第32話:アイスクリームと勝利の余韻
ウィィィン……ガシャン。
重厚な駆動音が響き、庭の芝生が閉じる。
役目を終えた二連装ガトリングタレットが、地下格納庫へと収納された音だ。
リビングのソファで、俺はタブレット端末の電源を落とした。
黒い画面に俺の気だるげな顔が映る。
「ふぅ。……労働のあとは腹が減るな」
指一本しか動かしていないが、精神的なカロリーは消費した。
不快なもの(汚物)を長時間直視したストレスだ。糖分を補給しなければならない。
その時、玄関の方から軽快な足音が近づいてきた。
ドアが開く。
「主様! ただいま戻りました!」
入ってきたのは、レナだ。
彼女は裏庭での戦闘(掃除)を終え、シャワーを浴び直してきたらしい。
新しいTシャツとショートパンツに着替え、まだ湿った銀髪からは、フワリとシャンプーの甘い香りが漂っている。
頬は上気し、肌はツヤツヤだ。
さっきまで竹箒で人をホームランしていたとは到底思えない、湯上がりの美少女。
「お疲れ、レナ。庭の汚れは?」
「完璧です! 飛び散った鎧の破片は分別回収し、芝生には次亜塩素酸水を散布しました。ホコリ一つ、血の一滴も残しておりません!」
彼女は胸を張って報告した。
Sランク冒険者の戦闘能力を、すべて「家事」に全振りした結果がこれだ。頼もしい限りである。
「そうか。……少し、運動したから暑いだろ」
「はい、少しだけ。でも、この部屋は涼しいので生き返ります」
レナは目を細めてエアコンの風を受けた。
確かに涼しい。
だが、戦いの熱を冷ますには、空調だけでは物足りない。
俺は立ち上がり、キッチンへと向かった。
「じゃあ、勝利の祝杯といこうか」
「お酒ですか? まだ日が高いですが……」
「いや、もっといいものだ」
俺は大型冷蔵庫の、下の段に手をかけた。
冷凍室。
この世界において、最も「ありえない」空間。
ガコッ。
引き出しを開ける。
白い冷気(ドライアイスのような煙)が溢れ出し、床を這う。
その中から、俺は二つのカップを取り出した。
青いパッケージ。金色の文字。
「スーパーカップ・超バニラ」。
質より量、圧倒的な満足感を誇る、庶民の王様だ。
「……こ、これは?」
レナが目を丸くする。
俺は木のスプーン(このチープさが逆にいい)を添えて、彼女に手渡した。
「アイスクリームだ。……この世界風に言えば、『氷菓子』かな」
「こお、り……?」
レナはカップを受け取り、戦慄した。
冷たい。
表面に霜が降りている。カチカチに凍っている。
「王宮の……デザート……?」
彼女の常識が悲鳴を上げた。
この世界で「甘い氷」を作るコストは計り知れない。
宮廷魔導師がつきっきりで冷却魔法を維持し、希少な砂糖と、腐りやすい牛乳を同時に用意し、攪拌する。
一口で金貨数枚が飛ぶ、幻の贅沢品だ。
それが、こんな紙のカップに入って、無造作に出てくるなんて。
「溶けないうちに食べよう。座って」
「は、はい……! いただきます……!」
俺たちはソファに並んで座った。
俺は慣れた手つきで、ペリペリと紙の蓋を開ける。
中には、銀色のフィルム(内蓋)。
「開けるぞ」
ピリッ。
フィルムを剥がす。
「……っ!」
レナが息を呑んだ。
現れたのは、純白の表面。
雪山の新雪のように滑らかで、バニラの甘い香りが冷気と共に立ち上る。
「美しい……。宝石のようです……」
「早く食わないと溶けるぞ」
俺は木のスプーンを突き立てた。
サクッ。
適度な抵抗感。少し溶けかかった、一番美味しい硬さだ。
たっぷりとすくい上げ、口に運ぶ。
――冷たッ。
口に入れた瞬間、脳天に響く冷気。
剛田たちが泥沼の熱気で苦しんでいる今、この「マイナス18度」の塊は、暴力的なまでの快楽だ。
そして、甘さ。
濃厚な乳脂肪分と、バニラエッセンスの香り。
舌の熱でトロリと溶け、喉を潤していく。
「……美味い」
思わず声が出た。
これだ。平和の味だ。
俺はチラリと横を見た。
レナは、まだ一口目を口に入れていなかった。
スプーンに乗せた白い塊を、神聖な秘宝のように見つめている。
そして、意を決して、パクッと含んだ。
「ん……!」
彼女の目が、カッと見開かれた。
肩がビクリと跳ねる。
「んぐっ、んんっ……!」
冷たさに驚き、甘さに悶絶している。
彼女の手が小刻みに震え、足がバタバタと動く。
やがて、ゴクリと飲み込むと、彼女はほうっと白い息を吐いた。
「あ、甘い……冷たい……美味しい……!」
「だろ?」
「信じられません……! 口の中で雪が溶けて、それがミルクに変わって……頭がキーンとします! これは魔法ですか!?」
「ただの乳製品だ」
レナは夢中で二口目をすくった。
もう止まらない。
冷房の効いた部屋で、冷たいアイスを食べる。
「寒暖差」というスパイスがない、ただひたすらに涼しいだけの贅沢。
外の地獄を知っている彼女にとって、これは麻薬以上の破壊力を持っていた。
「……外、うるさかったね」
俺はアイスを食べながら、何気なく言った。
窓の外。
二重サッシと遮光カーテンの向こう側。
遥か遠くの山麓からは、まだ微かに傭兵たちの絶叫や、血の匂いに興奮したモンスターの咆哮が響いているかもしれない。
だが、この部屋の中には、エアコンの送風音と、スプーンがカップに当たる音しか聞こえない。
ノイズキャンセリングされた世界。
レナは、窓の方を一瞥もしなかった。
彼女の視線は、手元のバニラアイスに釘付けだ。
「ええ。少し騒がしかったです」
彼女は興味なさそうに答えた。
「でも……早く食べないと、アイスが溶けちゃいますから」
人の命よりも、アイスの溶け具合。
元Sランク冒険者の口から出たとは思えない、平和ボケしたセリフ。
だが、それでいい。
この「優先順位の逆転」こそが、俺が守りたかったものだ。
明日生きるか死ぬかではなく、今のアイスが溶けるかどうかに一喜一憂できる生活。
俺は最後の一口を口に運び、空になったカップをテーブルに置いた。
体の芯から熱が引いていく。
汗が引き、肌がサラサラになる。
俺はソファの背もたれに体を預け、天井を見上げた。
「あー、平和って最高」
心からの言葉だった。
誰にも邪魔されず、好きな時に好きなものを食べる。
剛田たちの悲鳴すら、このアイスの味を引き立てるスパイス(BGM)だと思えば、悪くない。
レナもまた、空になったカップを名残惜しそうに見つめ、ペロリと唇を舐めた。
「……最高です、大家さん」
彼女の瞳には、揺るぎない忠誠心が宿っていた。
(この味を守るためなら、私は国一つだって滅ぼせる)
そんな物騒な決意が見え隠れするが、まあ、頼もしいから良しとしよう。
◇
その頃、山の下の街「第3セクター」では、生きて帰った商人と剛田たちの証言により、噂が爆発的に広まり始めていた。
『肉塊の森の奥に、穢れを知らぬ白亜の城がある』
『そこにはSランクの守護者と、冷酷だが慈悲深い領主がいる』
『侵入者は黒い雨に打たれ、選ばれた者は不老不死の氷菓子を賜るという……』
噂は尾ひれをつけて拡散し、やがてその場所は「聖域」と呼ばれ、不可侵の場所として崇められることになる。
そして、その噂を聞きつけた新たな「入居希望者」――国に見捨てられた薄幸の聖女が、ボロボロの体で山へ向かっていることなど、俺はまだ知らない。
今の俺にとって重要なのは、明日の朝ごはんのメニューと、溜まったゲームの消化だけだった。
「レナ、おかわりあるぞ」
「はいっ! いただきます!」
平和で、冷たくて、甘い夜が更けていく。




