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第33話:聖域(サンクチュアリ)の誕生

 拠点都市「第3セクター」。

 その中心部にある商工ギルドの特別応接室は、重苦しい沈黙に包まれていた。


 普段なら、利権を貪る商人たちの談笑が響く豪華な部屋だ。

 だが今は、血と泥、そして消毒用アルコールの臭いが充満している。


「……報告せよ。西の山で、何を見た?」


 低い声で問うたのは、都市防衛軍の将軍だ。

 彼の周りには、ギルドマスターや高官たちが渋い顔で並んでいる。


 彼らの視線の先にいるのは、担架に乗せられた二人の男。

 一人は、全身を包帯でぐるぐる巻きにされた商人、クロガネ。

 もう一人は、虚ろな目で天井を見つめ続ける男――元冒険者の剛田だ。


「あ、悪魔だ……。いや、あれは神だ……」


 クロガネが震える唇で口を開いた。

 彼は死の森から生還した数少ない生き残りだが、その精神は恐怖で摩耗しきっていた。


「落ち着いて話せ。山頂には何があった? ドラゴンの巣か? 古代兵器か?」

「城だ……」


 クロガネは夢遊病者のように呟いた。


「継ぎ目のない、純白の城壁サイディングだった。泥も、苔も、血すらも弾く、完全なる白……」

「白壁だと? 石灰岩か?」

「違う! あんな均一な素材、この世のものじゃない! それに、城を囲む銀色の結界フェンス……。魔法を弾き返し、剣をへし折り、傷一つ付かない鏡の壁だ!」


 高官たちが顔を見合わせる。

 この世界において、風化しない建造物など存在しない。

 都市そのものが生き物であり、常に建物を侵食・消化しようとするからだ。

 それが「汚れ一つない」状態で存在しているなど、物理的にありえない。


「攻撃を受けたのか?」

「……雨だ。黒い雨が降った」


 クロガネは自分の腹をさすった。そこには巨大な紫色の痣が残っている。


「魔法じゃない。あれは……『重力の塊』だ。触れた瞬間に骨を砕く、黒い石礫つぶて。それが豪雨のように降り注いだんだ……!」


 毎分3000発のゴム弾掃射。

 それを知らない彼らにとっては、正体不明の質量兵器による爆撃にしか見えなかっただろう。


「部隊は壊滅した。抵抗など無意味だった……」


 クロガネが頭を抱えて震え出した。

 将軍は視線をもう一人の男、剛田に移した。


「おい、そっちはどうだ。喋れるか?」


 剛田は反応しない。

 ただ、ブツブツと譫言うわごとを繰り返している。


「天国……あそこは天国なんだ……入れてくれ……俺も……」


 廃人同様だ。

 だが、ギルドマスターが剛田の体に触れ、目を見開いた。


「……こいつ、生きているぞ」

「なに?」

「見てみろ。肉化病の進行が止まっている」


 ギルドマスターが剛田の包帯をめくる。

 そこにあるのは、ただれた皮膚だ。だが、腐敗臭がしない。

 膿も出ていない。

 まるで、時間が凍結されたかのように、傷の状態が「固定」されている。


「これは……『ハイポーション(最高級回復薬)』か? いや、それ以上の秘薬で防腐処理されている……」


 その事実に、会議室がざわめいた。

 ハイポーションといえば、金貨数百枚は下らない国宝級のアイテムだ。

 それを、こんな薄汚れたゴロツキに使ったというのか?


「侵入者を皆殺しにはしなかったのか?」

「ああ……。領主は、最後に現れた」


 クロガネが思い出すように語る。


「白い防護服を纏った『死の天使』のような姿だった。彼は、瀕死の剛田に黄金の秘薬を与え、命を救ったのだ……」


 誤解の連鎖が始まった。


 カイトの真意は「死体が腐ると臭いから、防腐剤をかけて捨てた」だけだ。

 だが、常識的な人間には、そんな発想はできない。

 敵に高価な薬を使う理由は一つしかない。


 ――慈悲だ。


「なんと慈悲深い……。圧倒的な力で蹂躙しておきながら、殺生を嫌い、愚か者に情けをかけるとは」

「高潔な精神の持ち主か。あるいは、人間という種を超越した存在か」


 畏敬の念が、恐怖を上書きしていく。

 圧倒的な武力。未知の建築技術。そして、敵を救うほどの財力と慈悲。

 導き出される結論は一つだ。


「あそこは、我々が触れていい場所ではない」


 将軍が重々しく宣言した。

 彼はデスクの上の地図を広げ、西の山岳地帯に、赤いインクで大きく×印を付けた。


「以後、この山を『立ち入り禁止区域ノーマンズ・ランド』とする。軍も、商人も、冒険者も、一切の立ち入りを禁ずる」

「異論はない。下手に刺激して、あの『黒い雨』がこの都市に降ったら終わりだ」


 地図上の空白地帯。

 誰の支配も受けず、誰も侵入できない、隔絶された場所。


「呼び名は……そうだな」


 ギルドマスターが、剛田の呟きを聞き取って言った。


「穢れなき場所。『聖域サンクチュアリ』だ」


 その日、新しい伝説が地図に刻まれた。


 ◇


 ――一方、その頃。

 世界中から恐れられ、崇められ始めた「聖域」の中心で。

 当の領主様は、ベランダに出て空を見上げていた。


「んー、いい天気」


 カイトは眩しそうに目を細めた。

 結界内の空は、抜けるように青い。

 湿度40%。そよ風が吹く、絶好の行楽日和だ。


 彼は手にした「白いTシャツ」を、パンパンッ! と小気味よく叩いた。

 そして、物干し竿に掛ける。


「今日はよく乾きそうだ」


 洗濯物だ。

 外の世界では、洗濯物を外に干すなど自殺行為に等しい。

 空からは灰や胞子が降り注ぎ、乾く頃には灰色に汚れ、カビ臭くなっているのがオチだからだ。

 だから人々は、室内で湿っぽい服を乾かすしかない。


 だが、ここでは違う。

 太陽の光をたっぷりと浴び、風に揺れる真っ白なシャツ。

 柔軟剤のフローラルな香りが、庭に漂っている。


「うん、白い。完璧だ」


 カイトは満足げに頷いた。

 剛田たちを追い出したおかげで、庭の空気も浄化された。

 昨日の戦い(掃除)の成果が、この白さに表れている。


「やっぱり、不法投棄は許しちゃいけないな。環境維持は住民の義務だ」


 彼の中には「慈悲」など欠片もない。

 あるのは「自分のTシャツを白く保ちたい」という、極めて個人的かつ強固なエゴだけだ。

 それが外の世界で「神の慈悲」と誤解されていることなど、知る由もない。


「主様、冷たいお茶をお持ちしました」


 背後から、レナが盆を持って現れた。

 氷がカランと鳴るグラス。

 彼女もまた、この平和な午後の空気を楽しんでいる。


「ありがとう。……外の様子はどうだ?」

「はい。街の方角から、多数の視線と探知魔法の気配を感じます。おそらく、昨日の騒ぎで噂が確定情報になったかと」

「だろうな」


 カイトはグラスを受け取り、一口飲んだ。冷たい。


「ま、入ってこないならどうでもいいよ。勝手に崇めるなり、恐れるなりしてくれればいい」

「はい。この半径二十メートルの安寧さえ守れれば、世界がどうなろうと関係ありませんね」


 二人は顔を見合わせて笑った。

 それは英雄の笑顔ではなく、共犯者の笑顔だった。


 カイトはタオルに顔を埋め、深呼吸する。

 太陽の匂い。

 この匂いを守るためなら、彼は何度でもタレットの引き金を引くし、ハイポーションを防腐剤としてばら撒くだろう。


「あー、平和って最高」


 至福の表情で、カイトは呟いた。

 だが、彼はまだ知らない。

 その「平和」を求めて、新たな、そして今までで一番厄介な「入居希望者」がこちらに向かっていることを。


 ◇


 場所は変わり、遠く離れた王都。

 かつては栄華を極めた大聖堂も、今は黒ずんだ苔に覆われ、見る影もない。


 その最奥の部屋。

 重苦しい空気の中で、一人の少女が咳き込んでいた。


「ゲホッ、ゴホッ……!」


 聖女エリス。

 金髪碧眼の、儚げな美少女。

 だが、その体は病魔に蝕まれていた。

 右半身が、植物の根のような奇怪な組織に侵食され、皮膚を突き破っている。

 彼女はそれを隠すように、包帯を幾重にも巻いていた。


「聖女様……お加減は……」

「大丈夫です……。まだ、祈れます……」


 彼女は気丈に振る舞うが、その顔色は死人のように白い。

 彼女は「聖女」と呼ばれる生体フィルターだ。

 人々の汚染や病を、その身に引き受けて浄化する。

 だが、限界はとうに来ていた。彼女自身の体が、都市の汚れに耐えきれず、モンスター化し始めているのだ。


「聖女様……噂をお聞きになりましたか?」


 付き従う老神官が、意を決したように囁いた。


「西の辺境……死の森の奥に、『あらゆる汚れを浄化する白亜の城』があるとの噂です」

「白亜の……城……?」

「はい。そこには、腐らない水があり、穢れを知らぬ空気が満ちているとか。……もしそれが真実なら」


 エリスは顔を上げた。

 濁った瞳に、微かな希望の光が宿る。


「そこに行けば……この体も、綺麗になるでしょうか……?」


 神に祈っても、体は腐っていく一方だった。

 だが、その「聖域」ならば。


「……行きます。たとえ噂でも、このまま腐り落ちるよりは」


 エリスは立ち上がった。

 足元の根が、床板を軋ませる。


 新たな来訪者が動き出した。

 彼女はまだ知らない。

 自分が求めている救済が、神の祈りではなく、「空気清浄機」と「ポテトチップス」によってもたらされることなど、想像もしていなかった。

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