁一面に描かれた、雄大な富士山(ペンキ絵)の壁画。
床は、滑りにくい凹凸加工がされたタイル張り。
天井が高く、声が反響する。
『いいか、湯船に浸かる前に体を洗え。垢を一ミリでも残したら即退場だ』
館内放送が響く。
男たちは洗い場の前に座った。
見よう見まねでレバーを押す。
ジャーッ!
「うおっ!?」
「ゆ、湯だ! 温かい湯が、滝のように出てくるぞ!」
彼らは驚愕した。
この世界で湯を沸かすには、貴重な薪を大量に燃やすか、火魔法石を使わなければならない。
それが、レバーひとつで無限に出てくる。
しかも、備え付けの液体をスポンジにつけると、魔法のように白い泡が立ち、頑固な油汚れが溶けていく。
「落ちる……! 染み付いた泥が、落ちていく!」
「俺の肌は、こんな色をしていたのか……」
ゴシゴシと体を擦る音。
黒い汚水が排水溝に吸い込まれていく。
彼らは憑き物が落ちたように、一心不乱に体を洗い続けた。
そして、いよいよ「主浴槽」へ。
広大な浴槽には、なみなみとお湯が張られている。
透明度は抜群。底の水色のタイルが揺らめいて見える。
一人の老人が、震える足をお湯に入れた。
ビクッ、と体が跳ねる。
(煮えたぎる熱湯か? それとも酸のプールか?)
恐怖が一瞬よぎる。
だが、次に訪れたのは――
「……あぁ……」
極楽だった。
水温41度。
日本人が最もリラックスできる温度。
熱すぎず、ぬるすぎず。冷え切った骨の髄まで熱が染み込んでいく。
老人は肩まで浸かり、長いため息をついた。
「極楽じゃ……。ここは、極楽じゃ……」
その呟きが、引き金になった。
他の男たちも次々と湯船に入り、そして――泣き出した。
「うぅ……うぐっ……」
「あったけぇ……」
「俺たちは……人間だったんだ……」
大の大人たちが、顔をくしゃくしゃにして泣いている。
泥にまみれ、獣のように地べたを這いずり回っていた日々。
「清潔であること」を諦めていた絶望。
それらが、お湯の中に溶け出していく。
人間としての尊厳。
それを今、彼らは取り戻したのだ。
広い浴室に、むせび泣く声と、お湯が溢れる音だけが響き渡る。
それは異様な、しかし神聖な「集団カタルシス」の光景だった。
◇
風呂上がりの脱衣所。
扇風機の風が、火照った体を冷やしてくれる。
彼らの表情は一変していた。
血色が良くなり、目は輝き、肌はツヤツヤとしている。
彼らの視線が、ロビーの一角に釘付けになった。
白く光る箱――「自動販売機」だ。
番台に座る俺は、ニヤリと笑った。
ここからが本番だ。
「おい、そこの自販機。金貨は使えないぞ」
「え? では、どうすれば……?」
「『魔石』だ。お前らが外で狩ってきた、魔石を入れるんだ」
俺はシステムを解説した。
この自販機は、魔石をエネルギー源および通貨として認識する特別仕様だ。
一人の男が、なけなしの魔石(小)を投入口に入れた。
ピッ。
ボタンが光る。
彼は震える指で、一番端のボタンを押した。
ガコン。
取り出し口に落ちてきたのは、冷たい水滴がついた「ガラス瓶」。
中には、黄色がかった白い液体が入っている。
フルーツ牛乳だ。
男は紙の蓋を「ポンッ」と開けた。
腰に手を当て、一気に飲み干す。
「……ッ!!」
目が見開かれた。
「あ、甘い! 冷たい! 果実の香りと、ミルクの濃厚さが……!」
「なんだそれは! 俺にも買わせろ!」
「俺もだ!」
争奪戦が始まった。
コーヒー牛乳、イチゴ牛乳、そして冷えた炭酸水。
風呂上がりの乾いた喉に、冷たい甘味は暴力的なまでに効く。
俺は番台で、自分用のフルーツ牛乳を飲みながら、タブレットの数値を確認していた。
【回収魔石エネルギー:充填率120%】
「ククッ……。チョロいな」
俺はほくそ笑んだ。
【経済循環システム(エコサイクル)】の完成だ。
1.住民は、風呂と牛乳のために必死で外へ狩りに行く(魔石稼ぎ)。
2.集まった魔石は自販機や家賃として回収される。
3.俺はその魔石を燃料(MP)に変換し、風呂を沸かし、牛乳を生成する。
俺の懐は痛まない。
住民たちが働けば働くほど、俺のMP貯金が増え、領地の設備が充実していく。
永久機関だ。
俺は寝ているだけで、エネルギー長者になれる。
「領主様! 最高です! 明日もまた狩りに行ってきます!」
「もっと良い魔石を持ってくれば、あの『コーヒー牛乳』も買えるんですね!?」
住民たちは、希望に満ちた顔で俺に感謝している。
搾取されているとも知らずに。
いや、彼らにとっては、泥水のような日常から救い出してくれた俺は、まごうことなき救世様なのだろう。
「ああ、励めよ。働かざる者、飲むべからずだ」
俺は空になった瓶を木箱に戻した。カラン、といい音がする。
窓の外を見る。
アパートの明かりと、銭湯から立ち上る白い湯気。
かつての死の山は、今やひとつの小さな、しかし強固な「清潔な都市国家」として機能し始めていた。
風呂。
それは、日本人である俺が持ち込んだ、最強の統治システムだったのだ。




