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第36話:聖女、ジャンクフードに堕ちる

 空気清浄機という名の「祭壇」が、静かに稼働音を立てている。

 清浄な空気に満たされた第2客間(隔離病棟)で、聖女エリスはベッドの上に正座していた。


 肺の痛みは消えた。

 思考はクリアになり、視界も鮮明だ。

 これほど体が軽いのは、物心ついてから初めてのことだった。


「……生きているのですね、私」


 エリスは自分の手を見つめた。

 包帯の下の皮膚はまだ変色しているが、進行は止まっている。

 カイトが貸してくれた清潔な部屋着スウェットは、肌触りが良く、少し洗剤のいい匂いがした。


 その時だった。


 グゥゥゥゥ……。


 静寂な部屋に、間の抜けた音が響き渡った。

 エリスは顔を真っ赤にして、自分のお腹を押さえた。


「は、恥ずかしい……」


 考えてみれば、数日間まともな食事をしていない。

 いや、ここ数日どころではない。

 「聖女」としての彼女の食事は、過酷を極めていた。


 味のない薄い粥。

 干し草のようなパン。

 そして、「聖水」と称して飲まされる、微量の塩が混じっただけの水。


 『刺激物は精神を汚す』

 『清貧こそが祈りの力を高める』


 教会の教義により、彼女は生まれてから一度も「美味しいもの」を食べた記憶がなかった。

 食事とは、味気ない燃料補給でしかなかったのだ。


 ガチャリ。


 ドアが開いた。

 カイトが入ってくる。手にはお盆を持っている。


「目が覚めたか。顔色は……まあ、マシになったな」


 彼はベッドの脇に椅子を引き寄せ、お盆を置いた。


「腹、減ってるだろ? とりあえず何か胃に入れないとな」

「あ、ありがとうございます……。ですが、お気遣いなく」


 エリスは謙虚に首を振った。


「私は清貧を旨とする身。パンの耳か、お粥があれば十分です。贅沢は、心を腐らせますから」


 それは本心からの言葉だった。

 だが、カイトは「はあ?」という顔をした。


「何言ってんだ。病み上がりだぞ? カロリー摂らないでどうやって治すんだよ」

「いえ、ですが……」

「つべこべ言うな。俺が料理するのが面倒だったから、ありあわせのもの(備蓄)だ。文句言わずに食え」


 カイトは無造作に、サイドテーブルに「それ」を置いた。


 ガサッ。

 ドンッ。


 置かれたのは、黄金色に輝く巨大な袋。

 そして、黒い液体が入った透明なボトル。


「……え?」


 エリスは目を丸くした。

 見たことがない。

 袋には、異国の文字で『Potato Chips CONSOMME PUNCH』と書かれている。


 カイトが袋の口を開けた。


 バリッ!


 その瞬間。


「ッ……!?」


 エリスはのけぞり、鼻を押さえた。

 強烈な香りが、部屋中に爆発的に広がったのだ。


 肉のエキス。

 香草スパイスの刺激。

 揚げ油の香ばしさ。


 それらが渾然一体となった、暴力的なまでの「旨味」の香り。

 清貧な食事しかしてこなかった彼女の鼻腔を、その香りが蹂躙じゅうりんする。


「な、何ですかこれは……!? 毒……? いえ、『堕落のインセンス』ですか!?」

「お菓子だ」


 カイトは事もなげに言った。


「匂いだけで脳がクラクラします……! こんな刺激的なものを体に入れたら、私は……!」

「大げさだな。ほら、飲み物もあるぞ」


 カイトはボトルのキャップをひねり、コップに注いだ。


 シュワワワワ……!


 黒い液体が、不気味な音を立てて泡立つ。

 表面でパチパチと飛沫が弾けている。


「黒い……煮えたぎっています……! 呪いの秘薬ですね!?」

「コーラだ。炭酸ジュースだよ」


 カイトは呆れながら、袋の中から一枚の「黄金の薄片」をつまみ上げた。


「毒じゃない。科学の結晶だ。……ほら、口を開けろ」

「い、いけません! 聖職者がそのような……んぐっ!?」


 抵抗しようとしたエリスの口に、カイトは強引にチップスを放り込んだ。


 パリッ。


 乾いた音が、頭蓋骨に響いた。

 この世界には存在しない、完全乾燥した澱粉デンプン質の食感。


 そして、次の瞬間。

 エリスの世界が反転した。


「――――!!」


 舌の上で、パウダーが溶け出した。


 肉の旨味。

 野菜の甘み。

 そして、精製された純粋な塩分。


 MSG(グルタミン酸ナトリウム)。

 化学調味料という名の、人類が生み出した「味覚の兵器」。

 自然界の食材にはあり得ない濃度のアミノ酸が、彼女の未発達な味蕾みらいを直接殴りつけたのだ。


 ドクンッ!


 飢餓状態の脳が、その信号を受け取る。

 『栄養だ』『カロリーだ』『快楽だ』。

 脳内麻薬ドーパミンが、せきを切ったように溢れ出す。


「ん……んぅぅッ……!?」


 エリスは目を見開き、震えた。

 美味しい。

 いや、そんな言葉では足りない。

 脳の奥が痺れる。背筋に電流が走る。


 今まで自分が食べていたものは何だったのか。

 あれは餌だ。

 これが……これこそが、神の恵み(食物)なのではないか?


「ほら、喉が乾くだろ? これで流し込め」


 呆然とするエリスに、カイトは黒い水の入ったコップを握らせた。

 彼女は抵抗する術もなく、それを口に運んだ。


 ゴクリ。


 ビリビリビリッ!


「いたっ!? 痛いです!?」


 舌を刺す痛み。

 口の中で無数の小さな針が爆ぜたような刺激。

 だが、その痛みが引いた直後、強烈な甘みが押し寄せてきた。


 砂糖。カフェイン。カラメル色素。

 冷たくて、甘くて、痛い。

 そのカオスな液体が、喉の奥の油分を洗い流し、胃袋へと落ちていく。


 スッキリとした爽快感。

 そして、リセットされた舌が、再びあの「黄金の薄片」を求めて叫び声を上げる。


(もっと……。もっと、あのパリパリを……!)


 無限ループの完成である。


 ◇


 数分後。

 そこには、聖女の面影など微塵もない、一人の「中毒者ジャンキー」がいた。


 パリッ、ムシャムシャ。

 ゴクッ、プハァーッ!


「はぁ、はぁ……! 美味しい……! なんでしょうこれは……! 止まりません……!」


 エリスは袋を抱え込み、無心で手を突っ込んでいた。

 一枚では足りない。二枚、三枚と重ねて口に放り込む。

 口の周りはポテチの粉だらけだ。


 カイトは少し引いていた。


「おいおい、落ち着けよ。誰も取らないから」

「だって……! 牛一頭分の魂が、この一枚に凝縮されているような味がします!」

「コンソメパンチだからな」


 エリスは袋を逆さにし、底に溜まった欠片まで口に流し込んだ。

 そして、あろうことか。

 人差し指についたオレンジ色の粉を、チュパッと舐めた。


「……んっ」


 濃厚な味。

 彼女は我慢できず、十本の指を順番に舐めとった。

 行儀が悪い? 知ったことか。

 この粉こそが、本体なのだから。


 完食。

 エリスは空になった袋と、空のペットボトルを呆然と見つめた。


 満たされた。

 空腹も、渇きも、そして心に空いていた穴までもが、ジャンクフードによって埋め尽くされた。


「……ふぅ」


 カイトは空き袋を回収し、ゴミ箱へ捨てた。


「さて。元気になったみたいだし、本題だ」


 彼は椅子に座り直し、事務的な口調になった。


「君は国の重要人物なんだろ? ここを出て、国へ帰る手配をしてやる。送っていってやってもいい」

「……え?」


 エリスの動きが止まった。

 帰る?

 国へ?


 脳裏に蘇る、かつての生活。

 カビ臭い神殿。

 味のない冷たい粥。

 「清め給え」と強要される毒の吸引。


 そして、今体験した「楽園」。

 清潔な空気。

 脳が溶けるほど美味しいお菓子。

 刺激的な黒い水。


 比較するまでもない。

 エリスの瞳から、ハイライトが消えた。

 彼女はゆっくりと顔を上げ、据わった目でカイトを見つめた。


「……帰りません」

「は?」

「絶対に、帰りません」


 彼女は断言した。


「あんな味のない粥と、腐った空気の国になんて……死んでも帰りません!!」

「いや、でも聖女としての務めが」

「知ったことですか! 私は使い捨てのフィルターじゃありません!」


 エリスはベッドから飛び降り、カイトの足にすがりついた。

 その姿は、信仰に身を捧げる聖女ではなく、欲望に目覚めた一人の少女だった。


「カイト様! お願いです、私をここに置いてください!」

「えぇ……。困るよ、部屋が埋まっちゃうし」

「働きます! 掃除でも洗濯でも、空気清浄機のフィルター交換でも何でもします! 私、細かい作業は得意なんです!」


 彼女は必死だった。

 ここで追い出されたら、二度とあの「コンソメパンチ」を味わえないかもしれない。

 それは、死刑宣告よりも恐ろしいことだった。


「給金はいりません! 衣食住だけで結構です!」

「いや、だから……」

「その代わり!」


 エリスはカイトのズボンを握りしめ、涙ながらに叫んだ。


「そのシュワシュワする黒い聖水と、魔法のパリパリを……定期的に配給してください!! それだけで、私は貴方の犬になります!!」


 プライドの崩壊。

 国家の最高戦力である聖女が、スナック菓子一袋で魂を売った瞬間だった。


 カイトは頭を抱えた。


「……またかよ。また餌付けしちゃったよ」


 レナの時はカレー。今回はポテチ。

 自分の作る(というか出すだけの)食事が、異世界人にとってどれほど劇薬か、彼はまだ完全には理解していなかった。


「はぁ……。わかったよ。とりあえず、保護預かりってことにしておく」

「ありがとうございます! 一生ついていきます、マスター!」


 エリスは満面の笑みで、カイトの手に頬ずりした。

 その唇には、まだ微かにコンソメの粉がついていた。


 こうして、カイトの聖域に、また一人厄介な(そしてチョロい)居候が増えた。

 だが、彼女の亡命がきっかけで、政府が本格的に介入してくることになるのだが……それはまだ、少し先の話である。

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