第35話:空気清浄機という名の聖遺物
「ファイア」
俺がタブレットの発射ボタンをタップしようとした、そのコンマ一秒手前だった。
「待ってください主様ッ!」
横にいたレナが、俺の腕をガシッと掴んだ。
彼女の瞳は、モニターの中の「ゾンビ(に見える物体)」を凝視している。
「生きています! 微かですが……あの包帯の下に、理性の光が見えます!」
「はあ? 理性?」
俺は眉をひそめた。
改めて画面を見る。泥とヘドロにまみれ、黒い瘴気を撒き散らす人影。どう見ても、バイオハザードなクリーチャーだ。
だが、Sランク冒険者の「索敵眼」が言うなら間違いはないのだろう。
「……チッ。人間かよ」
俺は舌打ちをして、タレットの攻撃シーケンスを中止した。
人間なら、焼き払うわけにはいかない。
だが、だからといって歓迎できる相手でもない。
「あの汚れ方は尋常じゃないぞ。歩く汚染源だ。あんなのをリビングに入れたら、クロスを全部張り替える羽目になる」
「で、ですが、放っておけば死んでしまいます!」
「わかってるよ。……はぁ」
俺は重い腰を上げた。
せっかくのティータイムが台無しだ。
「レナ、防護服を着ろ。回収に行くぞ」
「はい!」
「ただし! 絶対にリビングには通すな。一番換気扇が強力な『第2客間(隔離病棟)』へ直行だ。床には養生テープを貼っておいたから、その上を歩かせろよ!」
◇
搬入作業は、爆弾処理のような緊張感の中で行われた。
レナが抱きかかえてきた少女――聖女エリスは、意識が混濁しており、常に口から黒い煙を吐き出し続けていた。
「ゲホッ、ガハッ……!」
彼女が咳をするたびに、廊下の空気が汚染されていく気がする。
俺は除菌スプレーを乱射しながら、彼女の後ろをついていった。
「ここだ。入れろ」
案内したのは、廊下の突き当たりにある「第2客間」。
元々は客用寝室だが、今は俺が「外から持ち込んだ汚い物を一時保管する部屋」として使っている場所だ。
壁も床も耐水性のパネルで覆われており、丸洗いができる。
レナがベッド(ビニールカバー付き)にエリスを寝かせる。
「主様、彼女、苦しそうです……!」
レナの言う通り、エリスの容態は悪化していた。
呼吸が荒い。
ヒューッ、ヒューッという、笛を吹くような音が気道から漏れている。
「肺が……腐った空気に……耐えられない……」
エリスがうわ言のように呟く。
俺は部屋のモニター数値を見て、状況を理解した。
「……逆か」
俺は冷静に分析した。
彼女は、外の空気が悪いから苦しんでいるのではない。
逆だ。
彼女の体内に蓄積された高濃度の汚染物質が、吐き出す呼気によって部屋の中に充満し、新鮮な空気と混ざり合って化学反応(炎症)を起こしている。
いわば「自家中毒」。
彼女は人間サイズの「排ガス装置」だ。
密閉された部屋の中で、自分が吐き出した毒ガスによって、自分自身を窒息させようとしているのだ。
「換気扇フル稼働でも追いつかないか。……彼女自身が汚染源じゃ、どうしようもないな」
レナが悲痛な顔で俺を見る。
俺はため息をつき、アイテムボックスを開いた。
「しょうがない。とっておきの『聖遺物(家電)』を出すか」
俺はガスマスクを締め直し、部屋へと踏み込んだ。
◇
エリスの視界は、黒い霧に覆われていた。
苦しい。
息が吸えない。
喉が焼けるように痛い。
(ああ……私は、自分の穢れに溺れて死ぬのね……)
それは聖女として、最も皮肉で、ふさわしい最期に思えた。
人々から吸い上げた罪と汚れ。それが今、許容量を超えて溢れ出し、私を殺そうとしている。
神様。どうか、苦しまずに――。
その時。
部屋の隅に、白い人影が立った。
防護服を着た男、カイトだ。
彼が床に置いたのは、艶やかな光沢を放つ、白く巨大な「直方体」だった。
それは祭壇のようにも、墓標のようにも見えた。
カイトが、その天面に手をかざす。
「スイッチ、オン」
ピッ。
澄んだ電子音が響いた。
直方体の前面パネルが、ウィィィン……という音と共に、自動でせり上がり、開いていく。
内部から、神秘的な「青い光(LED)」が漏れ出した。
(光……?)
エリスが霞む目でそれを見つめた瞬間。
ゴォォォォォォォォ……!
低い駆動音が響き、猛烈な勢いで空気が動き始めた。
部屋に充満していた黒い霧(瘴気)が、みるみるうちにその機械の「口」へと吸い込まれていく。
SHARP製・加湿空気清浄機(プラズマクラスター搭載ハイグレードモデル)。
現代日本の家庭を守る、空気の番人。
その強力なファンが、物理法則に従って汚れた空気を強制吸引し、高性能HEPAフィルターで濾過していく。
そして、機械の背面から吐き出されたのは――
「……あ」
目に見えない微粒子。
プラズマクラスターイオン。
それは、空気中に漂うカビ菌やウイルスを分解・除去する、科学の精霊だ。
エリスの目には、それが奇跡に見えた。
あの白い箱が、私の汚れを食べてくれている。
そして、代わりに「光の粒子」を吐き出し、部屋を満たしていく。
機械の正面にあるモニターランプが、「赤(汚れています)」から「橙」、そして鮮やかな「緑」へと変わる。
それはまるで、神による赦しのサインのようだった。
「……」
エリスは、恐る恐る息を吸った。
いつもの「ジャリッ」とした痛みがない。
鉄錆の味もしない。
腐った卵の臭いもしない。
あるのは、適度な湿度を含んだ、無味無臭の気体。
「……甘い」
彼女の口から、その言葉が漏れた。
甘い。
砂糖の甘さではない。生命が根源的に求めていた、酸素本来の甘み。
加湿機能によって潤いを与えられた空気が、荒れた気道を優しく撫でていく。
発作が止まった。
彼女はただ、呼吸を繰り返した。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
たったそれだけの行為が、この世のどんな快楽よりも心地よく、尊いものに感じられた。
生きている。
肺が、喜んでいる。
ボロボロの包帯の隙間から、涙が溢れ出した。
透明な涙だ。黒い毒素は、もう混じっていない。
「ありがとうございます……。ありがとうございます、神様……」
彼女はベッドの上で、白い機械に向かって祈りを捧げた。
その姿は、聖なる御柱を崇める信徒そのものだった。
◇
「……大げさだな」
俺は部屋の隅で、腕を組んでその様子を見ていた。
ただの家電だぞ。
まあ、この世界の人間からすれば、空気清浄機は「風の精霊を閉じ込めた箱」に見えるのかもしれないが。
俺はフィルターの寿命を心配しながら(あの黒い煙、一発でフィルターが詰まりそうだ)、少しだけ目を細めた。
「……花粉症の時でも辛いのに、あんな煤煙だらけじゃな」
彼女の体はボロボロだ。
国のために毒を吸い続け、最後は捨てられた。
その境遇には、少しだけ同情する。
俺もかつて、パーティのために雑用をこなし、捨てられた身だからだ。
「まあ、ここは『掃き溜め』じゃない。リサイクル工場だ」
俺は部屋を出て、静かにドアを閉めた。
去り際に、一言だけ声をかける。
「ゆっくり吸いなよ。電気代(MP)なら売るほどあるから」
それが、俺なりの不器用な優しさだった。
エリスは深々と頭を下げ、機械から吹き出る風に顔を埋めた。
まるで、母親の胸に抱かれるように。
かくして、一人の聖女が救われた。
魔法でも祈りでもなく、シャープの技術力によって。
だが、彼女の受難はこれで終わりではない。
呼吸の次は、「食」のカルチャーショックが待ち受けているのだから。




